六日目(1)
その扉を開いた瞬間、何故か急に懐かしい匂いがした気がした。零箱ではずっと閉め切った部屋にいたはずで、嗅いだ匂いと言えば柔軟剤の匂いや食べ物の匂いぐらいかと思っていたのだけれど。けれどそれが何の匂いかは、よく分からなかった。海でも草でも土でも無い。ただ、何処か懐かしい。
「あ…」
さくらは小さく息を漏らす。分かった、と心の中で思う。それは、太陽の匂い。暖かな。
けれどそれを感じたのは一瞬で、とすん、と地面に足を付けた途端さくらはごくりと唾を飲む。病院の丁度目の前の通りだった。ごうごう、と激しい風の音が聞こえる。そして時折鳴る雷。雨は降っていないが、まるで台風のようだ。空は暗く太陽など見えない。道を歩く人は極少なく。皆俯いて歩く。神が何処にいるのかは分からない。そして、守人というものは一体何なのだろう。さくらは胸の中の巡雨をかき抱く。
「――行くぞ」
後ろの舞雲が声を掛ける。
「あの――隠れたほうが…」
どう考えてもこの大きさの鳥が街を歩くのには違和感がある。しかし、巡雨はその問いに笑い返す。
「見る意志のない者には見えない」
さくらは首を横に傾げる。その時、目の前から来たスーツを着た男とぶつかった。しかしその男は何にも触れなかったかのようにそのまま歩く。巡雨はそれを見て頷いた。
「――身も、見えない」
あぁ、とさくらは嘆息する。そう言えばさくらも幽霊のようなものなのであった。
「…見てみろ」
舞雲が翼を病院に向ける。さくらは眉をひそめた。特に何でもない光景に見える。暗い空の下の病院。しかし舞雲は首を横に振った。
「きちんと、意志を持って見ろ」
困惑しつつも、もう一度病院に目をやる。刹那、さくらは息をのむ。
そこには、竜が居た。昔話の挿絵で見るような、竜。長い身体には鱗がびっしりと敷き詰められ、鬣が背まで伸びている。鋭い爪を持つ手は小さく、胴体と尾は長い。顔は大きく目が見開かれ、裂けそうに大きい口からは牙のようなものが見える。
「…あれは…」
巡雨も真剣な面持ちでそれを見る。
「――あれが守人だ。大気を操る。それを時に、風という」
あれが、と呟いた言葉はあっという間に風によって吹き飛ばされる。その竜は、病院にとぐろを巻くように、いた。建物全体に三巻きはしているであろう。大きな身体は何かを守ろうとしている。――何か。考えてさくらはすぐに思い当たる。
「…私の、器」
母の近くで眠っていると言っていた。だとすればそれは病院で。
「行くぞ。加勢する」
言われてさくらは慌てて頷く。腕の中から巡雨が滑り降り、あっという間に大きなサイほどに大きさを変えた。舞雲も翼を広げて飛び立つ。
――これは、俺にしかできないんだ。そう、思い上がるしかない。俺以外の誰にも出来ない。俺には出来る。そう思って、ここまで来たんだ。
睦大和の言葉が耳の奥でに響く。どうにかするしかない。ごうごうと顔に吹き付ける風。絶対に、守る。これは、私にしかできない。喉の奥で何かがひりひりと痛む。鳩尾が、右のふくらはぎが熱い。さくらはごくりと唾を飲み込む。出来る。出来る。絶対に出来る。絶対にやる。
僅かな距離なのに、その病院までの距離が酷く遠く感じた。風は容赦なく身体にたたきつけ、稲光は激しく何度も轟く。神鳴と、竜巻が。
そして、道路を渡りきったところでだった。巡雨が、叫び声を上げる。
「――流風!」
それは、誰かに呼びかけるような。
そして、舞雲が静かに呟く。
「――思い出した。全てを」
「…え?」
乗れ、と促されてさくらはその鳥に乗る。鳥はふわりと浮くとそのまま竜の顔の近くまで昇った。
「…舞雲?」
「――私達は、支えるものと化したときに、全ての記憶を失った。それを、今、思い出した」
「…思い出したって…何を?」
問うと舞雲は青い目を細める。笑ったように、見えた。
「――そこの竜、流風は私の弟だ」
さくらは息をのむ。弟。
「…どういう…」
そうして、と舞雲は視線を前に向ける。そこにはそこには男が一人、宙に浮いている。黒い山高帽。黒いロングコート。銀の髪。青い瞳。神がそこにはいる。舞雲は、淡々と言葉を紡ぐ。
「そこにいる男は…私達の父だ…。それから――」
「舞雲」
静かな、それでいて良く通る声だった。距離にして百メートルほど離れたところから、この風と雷のなか、くっきりとその声は耳へ届く。
「――久しいね」
さくらはその男をじっと見つめる。あの時感じた恐怖は、少し薄らいで感じた。舞雲は、この男を父と言った。竜が弟。神が父。どういうこと、と問いたかったがしかし舞雲の緊張感がその背から伝わって来てさくらは口をつぐむ。
それから、男は巡雨の方に顔を向ける。
「――会いたかったよ。巡雨」
さくらは眉をひそめてその男を見る。瞳はやや揺らいでいて、何処か正気でないように見える。男は、それからまた舞雲に視線をやる。
「その背にいるのは――零箱宿主だね」
神は笑顔をさくらに向ける。さくらは簪を握りしめる。
「――流風。少し休戦だ。このお嬢さんと話がしたい」
竜は神をじっと睨み付ける。神は、笑う。
「何もしないさ。久しぶりにお前も家族水入らずの時を過ごすと良いよ。――おいで」
ぐん、とさくらは何かに押された――ような気がした。しかしそれは間違いで、正確には神から引き寄せられた、と言う方が正しい。
「さくら!」
その声は、竜を挟んだ奥から。巡雨の。
あぁ、と男は笑顔を巡雨に向ける。
「――安心しろ巡雨。何もしない」
神は笑い、そのままさくらを落下させる。同時に、彼も下へと降りた。
ぺたり、と腰から地面に柔らかく落とされる。上空を見やれば、竜とその左右に巡雨と舞雲がいる。さくらは深く息を吐き出す。ふと気づけば、そこは駐車場だった。あの時と、同じ。目の前の男を見る。いつの間にか風と雷は止んでいた。
「久しぶり…と言うほどではないね」
彼は笑う。さくらはそれには応えず、簪を握りしめたまま彼をじっと見つめる。
「どう?青紋のない身体にはだいぶ慣れたかな?」
「…どうして、零箱を壊したいんですか」
問うと男は楽しげに。
「どうして?おかしなことを言うね。決まってるじゃないか。例えば君が――何でも良い。絵を描いたとするよね。沢山の時間を費やし完璧な絵が描けた。素晴らしい。額に入れて飾る。けれどそれを、誰かが滅茶苦茶にしたとしたら?汚い色で汚したとしたら?君は怒るだろう。出来ればその滅茶苦茶にした犯人を八つ裂きにしたいと思うだろう。それから、その汚したところをどうにか復元したいと思わないかい?何かで拭って、綺麗に、元通りにしたいと思わないかい?」
その喩えが箱のことを言っているのだとは分かる。しかし。さくらは眉をひそめる。
「…けど、そこに人の命があるなら…私はそんなこと」
「ふっ…あははははははっ!あは…はははっ」
突然言葉を遮って笑い出した神をさくらは凝視する。何処か恐ろしい笑い。
「人の命!よく言うねえ…随分他の箱の宿主に可愛がって貰ったのかなあ?」
そうして神は歪んだ笑みをさくらに向ける。
「自らの命を絶とうとしていた子が、よく言うよ」
さくらは下唇をかみしめる。簪を握りしめて、じっと神を見る。
「――自殺しようとしていた人間は、何を口にしても駄目なんですか」
その言葉に神は片眉を上げる。
「私は確かに、死にたいと思いました。簡単に未来を描いて、もういいやって…逃げました」
受け入れることはしなかった。幸せを求めることもしなかった。母に愛して欲しいと願うことすらしなかった。何もせずに、ただ辛いと泣いた。けれど。
「でも。もう、逃げないです」
「――逃げずにどうする?」
「零箱を、守ります」
それが、さくらに出来る“するべきこと”だった。睦大和が、初音守が、絹小紅が。鈴茜が、製作所で見た沢山の死体達が。彼らが命を懸けて願っていたこと。
いつか、巡雨が言っていた。命は何かの目的を目指して産まれるもの、と。さくらは宿主として生を受けた。それと同時に恐らく、この神と対峙して零箱を守るという目的も担っていたのかもしれない。
本当は、そんなことはないのかもしれない。けれど。睦大和の真っ直ぐな瞳を、思い出す。思い上がるしかないのだ。私にしかできない。これをするために、私は産まれて来た。これが出来るから、産まれて来た。大丈夫。さくらは神を見据える。私なら出来る。
ふ、と神が唐突に笑んだ。
「守る。成る程ね。けれど私は不死だ。――お前はもう…そうだ、明日には死ぬであろう。お前に、何が出来る?」
さくらは笑う。そんなことを言う神が、急に幼く見えた。何も知らぬ。箱の中で、何が行われているかなんて。知ってはいるけれど、きっと理解はしていない。
握りしめた簪は、いつの間にか温みを持っている。さくらの手のひらの。そしてそのさくらの手のひらの熱は、沢山の人がくれたもので。
「繋ぎます」
それは明確な答えで。
「巡雨を、繋ぎます。そうして、ずっと守る」
「――させると思うのか?」
遠くからゴロゴロという音がする。
「…お前を世界から殺す。それで仕舞いだ」
さくらは立ち上がり、神を見据える。心臓が早鐘を打つ。落ち着かなくては、と思うのに頭の奥からドクドクという音が激しくなり何も思考できなくなる。そして、ふと何処か神の言葉に違和感を感じる。世界から殺す、と神は言った。それは一体どういう意味なのだろう。何故神が今、さくらを殺す必要がある?そもそも零箱から白の部屋に落とし、殺したのは神ではないか。それをわざわざ、もう一度今度は世界から殺す理由があるのか。明日にはさくらは消滅する。それを何故?
浅く呼吸を整える。今まで出会った人々は、何と言っていた?何かがおかしい、と初音守が言っていた。それから、誰かが――。
――神の目的が、或いは零箱の消滅ではないのであれば。
それは、歌椿の言葉で。
ドクドクという音が更に激しくなる。もう、雷の音すら聞こえなくなる。視界はギリギリ神を捕らえているが、その周りは殆ど消えている。
彼は一体、何を必死になっているのだろう。さくらを――或いは零箱をどうにかしたければ、歌椿の言っていたようにただ放って置けば良かったのだ。天使など送り込まず。その天使に鋏などを与えず。だとすれば、神の目的は零箱の宿主になることということになるのだろうか。否、時間はたっぷりと稼げていたはずだ。もうさくらの器にも入り込めているはずで。一分やそこらでは無理だと言っていたがこれだけの時間が過ぎれば、神は当然さくらの器に入り込んでいるのだと思っていた。そうすればさくらは、もう二度と器には戻れない。
流風が、守っているもの。
神が、求めているもの。
仮にそれが、器だとしたら――。
でも何故流風がそれを手にすることが出来た?
ごう、と風がさくらの周りを包む。もしかして、と心の中で何かが叫ぶ。そんなばかな。でも、もしもそうだったら――。
そうだ、とさくらは思う。宿主が自分の箱に入るとき、最後にいた場所へ戻るとそう言っていた。けれどさくらが戻ってきた場所は、病院の駐車場から僅かにずれた場所で。まるで、少し何かに飛ばされたように。
ドクドクという音が――身であるさくらに、あるのか無いのか定かではない心臓の音が、大きい。その激しい音に立っているのが辛いくらいに。
もうこれ以上考えるのは無理だった。
さくらは、一つの仮説を――落とすように口に出す。神を、ねめつけるように見て。
「…私を、白の部屋に落としたのは、あなたじゃなかった」
さほど大きな声を出したつもりはなかったが、その場の空気が止まったかのようだった。ドクドクという音はその瞬間に消失し、目の前の神が目を見開く。横に居る、いつの間にか頭を下へ向けていた竜と、その左右の支えるものも動かずにさくらを見つめる。
あの時感じた、何かがさくらを飲み込む感覚。
「――私を落としたのは、あなただったんだね」
さくらは神から目をそらす。そうして、視線をそれに合わせる。
「あなたが、守ってくれたんだね。――巡雨と、零箱と。そして、私を」
その生き物は、頷くように目を閉じた。それだけで十分だった。
「ありがとう。――流風」
そうだ。どうして忘れてしまっていたのか。あの時、母の病室から飛び降りたときに吹き上げた風。
彼が守る器。それはさくらの、きっと還る場所で。
さくらは竜を見つめた後に、神に視線を戻す。
「…あなたの目的は何?」
低い声で男は笑う。さくらの問いには答えずに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――私はね、ずっと巡雨を探していた。零箱の中に居ることは分かっていた。何度も…この、流風に邪魔をされながら…それでも、ずっと探していた」
さくらは彼を見つめる。
「巡雨を…?どうして…?」
男はさくらの声が聞こえぬように、ただ独白を続ける。
「そうして…ようやく見つけた。見つけたのは、四箱のばあさんだ」
――宿主は、箱に入るとその箱の宿主の元へ行く。壱箱へ入るときに歌椿がそう言っていた。
そう言うことか、とさくらは息を吐く。いつ彼女が来たのかは知らない。寝ている間だろうか。もしもさくらが歌椿に気づいて、何か話をしていたら、状況は変わったのだろうか。




