五日目(4)
簪を抜くと、絹小紅をゆっくりと抱きかかえた。胸からは一筋、赤い線が流れている。弛緩した彼女の身体は、まだ僅かに温みを帯びていた。不思議だ、とさくらは絹小紅の上向きになった口角を見つめる。あのときは、とても冷たく感じたのに、と。
そうして、ゆっくりと神殿へ戻る。絹小紅は僅かに軽くなっていた。身と命が抜けたのだと理解する。それから、血も。さくらは入り口に立つ。初音守が、こちらを見た。
「さくら…」
彼は荒い息を零しながら、さくらの腕の中の少女を見る。そして、両目を瞑ると天を仰いだ。
初音守の左半身は赤黒く染まっていて、左腕はぐにゃりと、あり得ない方向へと曲がっていた。その前には睦大和が大の字に倒れている。よく見ると、彼の腕と手首、足首には青い液体がべっとりと張り付いていた。それは床へ粘着しているように見える。
巡雨は小さく――まるでネズミのような大きさになっていた。その横に、身体を真っ赤に染めた一六三八が浮かんでいた。
「…戻ってきたのぉ? 零箱の宿主さん?」
真っ赤になった一六三八が言い、横に倒れている巡雨を蹴飛ばした。
さくらはゆっくりと絹小紅を初音守へ渡す。彼は顔をゆがめ、それから、その遺体を抱きしめた。
「――あなたもしかして」
そう言う一六三八に、さくらは静かに歩み寄る。
彼女は笑う。酷く楽しげに。
「ふふふふ…あははっ…! 殺したの? 殺したのね、彼女を」
その声がきんきんと響く。さくらの後ろには、白い鳥が一六三八を見ている。
「舞雲を取り込んだのね? そうなのね?」
一六三八が右手を挙げる。彼女の背後から、銀色の三日月が浮かび上がってくる。それには、赤がへばり付いていて。
さくらは歩みを止めない。
「好きよわたし、そーいうの」
「…さくら!」
一六三八の言葉に、初音守の声が重なる。目の前に三日月が赤い液体を落としながら落ちてくる。
ゆっくりとさくらは、右手に握りしめた絹小紅の簪を振り上げた。その先からも、赤い液体が落ちる。
何故だかは分からない。ただ、その三日月がとても薄く弱く感じた。簪を突き立てる。パキン、という乾いた小さな音がした。目の前で、銀色が散る。
「…何?」
一六三八の声が僅かに揺れる。足下には、三日月の欠片が散らばっている。一歩歩みを進めると、サンダルの下でパキパキと儚い音を立ててそれは粉になっていく。
「どうしてこんなことをするの…」
そう言葉を吐き出すと、一六三八の胸に簪の先を向ける。彼女は動かずに、呆然とさくらを見る。
「ねえ、どうして…?」
何が神だ。何が天使だ。さくらは唇の隙間から息を吐き出す。製作所で見たおびただしい死体。息子の亡骸を抱きしめていた鈴茜の姿。壊れた一六九六。割れた一七七三。傷ついた睦大和と初音守。倒れている巡雨。そして、もう、動かない絹小紅。
さくらは真っ直ぐに、一六三八を見つめる。
「それは、儂がそうしろと命じたからじゃの」
不意に、一六三八の後ろから声がしてさくらは身体を強ばらせる。それは、初音守も同様のようで、息をのむ気配がした。
「…あなた…」
それは懐かしい声。あの、暖かな手のひらの感覚が一瞬で蘇る。空気が、止まった気がした。キイン、と何か音が脳内を走る。目の前の風景は、くっきりと鮮やかで。
薄紫色の髪。鬱金色の瞳。そして、頬に浮かぶ青紋。
「――歌椿…」
初音守の言葉がさくらの耳に付着する。
「歌ばあちゃん!来てくれたのね」
甘えたような口調で、一六三八はその老婆の後ろに隠れる。
「…一六三八。儂は、嬢を殺せとは…命じておらんぞえ」
「ごめんなさあい。でも…勝手にそいつを庇って」
やれやれ、と歌椿はため息をつく。
さくらはただ、目の前の老婆を見つめていた。そこにいる歌椿は、穏やかな笑みを浮かべている。けれどその笑みは何処か冷たくて。あんな顔だったのだろうか。混乱する頭には何も思い出せない。あの時似ていると感じた、祖母の顔すらも。
「ちょっとやり過ぎじゃの。壊して良いのは零箱だけ、と言ったのにのう」
そう歌椿は言うと、後ろを振り返り、一六三八に向けて人差し指を向ける。パチンという音が僅かにする。その一瞬の間、だと思う。その間に、そこに一六三八は存在しなくなっていた。違う、とさくらは下唇を噛む。先程まで一六三八がいた場所の、その下の地面。そこに、一六三八はいた。正確には、一六三八の残骸が、そこにあった。
「――舞雲を取り込んだか。若干面倒なことになったの」
「…どうして…」
さくらは無意識にその問いを呟く。
「――さくら。お前さんはあの時、儂に問うたじゃろう。“宿主を辞めたいと思ったことはないか”と」
さくらは何も答えぬまま、老婆を見つめる。
「これが、儂の答えじゃ。どうして、といま問うたの。…そうじゃの。家族を人質に取られ、幽閉されたわけでもなく。祖父を殺しまた殺められるわけでもなく。弟に王位を追われ、歴史に名を刻めなかったわけでもなく。――世と断絶されて母に死を望まれたわけでもないからの」
「なにを…」
歌椿は笑う。
「そう…どうしてじゃろうの。どうして儂は、宿主を辞めたいのか。儂より辛い思いをした人間は山ほどおるからの。勿論、宿主ではなくてもじゃ。――けれど、儂は辛かった。誰にも分かってもらえなくとも。…誰かが聞いたら批判されるであろうな。『そんなことで』とな。けれど儂には、耐えられなかった」
ふ、と笑みを浮かべた後に、その顔はぐちゃりと歪む。
「――それもこれも、零箱のせいじゃ。零箱さえ出来なければ神は四つの箱を愛し、守ってくれていた。零箱のせいで神は見守ることを放棄し、“支えるもの”が産まれ、そして――宿主と言う存在が出来た。儂は…宿主になどなりたくなかった。儂は零箱が憎い。それらを作った祖先が憎い。そうして…それらを作った神すらも憎い」
さくらは息をのんで、歌椿を見つめる。初音守が、荒い息の隙間で、問いかける。
「――なのに、神に味方を?」
歌椿は、また笑った。もう、さくらの手のひらにはあの時のぬくもりは残っていない。じっとりとそこに、汗がにじむ。
「神は、儂の思いの全てを受け止めてくれた。――儂の憎しみも、全てを。じゃから儂は、残り僅かの人生を、神に捧げるのじゃ。零箱を滅ぼすという、その目的のために」
初音守が、息を吐く。
「――天使に僕らの居場所を教えたのは、あなたか」
「…そう。ご丁寧に逐一葉書で報告をしてくれて、助かったぞよ」
「零箱に天使がいたというのは…嘘?」
「お主らは阿呆じゃのう」
老婆は笑う。
「――あなたは…四箱の宿主だ。その、誇りと…責任を…」
「あるわけが無かろう。お主の所とは、違うのじゃからの。違う世界の、住人なのじゃから」
「けれど…」
初音守の絞り出すような言葉を、さくらはただ聞いていた。身体が小刻みに震える。握りしめた簪。目の前の歌椿。
ふ、と歌椿は破顔した。何処までも優しげに見えるその顔で、さくらを見る。
「…そんなに怒った顔をするではない。お前さんだってそうじゃろう。青紋のない、宿主でない者になりたかったのじゃろう?」
老婆は愉しそうに、さくらの方へと歩みを勧める。そうして、さくらの耳元で、笑う。
「お前さんが望むなら、お前さんを零箱に戻してやろうか。――勿論、青紋抜きで」
ぴくん、と身体が跳ねた。どういうこと、という言葉は上手くはき出せなかった。頬の内側に引っかかる。けれども、歌椿は分かっているという風に頷く。
「お前さんの器に身を入れるだけじゃ。今、お前さんの器は眠っておる。美しく、何の汚れもなく。そこに、お前さんの身と魂を戻す。それだけじゃ。お前さんは、綺麗な身体と、それを喜ぶ両親と友人達と幸せに暮らせる」
さくらはただ、歌椿を見つめる。彼女は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「お前さんの器を見た両親は、泣いて喜んでいるそうじゃ」
「聞くなさくら!」
初音守の声が、遠くに聞こえる。くっきりと聞こえるのは、歌椿の声だけだ。さくらはただ歌椿を見る。もっと話して、もっと聞かせて。どこからかそんな声が急かす。
「綺麗な身体の娘を見て、お前さんの両親は言っておる。“早く目を覚まして”…とな」
どうする、と歌椿は言う。
「戻りたいじゃろう?」
問われて、さくらは力が抜けていくのを感じた。涙で目の前がどろどろに溶けていく。ぼやけた視界に、母と父の顔が浮かぶ。二人が、さくらに呼びかけているという。綺麗な肌のさくらに。
「零箱が“支えるもの”を失ったとしても、完全な崩壊までには少なくとも数百年はかかるじゃろう。それまでは、お前さんは幸せに暮らせる。まあそうなれば弐箱も巻き添えじゃが…まあそれも仕方あるまい」
「ママ…」
小さく呟いた声が自分の声だと気づくのに、僅かの時間を要した。もう、涙は止まらなかった。あの時望んだ幸せ。あの時欲しくて、どうしても手に入らなくてそして諦めた幸せ。無理だと目を閉じて、飛び降りることで逃げたあの幸せ。
それが今、頷けば手に入る。そう、目の前の歌椿は言っていて。
遠くで、誰かの声が聞こえる。溶けた視界の奥で、動くものがある。それはきっと、さくらの欲していた幸せを阻んでいたもので。
ただ、歌椿の声だけが静かに耳へと届く。
「――零箱に、帰るが良い」
さくらは深く息を吐き出す。それから、きつく目を閉じる。何かを、押し出すように。花びらを、むしり取るように。或いは、それに口づけをするように。開くと、視界は澄んでいる。さくらは首を横に振った。
「…私は、帰らない」
そう言うと、歌椿は片眉を上げる。
「どうして」
さくらは振り向いて、白い鳥を見つめる。それから、小さな獣も。
「――零箱と、弐箱。ふたつを壊してまで私の幸せは要らない」
それから、とさくらは言葉を続ける。
「そんな幸せなんか、要らない。――線のない私しか、幸せになれないなんて。そんなのは、要らない」
もうきっと、遙か昔に――死ぬことを決めるよりもずっと前から――理解はしていた。母も父も、線のない自分のみを受け入れると。綺麗な、桜色の肌しか受け入れないと。気づいていた。知っていた。でも、見ないふりをしてきた、その事実。
さくらは巡雨の側へゆっくりと向かう。小さくなった獣は、唸りながらさくらの手のひらに顔をこすりつけた。
「ずっと、線が無ければって思ってた。でも違う。線も含めて、私だったの。巡雨も含めて私だったの」
そして、さくらは巡雨を、瞳に映し出す。真っ直ぐに、その獣を見る。目をそらさずに。その、青い瞳を見つめる。涙と鼻水にまみれた、ぐちゃぐちゃの顔で。
「ごめんなさい」
ずっと憎んでいてごめんなさい。ずっと受け入れられなくてごめんなさい。布で覆って、見ないように目をそらして。爪を立てて。呪いの言葉を吐いて。そうして、ずっと問うていて。――どうして、と。
自分で向き合うこともせず、ただ責めていた。張り付いていた巡雨を。目をそらす父を。瞳をゆがめる母を。
本当は受け入れるべきだった。両親にも、きちんと向き合って。世の中に、立ち向かって。そうして、自分の肌を抱きしめて。
そうだ、とさくらは思う。これが、愛すると言うことなのだと。すべてを、受け入れて。否定せず。向き合って。大切にする。守る。さくらは、愛するべきだった。自分も。核も。そして、巡雨も。
さくらの、生きていく意味。それはきっと、母の愛を求めるだけではなかったはずで。
「…器を、返して下さい。私には、やるべきことがある。巡雨と、舞雲を繋げるっていう役割が」
ふう、と歌椿は息を吐く。その顔は、何処か穏やかで。
少しの時間、彼女は沈黙した。さくらはただその顔を見つめる。右手に簪の、左手に巡雨の重みを感じながら。
もう一度息を吐いた歌椿は、思いついたように倒れている宿主達に目を向けた。
「これぐらいしか、儂は出来ぬのじゃが…」
そう呟くと懐に手を入れ、何かの葉を取り出す。それを数回こすると、睦大和と初音守の身体に触れさせた。それから、巡雨の身体にも。
「…なに?」
「薬草じゃ。傷口の治癒を早める。それから痛み止めじゃの。睦の字には、覚醒作用のあるものもあげておこうかの」
彼女はそう言いながら、次々とその葉をすり込んでいく。
「…四箱は医療に長けておる。零箱に医学を送り込んだのは四箱じゃからの」
老婆は笑う。
「…あれ…俺…」
ややあって、ぼんやりとした声と共に睦大和が目を覚ます。
「…痛っつ…!おい…初!」
初音守が薄く笑って、首からかけていた球を一つもぎ取り、睦大和の方に転がす。それはころころと睦大和の四肢と首を張り付かせていた物体に順に触れていく。触れたところから、その粘着性のなにかは消えていった。
「…何があったかは?」
「分かってる。――あいつと話してたら…急に、目の前が真っ暗になって…」
初音守の問いに睦大和は苦々しげに頷き、絹小紅を見て顔をゆがめた。
「…紅は…」
初音守は答えず、ただ首を横に振る。あぁ、と睦大和も息を吐いた。
さくらの手で横になっていた巡雨もようやく起き上がる。それと同時に身体を揺すり、子犬ほどの大きさになった。
「巡雨!」
声を掛け、抱きしめる。その温かさが、ただ懐かしかった。
「…歌椿、どうして」
初音守の言葉に、彼女は首を横に振る。
「線のない自分しか幸せになれないなら、そんなものはいらない…か。そうじゃの。儂も…そう思えば良かったのかもしれぬの」
歌椿は息を吐き出し、腕の線を撫でる。
初音守は腰の球を歌椿に向かって、投げた。それは空中でパチンと弾けて、ドーナッツ型の物体になった。それがすぽりと歌椿を固定する。
「…すみません。念のため」
初音守の言葉に、歌椿は笑う。
「正しい選択じゃ。あの幼く、泣き虫のお前さんにこうされるなら本望じゃて」
そうして、老婆は顔を引き締める。
「――器を持っているのは神ではない」
「…?」
「神は今、戦っておる」
歌椿はそう小さく言うと、垂れ下がっている紙を顎で示す。不意にそこに、何か色が浮かび上がる。
「…これ…」
そこには、住宅街があった。ややあって、それが自分の住んでいた町だと気づく。窓から見ていた大きなショッピングモールの看板が見えた。それから、母の入院している病院も。上空からの映像だろうか。そこには激しい風と、それから雷が轟いている。
「神と、それから守人が戦っておる。――お前さんの器を掛けて」
「…守人…」
そこに、人の姿は見えない。まるで嵐のような、光景。
「器は、神が持っているのでは…?」
初音守の言葉に、歌椿は答えずに曖昧に笑う。
「…どうする、さくら」
初音守に問われ、さくらは頷く。
「――零箱に行きます。器を、取り戻したい。そしてきちんと、繋げます。巡雨も、舞雲も」
うん、と初音守は頷く。
「僕も行こう」
駄目だ、と睦大和が首を横に振る。
「…やった俺が言うのもなんだけど、その身体じゃお前は無理だろ。歌椿と、それから紅もお前に任せた。――俺が行く」
しかしさくらが今度は首を横に振った。
「大丈夫。わたしと…それから、巡雨と舞雲で行く」
「でも」
「…大丈夫」
さくらは頷く。腕の中の巡雨と、それから後ろに控えた舞雲を見る。そして、目の前に居る宿主達に頭を下げる。
「色々迷惑かけたけど…これで最後です。力を貸して下さい。繋げたいんです。巡雨と…それから、舞雲を」




