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五日目(2)

 ずぼり、とまた地面に足を入れたとき、不意にその少女が見えた。

「あの子…」

 そこには、少女が地べたに座っていた。赤い長い髪をそのまま下ろしている。やや波打った髪には白い菱形のアクセサリーがちりばめられていた。伏し目がちの大きな赤い瞳と唇。細かい刺繍のしてある茄子紺の分厚いポンチョのような羽織物を着ている。その下には薄い色とりどりのスカートのような物を幾重にも重ねてあった。

 彼女が弐箱の宿主だという絹小紅なのだろうか。さくらはゆっくりと彼女に近づく。恐らく年の頃は五、六歳。親と離れ一人で行動できるようには見えない。それでも、間違いなく宿主だとさくらは思う。何故なら彼女のその横顔や、スカートの下から覗く足下にはくっきりと、線が刻まれているのだ。

「あの」

 声をかけると少女は顔を上げる。しかし首をこちらへ向けることはしなかった。

「――零箱の、宿主さん、ですか?」

 静かな声だった。僅かに微笑みを残す表情。少女特有の甘さも残るが、少し冷たさを含んだ声。

「あの…弐箱、の?」

 さくらの問いに、少女は顔をこちらに向ける。

「絹小紅です」

「あの、初音守…さんに頼まれて来て――連れてきてくれ、って」

 その言葉に絹小紅は頷いた。しかし、立ち上がる気配はない。さくらは戸惑いながらも、側へ寄る。

「あの――」

 そこで、さくらは気づいた。先程から、こちらに向けた瞳。その中央に、さくらは居なかった。

「あの…待って。対価って――」

 器のある場所と、同価のもの。

「――あちらに、綺麗なところがあるのです。一緒に行きませんか」

 彼女はそう言うと、さくらが来た方向とは別の方を指す。

「あの…でも…」

「名前を、聞いても良ろしいでしょうか?」

「…さくら、です」

 答えれば少女はふわりと笑う。

「綺麗な名前…」

 彼女は呟く。さくらは弾かれたように顔を上げた。それは睦大和の言葉と同じで。

「美しい花だと、以前に聞いたことがあります。一度、見てみたかった」

 彼女は笑う。

「きっと、あなたと同じぐらい美しかったのでしょう」

 その汚れのない顔に、睦大和にぶつけた言葉と同じ言葉を吐き出す気にはなれなかった。代わりにさくらは彼女の名を呼ぶ。

「あの…絹小紅…対価って…」

 彼女は頷く。その顔に、笑みはなかった。

「えぇ。お察しの通り…視力を差し出しました」

 いつの間にか、身体が震えている。何をして良いのか分からぬまま、深く息を吐く。その吐き出した空気には冷たいものが混ざっていて。

「――…どうして…」

 一人の少女が、自分のせいで視力を失う。それは恐ろしい事実で。しかし絹小紅は首を横に振った。

「何も気に病む必要は御座いません。…わたくしは、この件が終われば元々死ぬ予定だったのです。今更光を失ったからといって、何もなりません」

 それはきっぱりとした言葉。さくらは彼女の白い顔をじっと見た。

「…死ぬ予定?」

 絹小紅は頷き、それから笑う。

「参りましょうか。あちらです。――手を、貸して頂けますか」

 さくらは躊躇いながら、そして頷き彼女の示す方へと向かう。

 ぽつりと少女は言葉を漏らす。

「わたくしの箱、弐箱では…箱の頂点の人間が宿主になる習わしがありまして。先日、その頂点を決める戦争が終わったのです。私は、その人物に支えるものを渡さなくてはなりません」

 さくらは、あぁ、と息を漏らす。初音守の言っていた少女というのは彼女のことなのだと、気づく。

「…殺されるってこと?」

「…えぇ、その為に生きていたようなものですから」

 彼女は淡々と言い、それから少しだけ笑んだ。

「ひどい…」

「それが、弐箱のやり方です」

 そんな、とさくらは呟く。

「逃げないの…?」

「逃げません」

 少女は笑みを絶やさぬまま言葉を紡ぐ。

「逃げたところでどうなります。わたくしが無事逃げおおせて寿命を全うしたとしても…次の宿主が、追われて殺されるだけです。その周りの人間だって…無事とは行かないでしょう。――現に、わたくしの住んでいた星は殆ど原形を留めていません。住民達だって…もう…半分以上も生きては居ないのです。わたくしはもうあの悲劇を、二度と繰り返したくない…だとしたら、最初からその覚悟を持った人間に繋いでいくのが…それが一番良いと思いませんか?」

「…そうかもしれない、けど…でも…」

「わたくしは、あなたに感謝をしているのです」

 少女は独り言のように呟く。

「あなたのおかげで、わたくしの命も少しばかり延びました。もう、何も悔やむことは御座いません」

 絹小紅の言葉に揺らぎは無かった。ただ、真っ直ぐに。

「でも――」

「わたくしも、お祖父様から舞雲(まいくも)を奪いました。つまりは殺したと言うことです」

 舞雲というのが、彼女の箱の支えるものの名らしい。それを言われ、さくらは沈黙する。

「あのときわたくしは天秤にかけました。お祖父様の命と、それから半壊している星に残る命と…それからわたくしの命を。そうして、選びました。例えどんな背景があったにせよ、選んだのはわたくしです。そして、殺したのも。それはわたくしの意志です。わたくしが自分の意志でしたことには、自分で償い決着を付けなければなりません」

「でもそんなの…酷い…だってまだ子供で…」

 自分が泣くべきではないと分かりながら、しかし頬を涙は伝う。少女は微笑む。

「あのとき、本当にどうにかしたければ…わたくしが死ねば良かったのです。けれど、わたくしはそれをしなかった」

 でも、とまた言おうとしてさくらは口をつぐむ。これ以上何を話せば良いというのか。さくらごときがどうしようもないことは分かる。ですので、と絹小紅は言葉を続ける。

「…今更、光の一つ二つ、惜しくはありません。むしろ、あと僅かで死を迎えるわたくしの光ですんで良かったというもの」

 その言葉に他意を探ったが、しかしそれは見つからず。もう本当に何も言葉が見つからない。さくらは俯く。この幼い少女の覚悟に与えるほどのものは何もない。

「このあたりですね」

 絹小紅がそう言い、さくらは辺りを見回す。綺麗なもの。それは。

「足下を…」

 そう言われてさくらは視線を下へと向ける。ずぷりと埋まった、足。そこは。

「これは…?」

 青い地面。そこに、薄桃色の、まるで桜の花びらのようなものが埋まっている。

「綺麗…何…これ?」

「昔、世界が…壱から四の箱がまだ繋がっていたとき…ここに、神の妻の庭があったと言われているのです」

「神の妻…」

「これは、彼女の、涙とも、神との愛の証とも…色々な説があるようです。わたくしも、童話で読んだだけですが…ここに来て初めて実在すると知りました」

 不思議、とさくらはそれをみて呟く。何も見えないはずの絹小紅も、笑った。

「死ぬ前に見られて…良かった」

 どうして良いか分からず、殆ど無意識に少女の手を握った。少女は笑う。

 屈託無く笑う少女に、急にまた涙がこみ上げてきて、さくらは慌てて上を向く。口の端から湿った吐息が漏れた。

 不意に、腕の中の巡雨が瞳を開けた。じっと、その床を見て、それから言葉を紡いだ。

「…二人とも、良く聞くと良い」

 絹小紅は不思議そうに声の方向に顔を向ける。

「…あの、零箱の、支えるものの…巡雨」

 あぁ、と絹小紅は頷く。静かに、巡雨は言葉を紡ぐ。

「宿主とは、その時に箱の中にいる一番強い魂に宿る。人は一生の中で、母親の胎内にいるときが一番魂が強いと言われている。また、宿主を殺した際に殺した者に支えるものが移るというのは、その瞬間その箱で一番魂が強いからになる。宿主を殺すということはそれだけ魂が強くなければ出来ない。では、魂が強いというのはどういう意味なのか。――知っているか」

 問われて、さくらは首を横に振る。絹小紅も同様に首を傾げた。

「答えは、どれだけ自らを愛することが出来るのか。自己愛の強さとでもいうと適当だろう」

「…え?」

 さくらは巡雨を只見つめる。瞳は瞬きを忘れたまま、巡雨の青い瞳を見つめている。

「今の気持ちなどという表面上のものではない。もっと、芯の部分だ」

「でも…」

「お前達は気づいていないだけだ。支えるものは、皆分かっている――お前達は今、箱の中で唯一、支えるものを受け止めることが出来る“箱”であるのだ」

 巡雨は静かに目を閉じる。

「宿主であることは、不幸なことかもしれぬ。異形であること。責任のあること。色んな事が在るであろう。――しかし、お前達は、選ばれた。支えるものに。それを喜ぶ必要も哀しむ必要もない。命は何かの目的を目指して産まれるものだ。お前達は偶々それが宿主であっただけのこと」

「――作られた命でも?」

「どんな命であってもだ」

 深く、絹小紅が息を吐いた。

「ただしその目的が、喜ばしいことばかりではない。――お前はそうであろう」

 絹小紅は笑って首を傾げる。

「どうでしょう」

 でも、とさくらは言う。

「でも…私は、死のうと思った…自分で自分を愛すなんて…」

 そんなこと、と言いかけたさくらに、絹小紅は言葉を発する。

「――それは愛故にではありませんか」

「え?」

「死というのは、限りなく愛に近いものです。自らをただ愛している人は、早く死にたがるというもの」

 さくらはその言葉に眉をひそめる。どういうこと、と問うと絹小紅は薄く笑った。

「――死に触れる瞬間、人は自分を一番愛するものです。その瞬間、未来を切り捨てるということですから」

「未来?」

「未来には、あなたを必要としている人がいる。それはあなた自身であり、もしかしたら別のひとかもしれません。彼らを裏切り、切り捨てるという行為は、今の自分を最大限に愛しているということの表れなのだと思います」

 居るわけがない、とさくらは呟く。未来に自分を必要としている人間など、居るわけがない。あの、母の暗い瞳。父の苛立った横顔。鏡に映る、自分。居るわけがないから、死を選んだのだ。

「そんなことあり得ない――」

「居ます。未来には、必ず」

 それは何を根拠に言うのか。絹小紅の瞳は真っ直ぐに前を向いていた。もう一度、居るわけがないと言おうとして口をつぐむ。死を目前にした少女の横顔。彼女の暗い瞳の内側に映る未来は、どんな未来なのだろう。

「わたくしは――それを全て手放そうと…何度も思ってしまった。あなたも、きっとそうだと思うのです」

 さくらは沈黙する。自分の未来は一体何だったというのだろう。自分を必要としている人とは誰だろう。母が、或いは父が自分を必要としているのだろうか。――あり得ない。ではこれから出会う誰かが?それとも、自分自身が?どれも自分を納得させるものではない。それは精神論なのだろうか。ただ、何かを納得させるだけの。

 けれど少女のその笑顔はただただ汚れなく。

「今、ここにいるのもあなたの未来です。もしかしたらあなたの命の目的は、契約をして――わたくしと会うことだったのかもしれませんよ」

 くす、と彼女は笑う。ややあってそれが冗談だとわかり、さくらもぎこちなく笑う。

「わたくしは、ずっと弐箱で幽閉されていました。逃げぬよう、そして誰かに殺されぬよう。戦争が終わるまで、ずっと。――でも、あなたが契約をしてこちらに来てくれたおかげで私は弐箱から出られた。少し、何かの役に立てた。…あなたにも会えた。わたくしはもう、悔いはありません。零箱やあなたが、わたくしのこんな些細な自己満足のためにあるわけではないでしょう。けれど、わたくしは最後に幸せになれた。それは、さくら、あなたのおかげです」

「――絹小紅」

「わたくしも同じです。宿主になったとたん、全てを失ってしまった。優しかった星のみんなはわたくしを人殺しだと蔑んだ。想いをはせていた星の外の住民は皆恐ろしく、武器を向ける。五感を全て封じられ、一人、書物を読む時間も無くなり、刺繍をする時間も無くなり…ただ、戦争が終わるのをずっと待つだけになりました」

 さくらはじっと絹小紅を見つめる。

「早く死にたかった。ただ毎日が恐ろしくて…もう、生きていたくないと思った。――未来の自分と、誰かを切り捨てて。けれど、あの時死ななくて良かったと思うのです」

 だって、と絹小紅は笑う。

「この未来で、さくらと会えたから」

 少女の顔には、何の曇りもなかった。目に映る絹小紅の姿が歪む。

「綺麗な…お話で聞いた場所へと来られた。桜の花のことを思い出せた。わたくしの、この先について憤ってくれた。わたくしの手を握ってくれた」

 それだけで、わたくしは十分幸せです、と。彼女はそう言う。

「私――」

「未来を考えるのは、簡単です。現実に延長線を引くだけで良いのですから。けれど実際の未来は、こんなにも想像を超える。あなたも、そうでしょう?」

 そうか、と思う。ここの場所はさくらにとって、別世界だと思っていた。夢のように。一時だけの、浮島のような。けれどそれは違った。さくらの人生に続いている道だったのだ。それがどこに続いているのかは知らない。また、零箱のあの部屋に戻るのかもしれないし或いはこのまま死ぬのかもしれない。

 さくらはややあって、頷いた。こんな世界があることも知らなかった。誰かと触れることも。話すことも。歌椿の手のひらも。睦大和の声も。鈴茜の瞳も。初音守の笑顔。絹小紅から貰う感謝も。天使達の襲撃。恐ろしいと感じる気持ち。生きたいという願い。そして、巡雨の体温も。

「うん…」

 その言葉は水分にずっぽりと埋もれ、殆ど原形を留めていなかった。それでも、絹小紅は笑う。

「産まれて来てくれて、ありがとう。さくら。大好き」

 もう、止まらなかった。拭っても拭っても、涙はただ流れる。絹小紅の顔はもうぼやけて見えない。大げさだよ、とそう言おうとしたが上手く言葉にならないまま嗚咽だけを漏らす。

 絹小紅は笑う。何度か瞳を拭って、ようやく彼女の顔がくっきりと見える。彼女の瞳にも、涙が浮かんでいる。

「最後に、わたくしの大好きを一つ増やしてくれて、ありがとう」

 さくらはただ涙する。

「――私も、ありがとう」

 ようやくそれだけを絞り出すと、二人はただ向かい合って泣いた。絹小紅の言う意味が、少し分かる。そして一つの思いが形になる。今は未だ死にたくないと思う。無くなりたくない。どうにか、この子を守りたい。さくらのために光を失い、その瞳いっぱいに涙を溜めてくれた少女を。恐らく、彼女の処刑には関与できない。けれど、それまでの間に。

 願わくば、彼女の大好きをもっと、一つでも良いから、もっともっと増やせるように。

 そして、さくらはぼんやりと思う。これが、愛なのかもしれないと。自分が自分に、してあげるべきこと。そうして、他人に与えるべきもの。


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