五日目(1)
「これで五日目か」
止まってしまった小型バスのような寝所を畳みながら、初音守が言った。不思議なもので、彼が何かを言うと、その寝所は空気が抜けるように小さくなったのだった。それを畳むと、硝子状の球の中に、しまう。じゃあ行こうか、と彼は笑う。周りの風景はこれといって変化が無いように見える。
「箱の外にいると気づきにくいけれど――今、日が変わったんだ」
初音守は軽く笑って、ほら、と一つの胸から下げた球を示した。そこには数字が書かれている。装飾字体で見づらいが、「八」とある。
「…八日?十一月の?」
問えば彼は頷く。さくらはへえと小さく呟く。こちらの時間軸と地球――零箱の時間軸は同じなのだ。
「えぇと…太陰暦…だっけ?あれ、太陽暦?」
図鑑の知識をひもとくが、初音守は「なんだいそれ」と笑う。
「こちらの時間や数字の考え方を、零箱に持ち込んだとは聞いたことがあるけれど」
だよね。と初音守に問われて睦大和が頷く。
「全てではないけどな。色々整合性をとるため時間や日にちの考え方は同じになるようにしたって話だ」
そう、とさくらは頷き、息を吐く。白の部屋に来る前に居たところは、一体何だったんだろう。白の部屋に堕とされてから、幾度となく感じた疑問。綺麗に印刷された図鑑には『地球の成り立ち』という文章がさも正しそうに書かれていたし、ずっしりとした地球儀には所狭しと国の名前が描かれていた。何百、何千万人の大人達が「正しい」と言ったことがここでは全て違うと言われる。宇宙の成り立ち。恐竜の絶滅。人類の進化。火山噴火。ブラックホール。全てが。
それとも。それともさくらが生きていた世界は、地球ではなかったのだろうか。地球というのはまた違う異世界の話で、さくらは実際に彼らの言う零箱に住んでいたのかもしれない。地球だと信じていただけで。例えば、ここが海だと信じて回遊を続ける水槽の魚のように。
行こう、と促されてさくらはまた初音守の背を追いかける。睡眠は取ったはずだけれど、それでも疲れは完全に抜けない。
身の状態でいられるのは、七日と聞いた。残り二日。二日経てば、終わりになる。けれどどうしたらよいのかは、全く分からないまま。あの時感じた「死にたくない」という思い。それはさくらの核が叫んだのか。けれど。幸せとは何だ。自分は何を求めていたのか。何も分からぬまま、何も考えられぬまま、さくらは世界を滅ぼそうとしている。それを思うと喉の奥が重たくなる。けれどそれはその通りで。自分で自分を愛して、自殺など試みず、神との契約を突っぱねればこんなことにはならなかったのだ。何も知らなかったとはいえそれは、自分の責任だ。そう思わなければ、もう一歩も歩けなかった。もう嫌だと駄々をこねたかった。助けてと叫び出したかった。けれどそう言ったところで誰もさくらを救ってはくれない。
どうやって、自分を愛せばいいのかが、さくらには分からない。線が無くなれば、それで良いのだと思っていた。愛してあげてと、そう初音守は言った。けれど。
また暫く歩いた後に、初音守が急に歩みを止めた。
「――あそこだ」
小さく呟き、前に進む。
唐突に、違う空間がそこには広がっていた。蒼い空間。空と地面の境目はまたよく分からない。周りには細い木々がある。葉も幹も全てが深緑色だ。足下はずぶり、と足首まで埋まる。柔らかいその地面を数歩進んだところに、建物があった。色は薄い黄色、形は、いびつな六角形のような、おそらく家。薄く中が透けて見える。中には、天井から無数の大きな紙のような薄いものがつり下げられている。
「ここは――」
「これが神殿。神が、かつて住んでたっていわれていて――」
初音守の言葉の途中で、キリキリ、と不快な音を立てて、その六角形の一つが開いた。
「こんにちは」
中からふわりと出てきたのは、一七七三、一六九六と似た生き物だった。身長は五十センチメートルほど。長い髪とふわりとした衣服。
「――天使!」
睦大和がさくらを庇うように拳を固める。しかし、その生き物は首を横に振った。
「そりゃあ神殿ですもの。居るに決まってるでしょ?ばかじゃないの。…戦いたくはないわ。その手を下ろして」
天使はふわりと舞い、さくら達の前に近づく。
「あたしは、一六三八。見ての通り天使よ。一七七三と一六九六を倒したのはあなたたちかしら」
「――だったら何だってんだ」
睦大和の言葉に、一六三八は笑う。
「別になんでもないけど。そうなのかなあって思っただけよ」
ち、と苛立ったように睦大和が舌打ちをする。
「何を必死になってるの?壊れちゃえばいいじゃない、あんな箱」
「おい――」
「必死になるさ」
苛立ったような睦大和の言葉を遮ったのは、初音守だった。さくらはちらりと彼を見る。
「僕らにとって零箱は、生きる希望だからね。そして、その零箱に住む命も大切な希望だ。――勿論さくらも含めて」
「ばっかみたぁい」
一六三八はつまらなそうに言い、さくらを見る。
「あなたは、あんな箱いらないって思ってるわよね?だから契約をしたんでしょう?自分の命も、箱も、どーでもいいって」
さくらは目の前に居る、その生き物をただ見つめる。恐怖心は感じなかった。ただその言葉を脳内に反芻する。どうでもいい、それは間違っていないかもしれない。
一歩踏み出した睦大和に、一六三八は笑う。
「怒らないで。あたしは他の天使とは違うわ。お父様のことは嫌いじゃないけどぉ…それだけで生きてるわけじゃないの」
「…というと?」
初音守の問いに天使は笑う。
「あたしが一番好きなのはあたし自身、ていうこと。お父様よりも、ね。――それで。あなたたちの望みはなあに?」
「…望み?」
「弐箱の宿主の子と取引をしたのよ。あなたたちの望みを一つ叶える、って約束したの」
「絹小紅と…? 彼女は今どこに?」
「さぁ」
一六三八は肩をすくめる。
「どっかで散歩でもしてるんじゃない?それより早く言ってよ。――赤が乾くじゃない」
言われてさくらは彼女の示した地面を見る。そこには赤い小さな水玉があった。初音守が一六九六と“取引”をしたときと同様に。
「待て――絹小紅は何の対価を…」
「うるっさいわねえ。早くしなさいって言ってんの!あの子はあなたたちの望みを一つ叶えてくれって言ったのよ。一つ言いなさいよ。あたしに出来ることなら、ちゃんと叶えてあげるから。それとも何にもいらないの?それが望みならそれでも良いわよ?ねえ、どーすんのっ?」
苛々と一六三八は声を荒げる。初音守は息を吐いた。意識をして落ち着かせようとしている仕草だった。
「――少し相談する。ちょっと待ってくれ」
「早くしてよね」
苛立ちを隠さない一六三八に初音守は頷き、睦大和と目を見交わす。
「――僕としては、器の場所を聞くのが得策だと思うんだけど」
「絹小紅がどの程度の対価を出してるのかは分からんが…もし可能なら、それが一番だろうな」
さくらは二人が頷き会うのをぼんやりと見ていた。蚊帳の外、という言葉がこれほどまでにしっくりと来る。
「お待たせ。決めたよ。――さくらの器の場所が知りたい」
一六三八はその言葉に少し思案するような仕草をした。そして、数度頷いてから「分かった」と答えた。
「場所を教えるだけで良いのよね?案内したり、器を手に入れるのを手伝ったり――とまでは無理よ」
無理、というのが何を意味しているのかは、すぐにさくらにも分かった。絹小紅という人物が支払ったものがそれと同価なのであろう。ということは、とさくらは心の中で一つの結論を出す。あのとき、一六九六と初音守が交わそうとした取引。さくらの命と、巡雨が持つべき鋏。それは同価ということになる。
「それで良い」
「じゃあ、そういうことでいいわね」
そう一六三八が頷いた瞬間だった。床の赤い水たまりが、こぽり、と音を立てる。それは凝固し、空に浮く。宝石のように見えるそれは、上へと昇る。そうしてそのまま、見えなくなった。
「これで良いわね――説明するわ。中に入って」
キリキリ、と音を立てて建物が開く。初音守はさくらの側へと来、小さく呟く。
「――悪いんだけど、このあたりを探して来てくれる?赤い髪の…女の子が居ると思うんだ」
「女の子?」
「絹小紅、っていう弐箱の宿主だ。見つけたら連れてきて欲しい」
頷いたさくらに、初音守は笑う。
「――本当だ。君は僕らの希望だよ」
唐突な言葉に、さくらは彼を見返す。しかし初音守は、それ以上の言葉を何も言わぬまま睦大和の肩を叩き、建物に消えた。さくらは少しあたりを見回し、それから巡雨を抱きしめる。
「何処に行けばいいのかな」
「あちらの方に、人の気配がする」
小さく巡雨が呟き、林の隙間を示す。さくらはほっと息を吐く。巡雨は最初の一七七三からの襲撃を受けてから、口数がぐっと少なくなっていた。それは、睦大和や初音守が話をするからでもあるのだが、小さくなってしまった身体を抱いていると何処か不安になる。
ずぼりずぼりと地面に足をめり込ませながら歩く。
「ねえ巡雨」
「――何だ」
「巡雨は、“支えるもの”をやめたくなったこと、ない?」
「考えたことがない」
素っ気なく巡雨に、さくらは焦れったさを覚える。
「じゃあ、考えて」
その言葉に獣は片目を開ける。
「…考えておこう」
小さく呟き、また両目を閉じた。そうしていると穏やかな猫のようだ。さくらは息を吐く。ごまかされた、という気がする。




