零日目(1)
物心ついた頃から、家のリビングには水槽があった。大きく、広い水槽。水草が配され、ガラス玉が敷き詰められている。こぽこぽ、と空気を入れる音が小さく聞こえる。そこに、低いヒーターの音が入り交じる。そうしてその中には、美しい色の熱帯魚たちが暮らしている。
時折さくらは、親指ほどの大きさになってそこに立ち尽くす夢を見る。水槽の中で、泳ぐことも出来ないままガラス玉の上に立っている。
魚たちは言う。「幸せよ」と、そう笑う。敵は来ず、餌は一定間隔で降ってくる。ときどき、綺麗な水に変えてもらえる。それはこの上ない幸せだと笑う。
さくらは、そこでただ魚たちを見ている。一緒に踊りましょう、と笑う魚たちを。
しかし、さくらには分からない。それが果たして幸せなのかが。そうして、目の前で尾を振る魚たちをぼんやりと見ているのだ。上を見やれば、波紋が見える。輪になる。線が。
さくらはベッドの上に座ったまま、手のひらを見つめた。薄いカーテンを通して、午前中の光と外の音がその手に染みこむ。さわさわと、木々の葉が風でこすれる音がした。瞳をぎゅう、と瞑り、それからゆっくりと目を開く。そうして、いつもと何も変わらぬ事を確認しため息をついた。そこには、くっきりと線が浮き出ている。青く細い線が、無数に。まるで細いボールペンで落書きをしたかのような、そんな線。
母のスリッパの音が近づいてくる気配を感じて、手を布団の中に押し込めた。ぱたんぱたんという、間抜けなスリッパの音。その音が恐ろしくなったのは、いつからだろう。
「さくらちゃん? 起きた?」
母の声は、ただただ優しい。オレンジ色のダリアの花のように。部屋のドアが開いて、母の顔が覗く。こちらに向けた瞳はしかし、マンホールのように暗い。ぎこちなくさくらが笑い返すと、母は深く息を吐き出した。
「…どうしてなの」
母のその声は小さく。そこから先の言葉は、ベッドの下に広がる薄桃色のカーペットに吸い込まれていく。「どうしてあなたの身体には、そんなものがあるの」と。その言葉は、聞かなくても分かる。十二年間、ずっと浴びてきた言葉。
そんなもの、と母が言うものはただ一つ。さくらの皮膚に広がる青い線。細い、一ミリメートルほどのそれは、決して交わることなく幾重にも輪を作っている。みぞおちを中心として身体いっぱいに広がる。まるで波紋のように。大木の年輪のように。痣にしては、あまりに繊細なそれは全身を支配していて。指先にも、足の裏にも、項にも、頬にも。激しい存在感を放つ。
母の視線を感じたまま、さくらは俯く。
「さくらちゃん」
そこにダリアは、もう咲いていなかった。母はさくらの方をじっと見つめている。けれどその視線はさくらを通り越して、後ろの窓に阻まれた世界を見ているようだった。明るい、外の世界。
「…ママと一緒に、死のうか」
一瞬、脳の中に何か重たい雨雲のようなものが通り過ぎた気がした。けれどそれはどこにも行ってはおらず、ゆっくりと脳内で降り出す。母の口にした言葉がじわりと染みこんでくる。拒否など出来ない。ずぶ濡れになる。
いつかそんな日が来るのだろうと、気づかないふりをしていたけれど、それでも気づいていた。さくらは母を見てから、首を横に振った。死ぬのは自分一人で良いのだと。母はその音無き声を感じているのか、静かに言葉を紡ぐ。
「いいの。ママのせいなの」
彼女の言葉は、只静かにさくらに降り注ぐ。けれどそれは身体に染みこんでは来ず、輪郭をなぞって床に落ちるだけで。先程じっとりと染みこんだ言葉とは交わらなかった。そんなことはない、と言おうとさくらは口を開く。しかし母はそれを遮る。
「ごめんね。…あなたを…普通に産んであげられなくて」
柔らかな声。蕾のような。握れば壊れてしまうような。
「夜ご飯は、美味しいもの食べようね。久しぶりにビーフシチューでも作ろうかな。…あぁ、それから、ロ・アンヌのチョコレートケーキ買ってくるわね」
母はその時、確かに笑っていたと思う。瞼に埋まった瞳の奥は、見えなかったけれども。