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四日目(4)

 無言のまま歩いていると、不意に「少し整理しよう」と呟き初音守がぐるりと顔だけを振り向かせた。

「一応、展望台からの情報を元に僕らも動いているんだけど――念のため、きちんと整理させてもらえるかな」

 さくらが頷く。

「分かる範囲で良いから、なるべく神と話した内容や言った言葉を細かく教えてくれるかな」

 再び頷くと、初音守はにこりと微笑む。

「あの…契約、のちょっと前に…家にいて、その…お風呂場で急に「見つけた」って声が聞こえたんです」

「オフロバ?」

「…あの、身体を洗ったりするところで」

 あぁ、と初音守は頷く。自殺をしようとしていた、というべきか迷ってそこは伏せる。

「そのあと、えぇと…母が、ちょっと…えっと、怪我をしたって言うので、父と病院に行ったんです。そのとき、階段でその人――神と、会いました」

 うん、と初音守は促すように頷く。

「それで…そのあと、駐車場でその人とまた会って。“剥がしてあげる”と言われました」

「君は何て?」

「あの…よく、分からなくて。ただ、“死にたい?”って聞かれて頷きました。あと…あの…“助けて下さい”って…」

 ふうん、と初音守は頷く。

「それで、そのまま白の部屋に行ったのか。――君は死にたかったんだ?」

 問われてさくらは考える。死にたい、というよりは生きていたくない、という気持ちだったが結局は同じ事だと気づき、そうして頷いた。

「成る程ね」

 さくらは俯く。居心地の悪さを感じた。何処か尋問されている気持ちになる。

「――あの、私が死にたいって思ったから神に見つかってしまったんですか?今までの宿主は…そういう風には思わなかったんですか?」

「どうして君が、神に見つけられたかって?」

 初音守は何か意外そうな顔をしてさくらを見つめる。さくらが首を傾げてみせると、彼は笑顔で言う。

「簡単な話でしょ。君が、誰にも愛されていないからだよ」

「――え?」

「おい、(はつ)

 睦大和の鋭い声に軽く笑って、初音守は言う。

「あのね、生き物って言うのは所謂“愛”を纏って生きていくものなんだ。器を覆う柔らかな膜みたいなものだね。それはね、一種の鎧だ。纏えば纏うほど生き物は強くなり、外敵から守られる」

「――おい、もうやめろって」

「今までの宿主はね。みんな守られてた。たくさんの、愛によって。だから神は彼らを見つけることが出来なかった。――けれどね、君にはそれが無い。誰からも愛されていない。いわば丸裸さ。だから、神は君を見つけた」

「初!」

 睦大和の怒鳴り声でしん、と静かになる。さくらはただ初音守を見ていた。誰かが背に触れた気がした。けれどその情報は脳内に伝わることなくすう、と毛穴から逃げていく。自らの感情や何か記憶のようなものもどこかで蠢いているが、それが真っ黒で見ることも触れることも叶わない。

 不意に、パチン、と何かの音がしてようやく目の前に睦大和の顔が見えた。その下には巡雨がこちらを見つめている。頬が少し暖かくなっているのを感じた。彼の手のひらが打ったようだ。

「しっかりしろ!」

 さくらはほぼ無意識に小さく頷く。しかしその動きは意思を持っているわけではない。

「君も気づいていたんだろう?――それからね、他人だけを責めちゃ駄目だ。自分で自分を愛していなかったということにもなるんだから…」

「もうお前は黙ってろ!」

 睦大和の叫びに初音守は肩をすくめる。

「本当のことを教えるのも、愛故にだよ」

「いいかさくら。今の話も…あの、迷信みたいなもんだし…あー…科学的にも、証明されていない話だし、もう…あんまり…えーと、気にすんなよ。な?少なくとも神に見つけられなかった期間っていうのは誰かに愛されてた、って証拠だし…それに、俺たちはきちんとお前のことを思ってる。だからもう…」

 必死な睦大和の顔が何処か滑稽で、さくらは静かに頷いた。

「大丈夫」

 分かっていたことだった。母に、父に、愛されていなかったこと。自分が自分で大嫌いだったこと。それに、もう一つだって分かっている。ここにいてさくらを守る人々も、決して自分のことを愛しているわけではないと言うこと。愛しているのは、箱だ。零箱を守るために彼らはその箱に必要なさくらを――どちらかと言えば巡雨を、を守る。分かっている。ただ、それだけのことだ。

「大丈夫。――行こう」

 さくらが促し、また一行は歩き始める。先程よりやや早く。そして無言で。時折ちらり、と振り返る初音守の顔は何処か悲しみのようなものを含んでいたように思える。さくらはその視線から逃れるように俯き、腕の中の巡雨を抱きしめた。柔らかな毛が腕を撫でる。

 早く終わりにしたい、とその温い身体を抱きながら思う。また、あの黒いところに漂いたい。恐怖の無い世界。幸せがなくたっていい。この温みも、もう惜しくない。ただ、もう終わりにしたいのだ。



 不意に、前を歩いていた初音守が歩みを止めた。そして、左に少しずれる。そこには発光した文字が描かれていた。先程見た葉書だ、とさくらは思う。

【零箱未ダ調査中 鋏ハ天使ガ持ッテイル模様 全―四】

 短いそれを、初音守は示す。

「――歌椿だ」

 睦大和の言葉にさくらも頷く。あの時、手を繋いだ老婆。今彼女は零箱にいるのだ。

「天使が鋏を…どうして?そもそもどこから彼女はその情報を――」

 それを、初音守が呟いたと同時だった。遠く、どこかでどん、と底から響くような音が聞こえた。

「――初!」

 睦大和が背にさくらを庇い、そのさくらの横に初音守が入る。さくらは巡雨を片手に抱き上げたまま二人の間に押し込まれたような形になる。彼らは上を見上げている。つられてさくらも上を見つめると、ふわり、という形容詞とともにそれは降りてきた。

 製作所の前で襲撃をしてきた者と同じぐらいの大きさだ。しかし形は一七七三とは異なる。大きな頭に大きな瞳。腕は軟体動物のように柔らかく、衣服で隠れているが恐らく腰から下には何も無い。一七七三よりもやや鋭い瞳に、毛髪の一本すら見あたらないつるりとした頭。

 その瞬間に、さくらはめまいを感じた。初音守の言った言葉は正しい。それから、さくらの考えも。

 神が、また襲撃をしてきた。つまりそれはさくらが愛されていないことの、何よりの証明で。

「…君は?」

 初音守が問いかけると、それは笑う。

「天の使いの、一六九六(いろくろ)よ」

 一七七三と比べると、言葉遣いが上手なのが分かる。

「ということは、神が君を送ったと考えて良いかな?」

「そうよ。お父様はあたしのことを信用しているんですもの」

 何処か自慢げなそれは、幼子にしか見えない。自己愛の塊。その大きな瞳にはとろりとした甘そうな色が浮かび上がっているように見える。

 睦大和が一歩を踏み出そうと身体を揺する。瞬間、それを白い手が止めた。

「…君たちは何もしないで」

 ぼそりとそう呟くと、初音守はにっこりと一六九六に笑ってみせる。

「君は随分利口そうだね」

「当たり前でしょう。あたしを他の天使達と一緒にしないで」

 初音守は笑ったまま頷く。

「あなたも宿主ね。何処の?」

「僕は参箱」

 そう、と一六九六は応え、何処か満足そうに笑う。

「あなたも賢そう。だったら分かるでしょう、どうするのが正しくて得策か。――その子をちょうだい」

 睦大和が片眉を上げる。さくらはぎゅ、と空いた手でワンピースの裾を握りしめた。耳の奥からドドド、という何か滝のような音が聞こえる。身にも血液は通っているのだろうか。

「うん。ちょっとその件で、僕も相談があるんだ。君たちは零箱を壊したいんだろう?僕ら…まあ、少なくとも参箱の人間も皆そう思っている。昔の愚者が造ったものを背負わされるのにはもううんざりだ、とね」

 冷え冷えと初音守の言葉は響く。さくらはごくりと唾を飲み込んだ。睦大和が口を開き、そして閉じる。何かを発するのを堪えたような仕草だった。彼はその言葉の代わりに、さくらの手を握る。

「それでさ、取引をしようかと思って。君は、鋏を今持っているよね?それを僕に渡してくれないかい?」

 一六九六は顔色を変えずに口の端をつり上げる。

「どうしてあたしが持っていると思うの?」

「一番君が、天使の中で賢く強そうだからね。僕が神なら間違いなく君に預ける」

 笑顔で答えた初音守に一六九六は満足そうに笑う。

「…実はね、そこにいる零箱宿主――さくらも、どうやら死を望んでいるみたいなんだ」

 さくらはびくりと身体を震わせる。微かに感じる睦大和と巡雨の暖かさがなければ、叫びだしてしまいそうだ。

「ただ、支えるものである巡雨は…どうやら死にたくないらしい」

 ふうん、と一六九六はさくらの腕の中に居る獣に視線をやる。

「支えるものが死を認めず暴れ回ると、あまり宜しくない。零箱だけが壊れるなら良いけれど、他の箱に影響があると僕も嫌なんだ」

「…それで?回りくどいのは嫌いよ。何をどうしたいの?」

「あぁ…ごめんごめん。それでさ、君が鋏を渡してくれたら僕がそこのさくらを殺そうと思っているんだ」

 すんでの所で飛び出そうとする悲鳴を、どうにか押しとどめる。横顔の初音守の顔には、笑みしか張り付いていない。それがただただ恐ろしい。瞳は睫毛と瞼で隠され、上がった口角の隙間から白い歯が見えている。

「そうなればさくらは希望通り死ねる。僕はこれでも力のある人間だから、支えるものを二つ宿すことも――まあ出来るだろう。そうすれば巡雨は生き延びられる。で、僕は殺しを終えたら自分の箱に帰る。巡雨を連れてね。そうすると、零箱はバランスを崩して勝手に壊れる、ってことさ。ただ、それをするには鋏がきちんと無いとね。巡雨が納得しないだろうから」

 一つ一つの文章を、確認するように初音守はゆっくりと話す。そして、彼はゆっくりと斜め下のさくらを見る。

「大丈夫。痛かったり苦しかったりしないように、するからね」

 その刹那、冷たい空気が喉を通り抜ける。耳に届いたそれは小さな悲鳴のようにも聞こえた。足首が折れ曲がってしまったかのように立てなくなった。がくがく、と膝が横に揺れる。

「…嫌…」

 小さく、その言葉はこぼれ落ちる。

「…やめて…」

 誰にも届かぬ、囁きのような。

「さて。どうしようか。君は鋏を僕に渡す。僕はさくらを殺す。それでどうだい?」

 笑顔で初音守は一六九六に向かい合う。小さな天使は上空を睨み、それから柔和な笑みを浮かべた男に視線を移す。

「――取引よね?」

 念を押すように言う一六九六に初音守は頷く。

「もちろん」

 そう言うと彼は左手の親指に歯を立てる。ぽたり、と床の緑に赤の雫が落ちる。一六九六はそれで納得をしたらしかった。彼女は頷き、それから初音守と同様に右手の親指にかみつき、赤を落とす。二つの赤は入り交じり丸い水玉を作った。

 さくらはただ目の前の光景を見ている。暖かい手の睦大和と。柔らかな巡雨。それらは、脳にまで届かない。ただ、冷たい瞳の初音守だけが、さくらを支配していて。

「――やめろ、初!」

――殺される、と脳内で何かが叫んでいる。それは望んでいたはずのものだ。分かっている。絶対に、あそこに――零箱には帰りたくなくて。あの、線を二度と纏いたくはなくて。それを望むのであれば、死を選ぶしかない。分かっている。分かっているけれど。

 がくがくとまた膝が激しく揺れる。不意に、それが脳裏で弾けた。それは恐怖によるものなのか。或いは。

 唇が、停止、若しくは否定の言葉を吐き出そうと形を作る。それと、ほぼ同時だった。懐に手を入れた一六九六が、がくりと首をのけぞらせた。パリン、と何かが割れるような音が小さく響いて、それから一六九六は割れた。煎餅が砕けるように。硝子が崩れるように。

「――あ」

 行き場を失った空気が、さくらの口からこぼれ落ちる。そしてようやく、左手に暖かさを、右腕に鋭い小さな刺激を感じた。暖かい空気が喉から肩へと満ちていく。

 一六九六の正面に立っていた初音守の右手には細い棒が握られている。その先には鋭い石のようなものが括り付けられていて、先程まで一六九六の中心があったはずの場所を指している。槍、のようなものなのだと思う。その先端に、何かが引っかかっている。

「鋏――」

 ぽつりとさくらの後ろに立っていた睦大和が声を上げる。槍を手元に引き寄せ、初音守はかかったものを外す。

「はい、どうぞ」

 まるで大人が木の枝に引っかかった風船を取るように。彼は笑顔でさくらにそれを渡す。それは紛れもなく、あの日神に奪われた鋏で。呆然としているさくらの代わりに、睦大和が受け取ると初音守は笑う。

「奴が鋏を渡す前に僕が奪ったからね。――契約の条件には適合しない」

 彼の笑顔は、ただただ底なし沼のようで。

「死ねなくて残念だった?」

「――…お前なあ…」

 睦大和が長いため息を吐き出す。

 さくらはぺたん、と座り込む。突然、涙が溢れた。瞼の下が酷く熱い。耳も。喉も。手のひらも。

「ごめんごめん」

 そう言って彼はさくらの頭を撫でる。涙は止まらず、彼の顔は水の向こうで。もうあの恐ろしい笑顔は見えない。


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