四日目(2)
睦大和はぽんぽん、とさくらの頭を撫でる。それから息を吐くと周りを見回す。さくらも涙を拭って改めて見る。ひしゃげた衛兵達と、壊れた赤子。言いようのない恐怖を感じ、さくらは無意識に巡雨に触れる。そして、ふと巡雨の大きさが二回りほど小さくなっているのに気づいた。
「巡雨…」
あぁ、とその獣は僅かに笑う。
「広い身体を維持するのが、厳しくなってきた。思った以上に、外にいるのは体力を使うものだな」
「そういうもんなのか。出来るんだったら、もっと小さくなってもいいぜ。そっちの方が楽なんだろ」
睦大和に言われ、巡雨は僅かに唸る。
「もう平気だ。こいつは俺がきちんと守る。約束する」
分かった、と巡雨は頷きそれからゆっくりと角の先の球を転がす。濃い桃色になった、と思うと同時に彼の身体は徐々に輪郭が歪んでいく。気づけば、小型犬ほどの大きさになっていた。
「不思議…」
さくらの呟きに巡雨は笑う。その顔――人間ではないのに、きちんと感情が透けて見える――を見るとまた泣きたくなる。どうしてわざわざ大きな身体でいたの、と問いかけてすぐに理由に思い当たる。あの大きな身体はさくらを守るためだったのだ。巡雨を抱き上げる。その獣の右目のあたりに、熱があるのに気づく。
「ここ…」
「大丈夫だ。もう痛くはない」
さくらは、ただその柔らかい生き物を抱きしめる。睦大和はその横で軽く笑った。
「ところで、中の様子はどうだった」
巡雨の問いに、睦大和は頷く。
「中は一人を除いて全滅。資料やら材料やらも全部破壊されてる。奥の展望台は無事だった。とりあえず、一人分、人を造るよう要請しといた。中が無事だったら…もっと作れたと思うんだが…」
「そうか。…我々が、ここに来なくてもそのような事態になったのだろうか?」
睦大和は考え込むように上を向く。
「分からん…でももし俺たちと関係があるなら…どうして俺たちがここに来ることを知った?製作所で人を造るということは、簡単に予測できることなのか?」
「…分からぬ」
「それに…元々衛兵は何処かで隠れていたように見えた。ここは基本的に禁足地域だ。中にいる所員たちも外に出てくることはあり得ない。…ならば何故隠れている必要があった?」
「…私達を、待ち伏せしてたってこと?」
「恐らく。さくらたちが中に入って少したったあたりで、奴らは上から落ちてきた。恐らく、蓋の上にいたのではないかと思う」
「蓋?」
睦大和が頷く。
「箱の上に被さっている蓋だ。…とはいえ、勿論普通の人間がそんなところに居られるはずもない」
巡雨が唸る。さくらはしかし首を傾げる。
「…蓋…」
やはりその言葉に何か違和感を感じ、空を見上げる。
「あの、空の上に蓋があるの?」
「空…?あぁ…零箱には全部あるんだもんな。壱から四の箱には自然は一つずつしかない。ここ壱箱には、大地だけだ」
「え?」
さくらは周りを見回す。確かに、地面しかないようには見える。川や丘などは見受けられない。しかし。
「…だって」
空を指すと、睦大和は笑う。
「あれはただの蓋の内側だ。空があるのは弐箱だけだ。ちなみに参箱には海、四箱には山だけが存在する」
ますます意味が分からない。そもそも海しかないなかでどう生きていくのだろうか。陸地はあるのか。島のようなものがあるのか。――しかしそれは大地とは呼ばないのだろうか。では、例えば船の上で?
「まあ不思議な感じだけどな。でも本当にそれしかない。海なら海だけだ。大地も山も空も存在しない。だが、それぞれの箱にはそれぞれ生きていくための神からの賜り物がある。参箱に行ったことがあるが、きちんと海中に住居が存在する。そして、呼吸のための設備もある。で、壱箱同様に衣食住に関わる植物が生えている」
そのうち他の箱に行けば分かる、と睦大和は断言する。
さくらは唐突に、自宅の水槽を思い出した。ぽこぽこと音を立てて酸素を入れる機械。そうだ、ヒーターもあった。餌は一日一回。水替えは週に一、二回。喧嘩をしない魚だけを入れる。
そうか、と心の中でさくらは笑う。睦大和がこちらを怪訝そうな顔で見たが、首を横に振る。ようやく全てが理解出来た。この世の中もそうなのだ。神は壱から四の箱を造ってそこに生きていくために必要なものを入れた。最低限生きていけるだけのものを。何の目的で、神はそんなことをしたのだろう。ただ眺めて楽しみたかったのか。種の保存のためなのか。となれば、零箱もそれと同じなのだろう。ただ違うのは、造ったのが神ではないということ。彼らは、どうして零箱を造ってしまったのだろう。それさえなければ壱から四の箱は変わらず神に愛され、ただ箱の中で繋いでいけたはずなのに。それが幸せなのかどうかは分からないけれども。例えば、水槽にいる魚たちの幸せなど分からぬように。
ところで、と睦大和が言いさくらはようやく顔を上げる。
「壱箱にはもう寄るべき所もない。一旦箱を出て、他の宿主と合流しようと思う。また襲撃を受けるとやっかいだからな。戦力は少しでも多い方が良い」
「他の宿主?」
「そう。他の宿主も今色々と調査をしている。四箱の歌椿は零箱に行っている。出来れば零箱での戦闘は避けたいし、そっちは任せるつもりだ。参と弐と合流しようと思う。まあ…参箱の方はほっといても大丈夫だろうが、弐箱の宿主はまだ子供だからな。ちょっと心配だし」
さくらは頷く。何となくこれ以上の人と関わるのが嫌な気もするが、兎に角言われたとおりにするしかないのだ。
ちょっと待っていろ、と睦大和は言うと懐に手を入れ、なにやら万年筆のようなものを取り出した。それを使い何か空中に文字を書いていく。書かれた文字は一つ一つ発光してすぐにパチンと消える。シャボン玉のように。横からそれを見ると、それは日本語に見えた。漢字と片仮名の入り交じった文。【壱箱ノ調査ハ終了 全―壱】。
ややあって、目の前にまた何か発光するものが見えた。そしてそれらはまた一字ごとに消える。【箱前ニ来ルベシ 壱―参】。
「今のは?」
「葉書だ。昔何処かの箱で発明されたらしい。宿主同士の伝言に使う」
「はがき?」
四角い切手の張られた紙を思い出しながら問うと睦大和は頷いた。ふうん、とさくらは小さく呟く。これ以上説明を求めても無駄という思いが何処かにわき上がる。ここは異世界なのだ。いちいち生前のものと比べたところで何の意味もない。それに、どうせあと数日でさくらは死ぬ。今更細かい言葉や仕組みを問う必要もないだろう。
「で、箱の前で初音守って奴が待ってる。参箱の宿主だ。――少し移動しよう。天使が来たってことは神に見張られている可能性が高い」
さくらは頷く。あまつかい。さくらの知る天使と同一とは思えなかった。慈愛に満ちた、羽根を背にもつ、そんな存在。あれが天使だというのには違和感を感じる。それを言ってしまえば、神もそうだとさくらは思う。人は神に祈る。神は人を救う。そうだと信じていた。では、それを零箱に伝えた人物は誰だったのだろう。ただ、呼び名が同じだけで全く別なのか。それとも、神や天使にはそういう側面もあるのだろうか。
彼はまた、地面を叩く。トンネルが再び現れ、そこに乗り込んだ。
「一旦、製作所から遠ざかるぞ。また天使に来られるとやっかいだ。――これ以上、製作所が壊れるのもな」
さくらは頷き、それから問う。
「天使って、一体何なんですか?」
「文字の通り、神の…天の使いだ。元は、人間の魂とかって言われている。どういう仕組みで天使になるのかはよく分かってないが。神は、壱から四の箱へ入ることが出来ない。蓋がしてあるからな。それで、代わりに天の使いを送る。とはいえ、そんなにしょっちゅう来るものでもないし、攻撃を仕掛けてくるっていうのは…聞いたことねえな」
「零箱には、神は来るのに?」
あぁ、と睦大和は頷く。
「零箱には、穴があるから」
「穴?」
「蓋はあるんだけど、穴が開いているんだ。そこから投入が行われたり…後は、展望台と繋がっていて除き穴のようになってる。――あぁ、それで…そこから、源箱の蓋の…所謂、天からの光が漏れてきてるんだ。何て言ったかな、んーと…そうだ、太陽」
それはさくらにとっては驚きとも言える事実で。しかし、どうでも良い、と。その思いがまた、さくらを支配する。零箱のことについてはどうでも良い。ただ、あの恐怖をもう一度味わいたくはないだけで。
「…また、来るの?」
問えば睦大和は頷く。
「恐らく」
その言葉にさくらは俯く。恐ろしいことはもう嫌だ。出来れば静かに、このまま終わりを迎えたい。
少しの時間、進んだときに、不意に彼は言う。
「そういや、さくらって…零箱にはそういう木があったな。綺麗な花だった」
唐突に言われ、さくらは目を瞬かせる。それが彼なりの何か思いやりのようなものなのかは分からない。
「…別に」
さくらは小さく呟くと、目を閉じる。母の声が脳内を満たさぬようにと下唇を噛んだが、もう遅かった。母の、声が遠くに響く。
――桜の花のように綺麗な、薄紅色の、美しい肌になれるように。あなたは、さくら。ねえ、可愛いさくらちゃん――
「別にってことはないだろ。良い名前じゃねえか」
「――良い名前なんかじゃない」
え、と問い返す睦大和を、さくらは見つめる。睨むように。縋るように。
「私は、本当はアイって名前になる予定だったの。愛する、っていう字を書いて…愛」
それは、こっそりと読んだ母の日記で知ったことだった。
「ママとパパの、愛しい子。沢山の人から愛されるように…で、“愛”。でも、私はその名前になれなかった。生まれた後、ママは私に“さくら”と名付けた。桜の花のように綺麗な、薄紅色の、美しい肌になれるようにって」
私は、とさくらは唇から言葉を漏らす。ざわざわと腹の中が動く。喉の奥がビリビリと音を立てた。急に息が苦しくなる。この事実を思い出すときはいつもそうだ。
どうしてどうしてどうして。さくらはじっと巡雨を見つめる。あの時守ってくれた。無事で本当に嬉しかった。そう分かっていても。どうしても。十二年間の思いは簡単には消えずに。いつの間にか巡雨は、目を見開いていた。
「あなたが居なければ、私は“愛”だった。みんなに愛されて、ママにも愛されて。幸せだったの!もう嫌…!」
さくらは唇を噛む。身の状態でも、鉄の味が舌に染みた。涙の、塩辛さと一緒に。
もう嫌、ともう一度呟くと涙が止まらなくなった。
「もう終わりにしたい!もう…未来なんかいらない!あの、黒い世界に返して!」
ただ漂うだけの、あの世界に。あの、真っ暗な、何も見えない。
「どうして、生きていなくちゃいけないの?どうして、死を望んじゃいけないの?誰にも、愛されていないのに。…誰も、愛せないのに」
睦大和が、何かを言った気がした。巡雨も恐らく何かを。
けれどさくらの耳にはもう何も届かなかった。ただただ、トンネルの暗闇に言葉が反響する。それがさくらの身体に、突き刺さる。愛されなかった、さくらに。




