四日目(1)
あぁ、と睦大和が言う。
「朝だ」
首を上にあげるが、特に上空に変わった様子はない。さくらは首を傾げる。
「…夜と変わらなく見えるけど…」
「何処が変わるんだ?」
睦大和は不思議そうに言い、そして地面を指し示す。
「砂が、乾いているだろ。これが朝って事だ」
「…乾いていないと?」
しゃがみながら地面に手を触れる。確かに、さらさらと砂は軽く動く。
「夜だ。夜のうちに砂は水分を蓄え、それを木に含ませる。そうなると、朝には水分を得た木が実を付ける」
「…雨が降るの?」
睦大和は首を横に振る。
「木は葉から水分を放出する。それが空気中に漂って、やがて落下して砂に染みこむ。そうしてまた木は水分を取り込む。壱箱ではそれを一日という軸にしてる」
ふうん、とさくらは頷き、それから、もう一度砂をすくった。不思議な世界だ、と思いそれから心中でそれを否定する。違う。これが普通の世界なのだ。さくらのいた世界こそが、きっと不思議の世界なのだ。ところで、と睦大和が辺りを見回す。
「巡雨は何処行った?」
言われてさくらも顔を上げる。周りにはやはり大地しか無い。さくらが巡雨を探そうと立ち上がった途端、それは降ってきた。どすん、とくぐもったような音がして、白い獣が倒れ込む。さくらはほぼ無意識に、その生き物の名を呼びそちらに駆け出す。しかし、その肩を誰かが掴んだ。
「動くな!」
その声はさくらの耳に落ちる。睦大和の声、と気づくと同時にさくらと巡雨との間に何かが、今度はやや重ための音と共に何かが降ってきた。そしてそれは一つではなかった。まるで壁のように。十数体が円を描くように並び、さくらと後ろにいる睦大和とを囲む。睦大和が小さく舌打ちをした。
「何――?」
「何処かに行ったと思われた衛兵だ」
さくらはその言葉に目を見開いて、まじまじとそれを見た。白いつるりとした頭部には目や耳、鼻らしきものは見えない。ただ顔の半分を大きな口が占めている。その口の中には鋭い歯と長い舌がちらりと見える。ぽってりとした身体がついているが、四肢は見あたらない。大きさはおおよそ一メートル半ぐらい。彼らは胴体を地面に擦りつけながらこちらにじりじりと近づいてくる。衛兵、というからには人型で何か武器のようなものを持っているであろうと勝手に想像していたさくらは、その奇妙な生き物に悪寒を覚えた。
「俺のそばを離れるなよ」
ぼそりと睦大和が言い、さくらは頷く。衛兵の隙間から見える巡雨が気がかりだが、少なくともここで勝手な行動をして足手まといになるわけには行かないことだけは分かる。
不意に、笑い声が上空から聞こえてさくらは顔を上げる。少女の、笑い声。
「――誰だ」
睦大和の声に、ふわり、と上から降りてきたのは――見た目は、赤子であった。丸いふっくらとした顔に短い手足。くるりと丸い瞳。柔らかそうな灰色の髪。さくらが昔持っていた赤ん坊の人形のような。身長も恐らく五、六十センチほどであろう。
「天からの使い。一七七三」
舌足らずな口調に睦大和は小さく「くそ」と呟く。
「天使か」
これが、とさくらは息をのむ。
「父しゃま、零箱、嫌い」
ゆっくりと一七七三はさくらに向けて指を向ける。
「さくらも、嫌い」
刹那、激しい震えが踝から背筋を駆け上る。それは昇華されることなく肩を越え、喉から脳へと暴走する。
「…や…!」
震えは酷い冷たさを生み出す。綴じ合わせた唇はぶるぶると震え、隙間から小さな悲鳴が漏れる。母のワンピースの袖からも足下からも何かが来る感触がして、さくらはその場に座り込む。何なのだろう。この、小さな赤子の纏う空気は。びりびりと肌が痛めつけられる感触。
「一七七三、さくら、殺す」
そう言ってにこりと彼女は笑い、さくらを指していた指を天に向ける。それと同時に、先程まで黙ってこちらを見ていた“衛兵”が一気に跳躍した。
「くそ!立てさくら!」
睦大和の怒鳴り声は震えに阻まれる。言葉は素通りしてただの音となる。
「さくら!」
目の前に、衛兵のつるりとした頭があった。その下半分には、舌と涎が半端に開いた口から見えている。刹那、さくらは現実に戻される。震えはもう感じなかった。ただただ、その生き物が恐ろしくて気味が悪くて。ほぼ無意識にさくらはそれを手で押し返す。激しい重みを手のひらから感じる。押しとどめている頭の下でカチカチ、と歯を鳴らす音がしてさくらは小さくまた悲鳴を上げる。もう、見るのも恐ろしく目をそらす。その時、手のひらへの圧力が消えた。それと同時に、睦大和の黒い服が目に入る。その黒に触れて、さくらはようやく息を吐く。下をちらりと見ると恐らく先程さくらに飛びかかってきた衛兵が睦大和のブーツに踏みつぶされているところだった。
間髪を入れず、次々と衛兵が飛びかかってくる。しかし、睦大和は冷静だった。片手でさくらを抱き上げたまま空いた手と足を使い、なぎ倒していく。さくらはただ、睦大和の服を握りしめて落ちないように掴まっている。
そして何度かの衝撃の後に、衛兵達は全て動かなくなった。ゆっくりとさくらは下ろされる。睦大和は軽く息を弾ませていた。
不意に、クスクスと笑い声が聞こえて弾かれたようにさくらはそちらを見た。
「さすが、つわもの、ね」
睦大和は無言のまま、さくらの近くで一七七三を見つめている。さくらは焦れながら巡雨を見る。駆け出したい衝動に駆られるが、睦大和の手がそれをしないよう語っている。
一七七三はにこりと笑う。屈託のない笑顔。
「さくら、ちょうだい」
さくらは歯を食いしばる。そうしなければ、また隙間から悲鳴が漏れてしまう。僅かな震えを感じながら、無意識に睦大和の服を握った。睦大和は無言のままその握ったさくらの手を外し、ぽんぽんと二回叩いた。
「――動くなよ」
え、とさくらが問い返そうと顔を上げた瞬間、睦大和はそのまま一七七三に向かって突進する。バチン、という音と共に一七七三が地面にたたきつけられた。睦大和はそのまま一七七三を押さえつける。
「神は何処だ」
「おしえない」
赤子は感情を込めずに、ただ答える。睦大和の右手は一七七三の額にある。
「鋏は誰が持ってる」
「おしえな」
「――言え」
さくらは思わず一歩踏み出しそうになり、それから睦大和に言われた「動くな」という言葉を心中で反芻しそれで立ち止まる。誰にも触れず、一人で立っているというだけで酷く心細い。
「…言えば、手荒な真似はしない」
「おしえ」
「言え!」
睦大和の、その怒鳴り声と同時だった。ぼん、と何かが爆発したような音がして一七七三が壊れた。壊れた、という表現は恐らく正しくないのであろうが、しかし間違いなくそうであった。手足が一瞬のうちに取れ、首ががくりと後ろへ沈む。口からは紫色の煙がもくもくと流れていき、見開かれた瞳は真っ黒になる。バチバチ、という音がしている。
睦大和は深いため息をつくと、そのまま立ち上がった。さくらを手招きし、それから巡雨の方へと行く。
「…大丈夫か」
小さなうめき声が聞こえて、さくらは肩の力を抜く。
「――油断をした。すまぬ」
小さく巡雨は呟き、睦大和は頷く。さくらは息を吐き、そうして目の前が歪んでいることに気づいた。何だろう、と思い、そうして頬に何かを感じる。ようやくそれが涙であることに気づいた。一度気づくとそれは止まらなくなり、ただただ同じ筋をなぞっていく。それが何故流れたのかはよく分からなかった。恐怖なのか、安堵なのか。
「泣くな」
小さく笑ったように言う巡雨の声は何処か暖かみを帯びていた気がする。うん、とさくらは応え涙を拭うがそれでもそれは止まらなかった。




