三日目(2)
やや歩いて、彼は歩みを止めた。地面に描かれた線。その交差に赤いつるりとした握り拳ほどの円が埋まっていた。他の交点には見つからない。これは一体何なのだろう、とその赤をさくらはじっと見つめる。
「とりあえず移動だ。先程も言ったが製作所へ向かう」
そう言って彼は足下の半円を踵で叩く。するとその半円に繋がる線は僅かに振動し、ゆっくりと上へと持ち上がる。それは、どうやら地面に埋め込まれていたようだ。細い線に見えたが、上がってくると同時に縦横に広がり中にぽかりとした空洞が出来る。高さは恐らくさくらの身長ぐらい。横の広さは一メートルほどの長いトンネルのようだ。土管にも思えるそれのぽかりと開いた入り口に、睦大和は入り込む。全てを壁に覆われているのに、中は明るい。特に電灯のようなものは見えない。トンネル自体が淡く発光しているようだ。
「来い」
言われるがままにそれに入り込むと、睦大和は数桁の数字を呟いた。すると、そのトンネルはぐにゃりぐにゃりと道を造るようにゆがみ、やがて静止する。そしてゆっくりとそのトンネルの地面が動く。動く歩道――さくらは乗ったことがないが――のようにゆるゆるとさくらたちは動いていく。
「これ…は…?」
「目的地まで、こうやって運んでくれる。便利だろ?ちょっと距離があるから歩くより速いかなと思って。あとは…まあ歩くとなんだかんだで目立つしな」
ちらりと後ろの巡雨を振り返って睦大和は笑う。くしゃりとした笑い顔は思った以上に優しく見えた。巡雨は意に介しないように前足の間に顔を埋めて瞳を閉じている。さくらは目を瞬かせる。
「…これは…こういう技術なの?」
問うと彼は首を横に振る。
「箱には人を助ける力がある」
「力?」
「これは神からの賜り物だ」
そう言うと睦大和は壁に身体をもたせかけた。では、地球には人を助ける力があるというのだろうか。それは何だろうと、ぼんやりと考え、それから少し可笑しくなる。在るわけはない。神が手出しをしていない、人工の箱。
少しの時間が経過した後に、ぽつりと、睦大和が呟いた。
「誰も望んで、宿主なんかにはなってないよな」
さくらは、予想外の言葉に思わず顔を上げて睦大和を見つめる。
「俺も。…たぶんみんな。誰も望んではなってねぇよ」
だって嫌だよな、と睦大和は笑う。
「生まれたときから、こんな身体で。死ぬことも逃げることも叶わない。お前がいないと箱が消滅するから気をつけてね、なんてさ――あぁ、悪いな巡雨。お前の前でこんな話」
あまりに軽い言いように、さくらは瞬きを繰り返しながら睦大和を見る。
「でも、受け入れるしかないんだ。もしもこうだったら、もしもああだったらなんて考えてもどうにもならない。これは消せないし一生背負わなければならない。何で俺だったのかは知らない。でも、俺はもう受け入れるしかないんだ」
「でも」
さくらの言葉を遮って睦大和は言う。
「これは、俺にしかできないんだ。そう、思い上がるしかない。俺以外の誰にも出来ない。俺には出来る。そう思って、ここまで来たんだ」
彼は少し笑う。
「考えても考えても答えは出ねえよ。ましてや逃げることなんか出来ない。それより、受け入れた方が楽だ」
そして、と彼はさくらをじっと見る。目尻に薄い皺が寄った。
「たぶん、そっちのほうが幸せだ」
そうなのかと腕を撫でる。慰めてくれているのか、どうなのかは分からない。同じ線を持っている者のせいか、反発心はあまり起こらなかった。そのまま、静かにさくらは線の無くなった腕を撫で続ける。発生した僅かな熱は、さくらの指先を暖かくしてくれている気がする。
不意にさくらは、先程の男達を思い出す。
「…あの、宿主って…箱にとって、どういう存在なんですか」
「どういう?」
「あの…さっきの、人たち…」
護衛されていたように見えたが、彼らが放った言葉は決して要人に対する言葉には見えなかった。むしろ、囚人のような。
「…あぁ…」
睦大和は僅かに口元をゆがめる。
「零箱以外の箱では宿主という存在は認知されてるからな。…まあ、箱によって様々だな。他の箱を出入りできるっていう特権から“記録者”として優遇される箱もあれば権力の象徴としていつも戦争で狙われてる箱もある。――ここには誰に連れてきてもらったんだっけ?」
「歌椿さんに…」
さくらの言葉に、睦大和は頷く。
「歌椿のとこの四箱は特に何も無いと聞いた。優遇も冷遇もされないと。まあ、あくまで一般人ってことだな。――ここ、壱箱では幽閉だな」
「幽閉…?」
「本当かどうかは知らねえが、支えるものには箱を破壊できるだけの力があるんだと。だから、それを恐れて壱箱は昔から宿主が産まれたときに王家に届ける決まりがある。そこに届けられた赤ん坊は、幽閉されて一生を終える」
さくらは目を瞬かせる。淡々と彼は語るが、それでは彼はずっと幽閉されているのではないか。
「…まあ幽閉というと言い過ぎかな。保護、という方が適切だな。衣食住は完璧に保証されるし、奴隷階層から見れば天国のような場所だ。――ただまあ人質は取られるな。基本は親兄弟。あとは結婚すれば、嫁と子供。宿主がもし脱走を試みたりしたら殺される。まあ滅多に王家の土地からは出られない…こういう、有事の時だけだな」
奴隷。人質。非平和的な言葉にどう答えて良いのかは分からず、さくらは小さく頷いた。自分は彼に比べたら幸せなのかもしれない、とそう思い、それからそう思う自分に嫌悪する。人と比べて幸せに浸ると言うことは、とても意地の悪いことに思える。さくらのその心中に気づかぬように、睦大和は少し笑った。
「壱から四の箱は通常あまり交わることはないが、一つの同じ意思を持っている。それが、神から零箱を守ることだ」
「…守る…」
そう、と彼は頷く。
「昔、壱から四の箱が未だ繋がっていたとき、彼らは協力して零箱を造った。いわば子だ。それを守るということはそれから幾億年もの時が過ぎても、箱が分断されても変わらない。一つの意思だ。もう製作所自体は壱箱にしか残っていないが、零箱を見ることの出来る展望台は各箱各所に未だ沢山残っている。ずっと俺たちは見守ってきた。――そして、有事の際には、唯一箱を出入りできる宿主が向かうということが決まっている」
さくらはぼんやりと睦大和を見つめる。不思議な感じだ、と思った。先程声を荒げた彼はもうそこにはいない。どこか、慈愛に満ちた目。思えば母以外の人間と話したのは先程の歌椿を除くと、久しぶりで。それも、こんなにも長く話したのはもしかしたら初めてかもしれない。
「…私は、何も知らなかったんです」
呟くと睦大和は頷く。
「零箱の宿主は、みんなそうだ」
「みんな?」
「お前の前の宿主も、その前の宿主も…みんな何も知らずに、巡雨を繋いでいる」
前の宿主、と言われてさくらは瞬く。そうなのか、と息を吐く。そう言えば歌椿が、断ち切って別の宿主を捜すというようなことを言っていた。あの線を持っていた人が、過去にも居たのだ。でも、とさくらは思う。だったら、と。
「今まで、私みたいな宿主はいなかったんですか?みんな…あの、今までの宿主も…繋いでこうなってるんだとしたら…どうやって生きていたの?」
線を抱えながら、生きていたはずの人。隠して生きていたのか。さらけ出して生きていたのか。迫害されたのか。崇められたのか。
しかし、睦大和は首を横に振った。
「正直、分からん。――そもそも、展望台はあるが、ひとりひとりを判別できるようなものではないんだ。ただ、神が零箱の宿主に接触したのは…俺の知る限りは初めてだ」
「…どうして私にだけ…?」
さくらは振り返って、沈黙を守っていた獣を見る。巡雨は静かに目を閉じていた。そのまま、小さく「分からぬ」と呟く。
「――私は、青紋に入っている間全ての感覚を失う。ただ、そこにあるだけの状態なのだ」
「…感覚って…声とか、音とか…」
「何も無い」
「じゃあ何か考えたりとか…」
「思考も、停止する」
巡雨は素っ気なく答える。さくらは首を横に傾げた。それは一体どういう状況なのか。それは果たして、生きているのか。そこに、さくらの求める――例えば幸せや生きる意味はあるのか。ただむなしいだけの命に感じる。
「でも、知識はあるよね?」
宿主のことや天使のことは知っていた。そう言うと巡雨は頷く。
「理解はある。だが、その知識がどこから来たのか誰から教わったのかは分からぬ。記憶を失っているのか、それとも元々何も無いのかも…分からぬ」
「…それって楽しいの?」
思わず問うと巡雨は片目を開ける。
「楽しい?」
「…え、だって…いつも、何してるの?」
「だから、そこに在るだけだ」
「お腹…すかないの?」
問うと、巡雨は顔を上げてとさくらを見、それから低い笑いを漏らした。
「…え、何?」
「いや…。私も、生まれて初めて宿主と話をしたが…なるほど面白い」
横では睦大和がまた、笑いをこらえている。さくらは二人を交互に見て、それからまた首を横に傾げた。笑う二人は、先程さくらに冷たい視線を向けた者達とは別に見える。ひとしきり笑ったあと、睦大和は真面目な顔になる。
「まあ…神が今回何故お前を見つけたのかは不明だ。探していたのか…たまたま見つけたのか…」
そう言われて、ふとさくらは思い出す。風呂場で聞こえた、あの「みつけた」という声。駐車場で会った男が神だというならあの声は。
それを睦大和に伝えると、彼は急に難しい顔つきになる。
「――そうか。…となると、今まではずっと探していたってことなのかな」
何故かな、と睦大和は呟く。さくらが視線でその意図を問うと、彼はうん、と頷く。
「どうやって見つけたんだろう。そもそも、零箱に神話が伝わっていないのは、神から遠ざけるためと言われてる。神話が伝われば、人々は崇めたり祈ったりするだろう。信じる者が居れば、神はそこにするりと入って来やすい。だが、知らなければ誰も受け入れない。そこに神が居ても、気味が悪いと遠ざけるだけだ」
さくらは頷く。自分の持っていた線と同じだ。もしも神話が伝わっていて、例えば宿主という役割が認められていたら。考えかけて、そして目を閉じる。仮定の話をしたところで何も変わらない。線が無くなる夢の狭間で、時折見た違う夢。あなたは必要な人間よ、と誰かに言ってもらえる夢。その線は、その証なのよと。そう夢で響いた声は母親に酷似していた。目が覚めれば、その線はただ身体に這う異物でしかないのに。




