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食卓での誠一郎の結婚の話はその後も続き、精神的ショックは少なくなかったがなんとか平静を装って、彼らの話すおおよその中身は把握した。
夕食後、部屋へ戻り、ひとりになって考えてみた。
誠一郎が誰かと結婚して、会社の跡継ぎになるのは、予想されていたことであり、突然の事とはいえ、別に俺が不機嫌になったり、反対することでもない。
誠一郎の結婚相手は由ノ伯母の実家からの紹介であり、晟太郎伯父の会社の取引先の令嬢で、文句の無い相手であり、それで誠一郎が幸せな結婚生活が出来るのなら…
それはそれとして…
心からの祝福は出来ないまでも…
認めてやっても、いい話じゃないか…
…
……。
誠一郎の結婚を必死になって自分自身に正当化させようとしているのが、バカみたいに思えた。
我ながらその情けなさに、無理に笑おうと思っても涙が止まらなくて、そのうちに泣きつかれ、遂には眠ってしまったのだけれど…。
翌日、泣いた所為で頭痛が残っていたが、腫れた瞼を冷やすと、普段通りに本家のリビングへ向かった。
リビングからは、誠一郎の弾くピアノの音が聞こえた。
朝の光に似合う柔らかなジャズのメロディ。
俺は誠一郎が京都のジャズバーでバイトをしていることを知っていた。
こっそりと調べ上げ、誠一郎には内緒にして、一度だけだが、店へも偵察へ行った。
ライブが評判のその店で、誠一郎はプロのミュージシャンの休憩中にピアノを弾いていた。俺に一度も見せたことのない何とも幸せそうな顔で。
俺の知らない誠一郎に、悔しかったり、情けなかったり…複雑な気分で誠一郎のピアノを聴いたものだ。
その時聴いた音とは違い、リビングの誠一郎の弾く音は、なんとも…音が重く、楽しげには聞こえなかった。
もしかしたら、誠一郎は結婚の話に乗り気ではないのだろうか…などと、俺は自分勝手な解釈で自分を励まそうとしていた。
「やあ、朝から誠一郎のピアノを聴けるとは贅沢な気分になるよ」
俺は精一杯の虚勢を張り、何もなかったようにピアノを弾く誠一郎に近づいた。
「…そうかい」
誠一郎は一言答えつつ、弾き続けた。
「…伯父さん達は?」
「墓参り。夕方まで帰ってこない。今日はお手伝いさんも御盆休みを取っているから、ふたりで食事をしてくれって」
「そう…」
「朝食はどうする?何か作ろうか?」
「いや、いいよ。適当に取るから、誠はそのままピアノを弾いててよ」
「…わかった」
リビングの誠一郎から離れ、俺は台所でコービーを煎れ、ひとりで飲んだ。
誠一郎の弾く、ゆったりとしたブルージーなジャズが、心地良い。
…変じゃなかったかな?
いつもと変わらぬ俺で、いられただろうか。
誠一郎の結婚に、傷ついた自分を知られたくないなんて、つまんねえプライドだと思いつつも、やっぱりどこまでも強気の俺でいたいって思ってしまうのは、まだまだガキだからかな…
「よし!大丈夫だ」
コーヒーを飲み終えた俺は、リビングへ戻り、ピアノを弾く誠一郎の傍に近寄った。
「なあ、それ、なんて曲?」
「…Dreaming」
「夢か…。理想って意味もあるよね。そういや、誠一郎の夢とか理想とか…今までに聞いたことあったかな」
「…」
「俺はあるよ。晟太郎伯父や由ノっちやお袋たちみんなを幸せにしたいって、この家に来た時から夢見てたんだ…」
「…」
誠一郎は突然ピアノを弾くのを止め、顔を上げ、俺を責める様に睨みつけた。
…え?…見透かされている…?
そうだ…。
俺が幸せにしたいと願っている家族に、誠一郎はいない。そして、頭に描いた俺の理想を誠一郎は気づいてしまったのだ。
自分の吐く言葉の責任を感じたことなどないけれど、誠一郎の強張った顔を見て、俺は慌てて繕う言葉を探していた。
「もちろん、誠も幸せになって欲しいって…俺、思っているから。…遅れたけれど、結婚おめでとう」
「心にもないことをよく言う。おれに幸せな結婚なんてできるわけないって、そう思っているくせに」
「…そんな事…思ってねえよ」
嘘だ。
俺は女性に興味が持てない誠一郎が、幸せな結婚生活を送れるとは、微塵も思っていなかった。
「宗二らしくない下手な嘘だな。…おれと違ってね」
「…」
「おれは…おまえがこの家に来てから、一度も幸せだと思ったことはない」
「…え?」
「全部おまえの所為だよ。宗二朗。おまえと澪子叔母さんがこの家に来てから、おれは…おれの心はバラバラに壊れてしまったんだ…」
「…どういう…ことだよ」
「おまえがこの家に来るまで…いいや、お祖父さまに会うまでは、おれがこの家の、嶌谷家の希望だったんだよ。この家も嶌谷家の財産も会社もすべて長男の一人息子であるおれに引き継がれるものだった。だけどお祖父さまは、おまえを一目見て…おまえこそが嶌谷の名を継ぐに相応しい男だって…おれに言ったんだ。ずっと一緒に暮らしてきたおれよりも、たった一度だけ見舞いに来た宗二朗、おまえが…王者たるにふさわしい獅子の瞳をしていると…そう、おれに言った。おれに見せたことも無い嬉しそうな顔で言うんだぜ。…残酷だと思わないか?おれはそれまで嶌谷家の立派な跡継ぎになろうって、両親に認められたくて、がむしゃらに頑張ってきたのに…。私生児のおまえが嶌谷家の…跡取りだなんて…」
「…そんなの…俺は知らないし、祖父さんの死に際の勝手な言い草なんだろう?俺は嶌谷の後を継ぎたいなんて思ったことは一度もない」
「たとえ、お祖父さまの戯言だとしても、少しも間違っていない。だって、おまえは…本当に、誰も彼もを魅了してしまう存在なんだから。…父も母もおれよりもおまえの方を可愛がっていたじゃないか。おれはおまえよりもずっと年上だったし、良い子であろうとしていたから、表には出さなかったけれど、…随分と宗二に嫉妬していたよ」
「…誠…」
「おれの存在価値を脅かし、おれの夢も希望も奪ってしまうおまえを憎みもしたけれど、…それでも、やっぱりおれも皆と同様におまえが…。小さい頃はおれにムキになって反発するおまえが可愛くてたまらず、だんだんと成長していく姿に見惚れていた。…おれが、ゲイになったのはおまえの所為だよ、宗二朗」
「…」
思いがけない誠一郎の告白に、どう返答すればこの場を取り繕うことが出来るのか…。俺の頭の中はこんがらがっていた。
「おまえの存在がおれをこんな風にした。女にも興味も持てない。嶌谷家の跡継ぎにも相応しくない。じゃあ、おれはどうすればいい。おれは何を夢見て生きていけばいい。…おまえがおれを壊し続ける限り、おれは夢などみれるわけもない…」
「…誠…俺はそんな…」
「おまえと抱き合う度に、おれはおまえに引き摺られ、自分の居場所を失って行くような気がしていた…。おまえだけが悪いわけじゃない。そんなことはわかっている。『愛している』『誠は俺のものだ』って、何度もおまえから言われるたびに、心が震える程、嬉しかったのも事実だ…。おまえをおれに繋ぎとめておけば、おれは捨てられることはない。嶌谷家に居ても許されるんだって、思い込もうと思ったりもした…。でも、おまえは…一度だっておれを家族としては見ていなかったよな」
「誠…俺が家族として見れなかったのは…」
「わかるさ、おれだって、同じだ。一度だって宗二を弟なんて思ったことはない。おまえとおれは愛を弄る者だ」
「…」
「なあ、宗二。愛し合っているからって幸せにはなれないものなんだなあ…。今のおれは、おまえが…憎くて…。こんな自分が嫌で…嫌でたまらない…」
俯いた誠一郎の表情は見えなかった。けれど、誠一郎の方は震え、そして、白い鍵盤に涙が零れていくのが見えた。
俺はもう何ひとつ言葉が出なかった。
俺を憎いと言う、愛していると言うおまえに、何が言える。
俺は急いでその場から逃げ去った。
その夜は頭痛がするからと伯父たちの前には出ずに、自室に引きこもっていた俺だったが、夜、部屋へ母が夜食を持ってきてくれた。
「宗二朗、大丈夫なの?」
「…別に、平気だし」
「熱は…ないようだわね」
ベッドに横になった俺の額に手を当てた母は、平熱の俺を確かめた後、安心したように溜息を吐き、不貞腐れる俺をじっと見つめた。
母は俺の仮病を責めなかった。
「誠ちゃんのこと、ショックだったんでしょ?」
「…」
「ゴメンね。知らせなくて。話は聞いて知っていたんだけど、なかなか落ち着かなくてね。やっと、決まっても、なんだか宗二に言いづらくなっちゃったのよ…」
「大丈夫だよ、母さん。俺、もう子供じゃないし…自分の感情は自分で始末できるから」
「うん。でも、さ…まあ、青春って馬鹿みたいに浮かれたり、逆に死ぬほど辛かったりするけれど、どうにかなるものよ」
「…わかってる」
「…じゃあ、おにぎり置いとくからね。滅多にない母の手作りなんだから、よく味わって食べるのよ」
「…うん」
母の思いやりは充分にありがたかった。
母が俺と誠一郎の関係をどこまで知っていたのかは知らない。
けれど、何となくであっても俺の想いは気づいていたはずだ。
その夜は一晩中、眠れなかった。
壁の向こうに誠一郎が居ると思っただけで、壁を蹴破って誠一郎を抱きたくなる衝動に掻き立てられる。
誠一郎の告白は、確かに俺を傷めつけた。
俺のプライドや自惚れを地の底に叩きつける決裂の罵詈雑言とも取れるけれど、これまでに聞いたこともない誠一郎の真実の吐露には、俺の欲しかった言葉が確かに存在し、傷つけられた痛みと共に何とも言い難い高揚感に浸っていたい気分になる。
まるで…
ナイフで抉られた心臓が、誠一郎の愛で溢れ、迸る赤い血が俺の全身に行き渡っていくようで…痛みに苦しみながらも、俺も愛しているんだと、叫んでしまいたくなる。
憎くても惹かれている…と、誠一郎は言ってくれた。
どちらが強かろうと、俺を無視できない誠一郎が愛おしかった。
今までの誠一郎への仕打ちを、どんなに詰られようと、俺は少しも後悔していなかった。
祖父の偏愛も伯父夫婦の俺への愛情も、こんな風に確かめられて嬉しかったんだ。
だけど、この感情は俺のものであり、誠一郎にしてみれば、俺の存在は鬱陶しくもあり、腹に据えかねる事も多かったであろう。
俺の身勝手な言動にあいつは何度も傷つき、耐えてきたのだろう。
それでも俺を拒まなかった。
拒めなかったんだ…。
俺の存在が誠一郎の運命を狂わせた。
それは、俺にだって言えるはずだ。
あいつが俺の目の前に現れなければ、俺は違う愛に巡り合っていたかもしれない。
そんな「もしも」なんて…くだらねえし。
俺の誠一郎への愛は確かに家族愛ではない。
でも、家族愛はなくても、もっと深い愛で俺は誠一郎と結ばれ、当然のものとして、幸せの頂点にも辿りつく算段だったんだ。
だけど…さ…。
今の誠一郎にとって、俺の存在がそんなにも…俺の目の前で泣くぐらいに目障りであるのなら…
女に興味がないとしても、必死に自分なりの幸せを探し出そうと、足を踏み出そうとしているのならば…
今度は俺が、すべてを耐える番なのかもしれない…。
誠一郎の為に…。