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翌年の春、誠一郎は無事志望大学へ合格した。
東京とは遠く離れた京都での初めての一人暮らしに、傍目から見ても浮かれている誠一郎が、俺は気に入らない。
晟太郎伯父も由ノ伯母も、我が子にはとことん甘く、「寂しくなるわね…」と、本音を漏らしながらも、誠一郎に御小言なんか一言も言わないでいやがる。
「おばさん、もっと厳しく言わなきゃ駄目だよ」と、俺が嗾けても、「だって卒業しちゃったら、誠ちゃんは嶌谷の会社を一生背負わなきゃならなくなるんだから、大学くらいは大目を見て、自由にさせてあげたいじゃない」などと、柔らかい口調で恐ろしい事を言う。
全くもって、誠一郎の未来を思いやると、ゾッとするような絵図しか見当たらない。
誠一郎が京都へ引っ越す当日は、俺と由ノ伯母は手伝い人として同行した。
御所近くの町屋と近代ビルが混在する細道の新築五階建てのマンションが、誠一郎の秘密の花園になるわけだ。
1LDKへの引っ越しを一日掛かりで三人でなんとか片づけ、外で夕食を摂り終わると、由ノ伯母は嵐山近くにある実家へ一晩お世話になるからと、帰ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、誠一郎はぽつりと言う。
「宗二朗もお袋と一緒におばあさまのお屋敷へ行けばよかったのに」
「縁もゆかりもない家に?それよか誠の方が、挨拶でも行ってくればいいのにさ。一応はあんたの身内じゃないか」
「別に今更、懇意になる必要はないからね。それに…おれに関わってもあちらさんに良い事なんかないさ」
「勝手だな」
公家の出を誇りとし、成金の嶌谷家を見下す態度を隠す様子もなくひけらかす由ノ伯母の実家とは、今までも然したる交流はなかったから、祖母とは言え、疎遠になる誠一郎の気持ちもわかる気がする。
近くのスーパーで必要な買い物をし、ほどなく俺と誠一郎は新しい部屋へ戻った。
疲れたからと風呂に入り、お互い早々に寝る支度をした。
Tシャツとスウェットを貸してもらった俺はあくびをしながら、当たり前のようにシングルのベッドへ潜り込んだ。そして、ふと佇んでいる誠一郎に気がつく。
「あ、ごめん。俺のベッドじゃなかったね」
「いいよ。宗二朗はベッドで寝なさい。おれは居間のソファで寝るから」
「一緒に寝ようよ。つめれば寝れるよ」
「…無理だろ?宗も小さい頃のままじゃないし、ふたりで寝るには狭いよ」
「ああ、心配なんだ。一緒に寝たりすると、俺に欲情したりしてさ、やばいんだろ?」
「…」
俺の挑発に誠一郎は何も言わず、ベッドに横になる俺から少し離れた端に腰かけた。
「宗二朗がおれの事をどう思おうが構わないけれど、おれはおまえを傷つけたくないんだ」
「だから、俺から離れるためにこんな所へ来たの?それとも親の目を盗んでやりたい放題に遊ぶため?」
「…」
「大体誠一郎はいつからホモセクシャルになったんだよ?以前は一過性のもので、時期が来たら卒業して、普通の大人になるって言ってなかった?」
「…あれは嘘だよ。おれは…一度も女性に欲情したことはない」
「そ…なの…」
誠一郎の言葉は、それなりに衝撃でもあった。
誠一郎の告白を聞くまでは、俺は誠一郎が真正のゲイだとはあまり信じていなかった。
だって、俺は誠一郎が好きだけれど、女のエロ雑誌やビデオで抜くことはあっても、男の裸を見て興奮したことはない。それが普通だと信じ、世の中の男もそんなものだろうと、思い込んでいた。
「誠だって…一回女の人とセックスしたら、変わるかもしれないよ。どう見ても女の子の方が、かわいいし、触り心地だって良さそうだしさ、第一入れたら気持ち良さそうじゃん」
「…宗二は、ノーマルで良かったよ。俺は駄目だ。出来そこないなんだ…」
「…」
「女性が嫌いとかじゃない。ただ、セックスの対象に見れないだけだ。致命的にね。…おれは男にしか性欲を感じない。サイアクなのは、恋愛感情がなくても、好みの男を見たらやりたくてたまらなくなるってことだ。…軽蔑してくれていいよ。おれは…欠陥人間だ。こんな奴が、多くの人を抱える嶌谷財閥の後を継がなきゃならないなんて…罰ゲームもいいとこだろ?社員だって可哀想さ…そう思わないか?宗」
「…」
自分をとことん卑下し、俺に告解するかのような誠一郎を、どう慰めていいのか、十四にも満たない俺にはわからなかった。
「俺…誠一郎とセックスしたいよ。大好きだから。それが悪いことだとは思えない。俺は女を抱けるかもしれないけれど、それと誠への想いは違う」
「宗…」
「誠は俺のだって約束しただろ?男とセックスしたいのなら、好きにやってもいい。でも誠は俺のもんだから。…どんな誠でも、俺は絶対に誠を見捨てないから。だからジョー伯父や由ノ伯母さんを悲しませちゃ駄目だ。誠は嶌谷家の跡取りにならなきゃならないんだ。俺が誠の片腕になるから…」
誠一郎は俺の言葉に微かに笑い、俯くと独り言のように「もう、遅いよ」と、呟いた。
そして、部屋の灯りを消し、居間へと消えた。
暗くなった部屋に一人残された俺は、しばらく眠れなかった。それでも昼間の疲れにいつの間にか眠り、そしていつもと同じ夢を見た。
幼い頃から夢はよく見た。
別れた父の面影や、ふたりで暮らしていた頃に夜中こっそり泣いていた母の横顔や、一度しか会えなかった祖父の手のぬくもり…だか、誠一郎を好きだと認識してからは、俺の夢には誠一郎ばかりが出てくる。
いつだって俺が好き勝手に誠一郎を犯しているんだ。誠一郎は気持ち良いと声を上げ、何度も俺の名前を呼ぶんだ…
単なる思春期の欲望には違いないだろうけれど、天然色のはっきりとした映像に、俺は興奮し、声を上げ…目が覚める。
夢精をした後の何とも言い難い情けなさに、嫌気を差しながら、俺はトイレに向かう。
居間はぼんやりと暗かったけれど、スタンドの灯りがソファに眠る誠一郎の影を浮かばせていた。
俺は起さないように静かにソファに近づき、誠一郎の寝顔を覗いた。
眠る誠一郎の横顔は、見惚れる程綺麗だった。
誠一郎は晟太郎伯父と由ノ伯母の見目の良いところをうまく合わせた整った上品な面差しだった。
黒目がちな二重瞳、くっきりと弧を描いた眉、我を見せない鼻梁とふっくらとした口唇が繊細な笑みを浮かべ、小さなえくぼを見せる頬…。
そのすべてが俺には無いものばかりで、嫉妬よりも憧れを抱くものだった。
「段々と酷薄気な笑みが父親に似てきたのね」と、俺を見て苦笑いをする母は、悪びれも無く俺に言うけれど、その度に、「おかーさんが産んだんじゃないか」と、責めた。
だけど母はさっきとは違う笑みを浮かべ、「あの人のそういう冷たい美貌に惚れたのよ」と、言い、また「宗二朗は父親のようになっちゃ駄目だからね」と、寂しげに呟くのだ。
誰も彼も勝手三昧だが、俺は気にしない。
このツラも外見も俺は可愛がっているし、俺とは正反対の誠一郎を心から愛しいと思える自分が気に入っている。
だが、誠一郎は自分の性癖を罪だと言い、自己嫌悪している。
なぜそんな風に自分を責めるのだろう。あの悲痛とも言える孤独癖は一体なんなのだろう。
男しか性欲を持てないことが、罪になるはずもない。そりゃ、伯父や伯母は真実を知ったら驚くし、嘆きもするかもしれないが、それを罪とは言えまい。
少しだけ口唇を開け、ソファに眠る誠一郎の瞳が震え、ふと涙が零れた。
「誠…」
切なくなり、俺は跪き、誠一郎の口唇に口づけた。
誠一郎はゆっくりと目を開け、俺を見た。
俺は再び誠一郎の口唇に触れ、左手で誠一郎のTシャツを剥いで、肌を撫でた。下腹部からそのまま誠一郎自身へと手を伸ばした。
まだ勃ち上がっていないものを掴むと、誠一郎は俺の手を止めた。
「やめろよ、宗…」
「誠が好きだよ。本気で好きだから、欲しいって言っているんだよ」
「…」
眼を開けた誠一郎の瞳から、また涙が流れる。
「どうして泣くんだよ、誠。俺が誠を守るって…そう言ってるだろ?誠は俺のものになるのは嫌なのか?」
「…宗は…綺麗だ。おれなんかの為に、おまえが汚れちゃ駄目だよ」
「俺より誠の方が…」
ずっと綺麗に決まっているじゃないか…
横になったままの誠一郎は両腕を広げ、俺の背中をゆっくりと、抱く。
「いいかい、宗二朗。君は豊かで素晴らしい子なんだ。おれなんかと比べられない程の頭脳や感性に優れ、どんな世界でも己を壊さずに、生きぬくことができる。…だから、僕や嶌谷家に縛られるなんてつまらないよ。君が自由に飛び立る様を、僕は仰ぎ見ているだけ…。僕には羽ばたいていく宗二朗の姿が見えるんだ…」
「誠…」
「宗は…おれみたいになっては駄目だ。絶対に、こちら側に来ちゃ駄目だよ…いいね」
穏やかな言葉とは裏腹の俺を抱く誠一郎の腕の強さに、俺はもう何も言えなくなってしまった。
誠一郎の孤独の穴を、俺が埋めることはできないの?
翌日、俺は、「誠一郎の傍に居られなくても、俺は誠を諦めなし、今度会う時は、絶対に誠を俺のものにするよ」と、言い残し東京へ帰った。
あの頃の俺はまだ誠一郎の本当の孤独をわからずに、独りよがりの愛情を振りかざしていたのだろう。
中学二年生になった俺は、誠一郎を抱く為にも早く大人になりたがった。
中学ではラブレターや交際の申し込みも多かったけれど、清らかな交際などを望んでいるわけでもない俺には、14,5の女子を相手にはできない。
できれば、それなりの経験をした大人の女性がいい、と、思っていた。
そのチャンスが夏休みに巡ってきたのだ。
その頃、俺は本格的な武術を習い初め、発情期の憂さ晴らしとばかり、電車で30分もかかる道場へ、週三回ほど通い続けていた。
或る日の宵、近道に使う酒場の多い裏道を歩き、駅へ向かっている途中、喧騒の中、女の悲鳴が聞こえた。いつもの事だと気にも留めない俺だったけれど、その日は俺も虫の居所が悪かったのだろう。本気で木刀を振り回したかった。
悲鳴のする方へ走って向かうと、四人のチンピラに抑え込まれ、強姦されようとしている女が必死にもがいている。
ワンピースも肩から剥され、片方の乳が見えていた。
勿怪の幸いとばかり、俺は木刀を構え、四人の強姦魔に本気で振り下ろしてやった。
チンピラどもの情けない悲鳴と骨の砕ける鈍い音が同時に狭い袋小路に響く。
四人が蹲っている様を見届け、俺は女に「逃げるぞ」といい、女の腕を掴み走って逃げだ。
「あいつらの仲間が追っかけてくるかもしれないから、どっかに隠れた方がいいと思うけど…ねえ、あんた、いい場所知らねえ?」
俺の言葉に女は少し考え、「あれぐらいしか思いつかないわ」と、ほんの数十歩先にあるラブホテルを指差した。
「OK、そこへ逃げよう]
全くもって願ったり、叶ったりだ。
彼女は「助けてもらったお礼は何がいい?」と、尋ね、俺は「君とのセックス」と答えた。
そういう訳で、その夜、俺は無事童貞を卒業した。
助けた女性は亜子と言い、十九歳の音大生だった。
彼女は初体験の俺にとって文句のつけようのない指導者で、俺は一晩でそれなりの技巧者の合格点をもらえることができた。
彼女との縁は深く、この先も音楽を通して付き合いを続けていくことになるが、俺の初体験の相手だということは、ふたりだけの秘密である。