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五歳上の俺の従兄、嶌谷誠一郎は、いわゆる非の打ちどころのない少年で、頭も良く、誰にでも誠実で優しく、笑うとその人の良さがにじみ出てくるくらいに人好きのする奴だった。

俺に対しても、晟太郎伯父の命を肝に銘じてなのか、本当の弟のように接してくれた。


「僕には兄弟がいないだろ?だから宗二がかわいくてたまんないんだ。どんな我儘言っても、許しちゃうよ」

などと、小さい俺をギュッと抱きしめては頭を撫でるものだから、たまにその手首を噛んでやると、驚いて目をぱちくりする。

そしてすぐに「かわいいなあ~。子犬みたいだ~」と、相好を崩して俺の髪をくしゃくしゃになるまで撫でまわすのだ。


全くもって、俺はこいつが気に入らなかった。

しかし、幼い頃の五つ違いは大きい。

六歳の俺が十一歳の誠一郎に手懐けられるのは、そう難しいものではなかった。


嶌谷家の広い居間にはグランドピアノがあった。

そんなでかいピアノなんか見たことも触ったこともなかったから、普段から好奇心旺盛な俺は興味津々でその黒光りする奴を撫でまわしてみた。

するといつの間にか俺の後ろに誠一郎が立ち、ニコニコ笑いながらピアノの蓋を開け、椅子に腰かけた。

「何か聴きたい?」

得意げな誠一郎の顔がムカついたが、好奇心に負けて、俺は黙って頷いた。

「なにがいいかな…」と、言いつつ、誠一郎は美しいアルペジオを弾き始めた。

有名なグノーの「アベマリア」だった。

俺はその美しい旋律に酔いしれた。

ピアノの音を初めて聞いたわけではなかったし、そのメロディは保育園のクリスマス会で聴いた記憶があった。

だけど、誠一郎の奏でる旋律が、俺の胸を締めつけ、いつまでもいつまでも鳴り響いた。

なんて美しいんだろう。

なんて…セツナイのだろう…。

俺の小さな胸を…誠一郎への精一杯の抵抗を、簡単に壊していく。


余韻に浸っていた俺を誠一郎は抱き上げ、自分の膝の上に抱き寄せた。

「気に入ったのなら、教えてあげる。そんなに難しくないよ。ほら、こことここを弾いたら、右手は僕が追うよ」

誠一郎に誘われるまま、俺の指を持った誠一郎が白い鍵盤の上を押える。

確かに先程と同じメロディだ。だけど、俺が聴きたいのはこんなんじゃない。


俺は指を引っ込めた。

「俺…弾きたくないもん」

「…そう?宗二と一緒に弾けたら、僕も楽しいって思ったのに…残念だな」

「…」

俺を抱く誠一郎の膝のぬくもりが、あったかい。

母とは違い、硬くて骨ばっていたけれど、逞しく、そして誠一郎の匂いがした。

ずっとこうしていたかったけれど、そう思う自分が悔しかった。

俺は誠一郎の膝から飛び降り、何も言わずに走り去った。


誰にでも誇れる両親に、裕福な暮らし、豊かな才能と心根の良い従兄と一緒に暮らすなんて…嫉妬する以外無いじゃないか。

俺は小さくてもプライドだけは人一倍あって、引っ越し早々に嶌谷家で親戚へのお披露目会があった時だって、胡散臭い目で俺と母を見る親戚たちに見くびられまいと、必死にいい子ぶっていたけれど、本当はどいつもこいつも蹴り飛ばしてやりたかった。

親戚たちが帰った後、母が俺の頭を撫で「えらいわ、宗二。上手く猫被ってくれたのね。すごく、かっこよかったよ」と、褒めてくれた。

日頃、幼稚園で暴力三昧している俺だから、本音はいつ暴れるか冷や冷やものだったのだろう。

「だってさ、暴れたらお母さんが困るだろ?」

「ありがと、宗二朗。でも、あんまり無理しなくていいのよ。宗二にまで気を使わせるのだったら、ここに居る意味ないもの。嫌だったらいつでも言いなさい」

「嫌じゃないよ。ジョー伯父さんも由ノおばちゃんもすごく優しいもん。大好きだよ」

「そう…」


その時の母がどんな思いで俺に話したのかは、わからないけれど、俺は今更二人きりの生活に戻りたくはなかった。


だってさ…誠一郎が居るんだもの。

ムカつくし、ついそっけないフリをしてしまうけれど、毎日顔を合わせて、誠一郎と言葉を交わす日々が、うれしくって楽しいんだもの…



晟太郎伯父は、新入生になる俺に誠一郎と同じ私立校を薦めてくれたが、母はそれを断わり、俺は近くの公立の小学校へ入学した。

誠一郎は少し残念そうに「せっかく宗二と一緒に通学できると思って楽しみにしていたのに…」と、言った。それを聞いて、俺も残念に思えてしまったけれど、何にせよ、俺と母は嶌谷家の居候でしかなかった。

それは母が口癖のように俺に言い聞かせていたから、俺も経済的な我儘は決して言わなかった。

本音は、誠一郎と一緒にピアノのレッスンも英語塾へも行きたかったけれどね…。


伯父と伯母がいくら薦めても、お稽古事を習わせなかった母だったが、晟太郎伯父の強っての薦めで剣道を習うことが出来た。

小学三年生の頃だ。

俺は毎日のように放課後、道場に通い、腕を上げることに専念した。

その頃、誠一郎は中二になり、ほとんど使われていなかった俺の隣の部屋に引っ越してきた。

今までの自分の部屋では、台所や風呂場などが遠く、夜遅くまで勉強するのに不便だからだと言う理由だったが、本音は、誠一郎の部屋が両親の寝室の隣部屋だったからだ。


「隣の部屋に親がいると思うと、なんだかいつも監視されてるみたいでリラックスできないんだよね。まあ、親離れの年頃なのさ」と、誠一郎はこっそり俺に打ち明けた。

「それにこっちの館だったら、宗二と色んな話がゆっくりできるだろ?」

「…うん」

「宗二ともっと仲良くなりたいんだ。ふたりきりの兄弟なんだから」


どうやら誠一郎は俺の事を本当の弟にしたいようだった。けれど、俺は一度だって、誠一郎を兄だとは思わなかった。

俺を抱きしめる腕も俺に向ける笑顔も、全部俺のものにしたかった。

だけど、弟の特権が、誠一郎と一緒にベッドで寝たり、風呂に入ったり、台所で夜食のラーメンを食ったりすることならば、それも悪くないさと、思っていた。


俺しか知らない誠一郎の顔を、俺はひとりじめできるのだから。



二階にあるそれぞれの部屋は、バルコニーが繋がっていた。一旦廊下に出て、ドアを開けて隣に行くよりも、バルコニーから行き来する方が便利だった。

真剣に勉強する誠一郎の端正な横顔を、ガラス越しにこっそり眺めるのは、俺の楽しみでもあった。

ガラス戸を軽くノックすると、机に向かっていた誠一郎が笑顔を見せ、俺を中へ招く。

「宿題で算数のプリントが出たんだけど…応用のところがいまいちわからないから、教えて?」

「どれどれ…ああ、これはね…」


本当はわからないことなんてどうでもいい。誠一郎とふたりだけで過ごせるのなら、わからないままでいいんだ。

でも良い点を取って、喜んでくれるならさ…少しばかり頑張ってやってもいいんだぜ、誠…



次の春先、俺は誠一郎が制服のまま部屋で泣いているのを見た。

驚いた俺は急いで誠一郎に近づいた。

「どうした、誠っ!誰かに苛められたの?ケンカして殴られたの?俺、敵を討ってやるよ」

「ち、ちがうよ、宗…。違うんだ」

「じゃあ、なんで泣いてるの?」

「今日、卒業式だったんだ。それで…」

「うん」

「大好きな先輩と、もう会えないって思ったらさ…。涙が止まらなくなっちゃったんだ…。かっこわるいだろ?」

「…」


ショックだった。

全くもって、誠一郎の有様は、サイテーだと思った。

何より、一番ショックだったのは、俺以外に好きな奴が居た事だ。

誠一郎は俺のものだとばかり思っていたのに…。

俺の知らない誠一郎が居て、俺以外の誰かを好きになるなんて。しかも、泣くほどに?

悔しくて…悔しくて…

めちゃくちゃ腹が立ってきたから…

「そんなことぐらいで泣く誠なんか、俺は嫌いだっ!男なら、そんなくだらないことで泣くんじゃねえよっ!」と、怒った。

顔を俯いたままの誠一郎は「…そうだね」と、小さく呟いた。

「でもね…。男だって、泣きたい時もあるんだよ、宗…。君にはわからないだろうけれど…」


俺は誠一郎に背中を向け、部屋を出た。

怒りが治まらなかった。


俺にはわからないって?

なにがわからないだ!

バカ誠っ!

おまえだって、俺の気持ちなんか、わかんねえだろうに…。



思い返せば、俺は本当に子供だったのだ。

俺の幼い嫉妬心が愛情の裏返しと同じように、誠一郎の優しさや誠実さは、彼の弱さの裏返しだった。




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