表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/15

13

挿絵(By みてみん)


13、


二日後、俺は嶌谷邸の門前に立った。

ふと、十五年前、母と手を繋いでこの門を潜った日を思い出そうとした。

ああ、あの時も今みたいに不安だらけだったけれど、それでも期待の方が大きかったんだっけ。

今の俺は…怖いもの知らずだった幼い俺よりも、よっぽど臆病者じゃないか…

こんなんじゃ駄目だよな。

俺はこの家を守る為に、ここへ帰ってきたんだから。

思いきり背筋を伸ばし、深呼吸をした俺は、覚悟を決めて重い門扉を開いた。


何も知らせずに帰ってきた俺に、由ノ伯母はお化けかなんかを見たみたいに言葉も出ず、蒼白になったまま、玄関にへたり込んでしまう。

「驚かせてごめんよ、由ノ伯母さん。とにかく早く帰って来たかったんだ」

「そ、宗ちゃん…」

「色々と大変だったろうけれど、もう大丈夫だよ、由ノっち。俺が皆を守るからね」

「宗…ちゃ…」

由ノ伯母は俺の名前を呼ぶと、張りつめた糸が切れたみたいに号泣した。俺は由ノ伯母の小さくなった肩を抱き、背中を摩り慰めた。

初めて見る由ノ伯母の涙が、とても怖くて、哀れで、辛くて…どれほど苦しんだのだろうと、その原因である誠一郎を憎く思わずにはいられない程だ。


「おかえりなさい、宗二朗」

思いもかけず、母が居間から姿を見せた。

「あれ?母さん?居たんだ」

「馬鹿ね。私だって有休ぐらい取るわよ。それよりもただいま、でしょ?」

「ああ、ただいま、母さん。今戻りました」

母もきっとこんな由ノ伯母が心配で、少しでも傍にいてやりたかったのかもしれない。


「大学の方は?卒業試験は終わったの?」

「それよりも、自分の家族の方が大事だろ?」

「…八千代ちゃんね?」

「ああ、大体の事情は聞いた。誠一郎は自分の部屋にいるの?」

「ええ…二階は危ないから今は別館の一階の部屋で過ごしているのよ」

「話せる?」

「…わからないわ。こちらが話していることは聞こえているんだろうけれど…ほとんど反応してくれなくて…担当の医師も心を閉ざしている状態から抜け出さない事には、どうにもならないって…」

母の言葉に、由ノ伯母の嗚咽が大きくなった。


「よっちゃん、もう大丈夫よ。宗二朗がなんとかしてくれるから、ね」

「おいっ!」

「だからなんか食べて体力つけなくちゃ。よっちゃんまで倒れられたら、私まで泣いちゃうんだから…」

「…うん。ありがと、澪ちゃん」

俺頼りかよっ!とは思ったけれど、あの朗らかな由ノ伯母の変わり様を比べたら、冗談にも「期待しないでくれ」なんて軽口さえ、言える状況じゃないことだけは、理解した。


俺は由ノ伯母と母を居間に置き、ひとり別館への渡り廊下を歩いた。

手入れが行き届いた庭から、アジサイの淡い色が見えた。

回廊を擦り抜ける風は、湿気を含んだ懐かしい夏の匂いがする。

廊下から見上げる二階のベランダの白い手摺は所々剥がれ、木材がむき出しになっていた。

昔、誠一郎と一緒に塗り直した手摺だ。

あの頃は良かった…なんて、絶対に言わせない。

これからだって、誠一郎と一緒に沢山の良い思い出を作っていくんだ。

絶対に…


見事な空元気だったと思う。

そうでもして自分を励まさなきゃ、どうにも…これから見る誠一郎に…どう対応していいのか…俺はわからないでいた。


「宗二朗!」

背中から母の呼ぶ声に足を止めた。

「これ…誠ちゃんがずっと持っていた手紙よ」

「え?」

俺はボロボロになった封筒を受け取った。

それは、あの時、誠一郎へ送ったエアメールだった。

「誠ちゃんがこの手紙をどんな気持ちで持っていたのか、私にはわからないけれど…あなたなら理解してあげれるんじゃない?」

「…わかったよ、母さん」

「それじゃあ、後は任せたわよ」

母は明るくVサインを気取り、そして小走りで母屋へ駆けて行った。


俺は薄い封筒から便箋を出した。

便箋は四方八方に破かれ、それをセロパンテープで繋いであった。

ぐちゃぐちゃな皺まみれだったし、万年筆で書かれた文字はいくつもの滲んだ文字があった。

「…誠…」

もしかしたら…

誠一郎は俺が書き綴った言葉を嘘だと見破り、それを恨んだんじゃないのだろうか…

一度は破いて、それでも捨てきれずに俺の手紙を何度も読み返したのだろうか…

一体どんな気持ちで、あんな手紙を…

罪人なのは俺の方なのか?



昔、母の部屋だったドアの前に立つ。

知らぬ間に誠一郎が居なくなることを怖れて、内側の鍵とは別に、外側から鍵がかけられてあった。

「…」

これが現実なのだと、きりきりと痛む胸を手で抑えた。


どうか、変わり果てた誠一郎を、俺の心が見捨てないでいられることを…

どんな誠一郎でも構わない。

その覚悟を俺に下さい…神様…。


俺は今まで一度だって天に祈った事はなかったけれど、この時だけは、俺の心が誠一郎に残っているようにと、願った。

これは誠一郎の問題ではなく、あいつへの俺の執着の度合いであり、それは恋心が切れていないかどうか…俺にとってはまさに天国か地獄の分かれ目でもあるのだ。

もし、誠一郎を見て、絶望したとしても、俺は家族の為に誠一郎を守らなきゃならないし、それは俺の本心でありながらも、恋人を失ってしまったことになる。


俺にとって嶌谷誠一郎は家族ではなく、愛する人、恋を続ける者でなければならない。

それ以外であるならば…誠一郎は俺にとっては、必要じゃない人間だと振り分けるだけだ。

そう感じたくない。

だから、どうか…誠一郎…



俺はドアの鍵を開け、重いドアをゆっくりと開けて、部屋の様子を伺った。

部屋は薄暗かった。

窓もテラスに続くガラス戸もすべて閉め切り、閉められたカーテンが昼の光を遮っていた。

エアコンの機械音が響く以外に音はない。

ベッドに誠一郎の姿はなく、後ろ向きのソファの背もたれに少しだけ、背中の影が覗いていた。

俺は足音に気を付けながら、誠一郎の様子を見る為に、ソファの前に近づき、そこに座る誠一郎を見下ろした。

「誠一郎?」

俺の呼び掛けに返事はなかった。

眼下には力なく項垂れ、顔も上げない痩せた小さな老人のような男が居る…。


多少のショックは覚悟していたものの、ここまで変わり果てた姿を見せられちゃ、期待もなにも…どうにでもなれって気分だ。


俺は床に両膝を付き、俯く誠一郎の顔を下から覗き見た。


誠一郎は…

五年前とは、酷く違っていた。

あれほど几帳面に身づくろいに気を使っていた奴なのに、櫛も通さないほどぼさぼさの髪の毛や、伸び放題の卑下面に、痩せてやつれ切った生気のない顔。青白い顔に目の下には見たこともねえぐらいのクマと、死んだような目…。

なんも…

言葉もでねえや…。


でも…でもさ、なんとも不思議なことだけど、こんな変わり果てた誠一郎を見て、俺は思わず微笑んでしまったんだ。

なんだか可笑しくて…可笑しくって…


堰き止められた愛情が溢れかえって、大洪水になるくらいに…

今ままさに噴火し始めて止まらない活火山みたいに…


なあ、誠一郎、おまえが愛おしくて、愛おしくてさ…仕方ねえよ。



「バカだなあ~。俺もおまえもこんなになるまで我慢なんてしなきゃよかったのに…なあ…」


俺は小さくなった誠一郎の背中を抱きしめた。

誠一郎は少しだけ身体を避けるような仕草をしたが、俺を拒む力は一分もないから、俺の為すがままに俺の胸に顔を埋める格好になる。

俯いた顔を無理に持ち上げ、口唇にキスをしてみたけれど、薄く開いた眼は何も感じていないように暗く、光は見い出せなかった。


「誠、俺がわかるか?…悪かったな、今までほったらかしにしてよ。あんな嘘くせえ手紙送りつけたりしてよ。…怒ってんだろうけれど、俺もおまえには言いたいことは山ほどあるんだぜ?まあ、いいさ、これからは捨てる程時間があるんだからな。…もう、おまえを離さないからな、誠一郎」

「…」

「聞こえてんだろ?喋れねえんなら頷くぐらいしろよ。昔から素直じゃないところは俺も嫌いじゃないけど、この期に及んでこのザマじゃあ、褒めたもんじゃねえよ。よく、聞けよっ!今でもおまえは俺のものだって言ってんだっ!」

「…」

誠一郎は薄く開けた目をゆっくりと閉じた。

頑なに閉じた口唇が僅かに震え、なにかを言おうとしたけれど、言葉にはならない。


その時、はっきりわかったんだ。

誠一郎は今でも俺を愛しているんだって…。

俺とおんなじ気持ちで、俺に愛されたがっているんだって…。

馬鹿野郎…もういいんだ。

なにもかも全部捨ててしまえ。

おまえは俺を愛していればいい…


「おい、立てるか?誠」

立ち上がった俺は、誠一郎の腕を引っ張り上げた。

ゆらりと立ち上がった誠一郎を、連れて行こうと歩き出したが、足がもつれたのか誠一郎は転び、床に倒れてしまう。

長い間、適度な運動さえもやってこなかった誠一郎の足腰は、相当に萎えてしまっていたのだろう。倒れた誠一郎はすぐに起き上がる事も出来ずに、みっともない姿を曝け出したまま、じっと動かなかった。

「誠一郎。おまえが立たなきゃ、この部屋から出れねえぜ?俺はおまえと一緒に歩きたいんだ。勿論、俺がおまえをおぶってやってもいいけどな。そうして欲しいなら、そう言えよ」

「…」

「俺が欲しいんなら、はっきり言え。俺もおまえももう子供じゃない。嘘だって上手くつける。だけど、俺を欲しいと思うなら、俺にしがみつけよ」

「…」

誠一郎は何も言わずに、両腕を床に押し付け、膝を立て、腰を上げ、必死に立とうとした。

何度も倒れ、膝を戦慄かせながらも、膝を立てて、上半身を起こし、俺の顔を見上げた。

俺は手を差し出した。

誠一郎は黙って俺の手を掴んだ。

引っ張り上げ、腕を俺の肩に回し、よたつく歩行を助けてやる。


「誠、おまえ、酷く痩せてしまったなあ。アメリカ女よりも全然軽いぜ。なあ、お姫様抱っこでもしてやろうか?」

誠一郎は首を横に振った。その強気が、嬉しかった。

「おまえ、変わってねえのな」


部屋のドアを開けると、目の前には心配顔の母と由ノ伯母が佇んでいた。

「なんだよ、居間に居ろって言ったろ?」

「だって…よっちゃんが…」

母は由ノ伯母の肩を抱きしめ、俺に肩を抱きかかえられている誠一郎を落ち着かなさ気に見つめた。

俺は母を無視して、不安気に見つめる由ノ伯母に顔を向けた。


「由ノ伯母さん、いや、お母さんに頼みがあります」

「…なに…かしら…」

「今から誠一郎は俺のものです。もちろんお母さんの息子であることは否定しないけれど、誠一郎は嶌谷の家にも会社経営にも関わらせない。誠一郎が俺だけを愛して生きることを許して下さい。その代り…と言っちゃなんだけど、誠一郎が背負う嶌谷家のすべてのもの…家族、会社、財産からあんたらの老後の世話も俺が担うし、俺の結婚相手も好きに決めてくれて結構。立派な跡継ぎも作ってやるよ。誰にも文句を言わせないボスになってやるから…だから、誠一郎を俺に下さい」

「…宗ちゃん」

俺は頭を下げた。

そのまま横を向くと俯いた誠一郎の目に光るものが見えて、こちらもグッとくるものがあったけれど、必死に耐えた。


「誠一郎がそんなに大事かい?宗二朗」

「ジョー伯父!」

「久しぶりの再会なのに、こんな暗い廊下での挨拶ってのは、なんとも納得いかないところだがね」

「俺と誠一郎の門出には相応しいですよ」

「宗二朗。君はそれでいいのかい?自分の人生を嶌谷家に縛られることになっても…」

「全然、全く問題ねえよ。昔、聡一郎祖父さんが言ったんだって。俺には王者の気質があるから、嶌谷のボスに相応しいってさ。なあ、母さん?」

「え?…ええ」

「そう言うことなら、別に構わないよ。俺は俺の人生を楽しむだけだから。社長業だって、ジョー伯父がやってるぐらいだから、俺にでもできそうな気がするしね。だけど、誠一郎だけは特別だから、許してくれよ、ジョー伯父さん」

「簡単に社長業を見くびってもらっちゃあ困るけれど…まあ、なんだかね…。これから僕が死ぬまで、僕をお父さんと呼ぶなら…許してあげてもいいよ」

「了解、お父さん。ついでにさ…ちょっと車のキー貸してくれねえ?」

「え?」

「これから、誠一郎とハネムーンに行ってくるよ」

「…」

唖然とする母と由ノ伯母の顔は見ないようにした。

「そこは…家族として、喜ぶべき話なのかな?」

「ああ、ふたりの息子が幸せになる旅立ちだからね」

「では、行ってらっしゃい。気をつけて戻っておいで」

「行って来ます」

涙を浮かべている由ノ伯母が気にならなかったわけじゃない。晟太郎伯父が俺と誠一郎の関係を手放しで、喜べるわけもないこともわかっている。

けれど、許してもらう他はない。


俺はもう…二度と誠一郎を、誰にも、勝手に、俺の許可なく、触れさせるつもりはない。


足元のおぼつかない誠一郎を連れて、駐車場へ向かう。

晟太郎伯父の車の助手席に誠一郎を乗せ、俺はエンジンを入れた。


「さあ、誠。やっと、ふたりきりになれたぞ。どこに行きたい?」

「…」

「海がいいか?それとも山手の方?」

「…」

「どこかの温泉でゆっくり身体を癒すのもいいし…」

「…」

「なんだよ。なんもねえのかよ…。仕方ねえな。じゃあ、俺の好きにさせてもらうからな」


車は高速に乗り、海を目指す。

助手席の誠一郎は、項垂れたまま一言も喋らなかった。

具合が悪いのか、時折身体を震わせ、脂汗を滲ませていた。その度に俺は車を止め、汗を拭き、水を飲ませた。


「苦しいか?誠。慣れない外へ出るってのは大変だな。それでも…人間ってのはなかなか死ねないもんだってさ。俺の尊敬する先生が言ってた。精神の病気で死ぬ奴は僅かなもんで、ほとんどの奴は生きたいって願っているんだとさ。ただ理解して欲しいから拗ねてるだけだって。我儘なもんだよなあ~。でも、嫌いじゃねえよ。死ぬほど辛いから救ってくれっていう我儘っていうのは、執着心だし、渇望だし…人間の一番汚くて純粋な感情が見えるわけじゃん。そいつをぶっ潰すのも救うのも、俺次第ならさ。おまえにとっちゃあ、俺は神か悪魔なんだろうなあ」

「…」

「俺は、おまえの破壊者であり続けたいと、思う。それが…俺の愛だ。わかるか?誠…」

「…」


何も言わぬ誠一郎の口唇に、俺は水を含んだ口唇を合わせ、水を飲ませた。

誠一郎の喉がゴクンと鳴る。


その表情が…なんとも言えないほどに、愛おしい。


「じゃあ、行こうか」

俺は再び、ハンドルを握る。



今にして思えばだが…誠一郎の容態も考えずに、惨いことをしたものだとは思うし、あの状況での自分の行動は、よほどのアホか、間抜けか、能天気を通り過ぎたサイテーの独裁者に過ぎなかったかもしれない。

けれど、あのまま誠一郎が喋らなくても、元に戻らなくても、その時の俺には大して重要な話ではなかった。


ただ…


おまえがどんなに嫌がったとしても、

これからは、ずっと俺が傍に居るからと、

一生、おまえの傍から離れたりしないと、

わからせてやりたかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ