第16話 Ite, missa est. 往きなさい、あなたは遣わされた
ハライン大司教区 史実のチロル州の辺りに存在する、教会領だ。
大司教(大主教とも言う)は大きく分けると5つに分かれる。
1、複数の司教区から成る、司教管区のボスの管区大司教
2、大司教区のトップである大司教
3、教皇から与えられた称号の定住教区司教
4、消滅した大司教区などの名前だけの名義大司教
5、ド・ヴィリエ大主教
尚、グリエルモはルグドーヌの管区大司教だから1に、今回訪れるハライン大司教区は2に該当する。
教会領の首都ヘルホルトに入る。とは言っても街に聖職者が大量に居て云々、という感じでは無い。至って普通の街だ。
この教会領は峠を隔てた史実のイタリア、トレントにあたる地域にマルタノ大司教区が存在している。
この2つの教会領は、数多くある大司教領の中でも重要な地域とされている。何故か?
それは、2つとも帝都へ向かう重要な街道と、山脈を越える峠を押さえていて、お布施と言う名の関税を大規模に入手できる上に、ハライン大司教区には、テルシュタイン銀山という、この周辺でも最大の銀鉱山が存在し、マルタノ大司教領にも、銀鉱山や鉄鉱山が多く存在するからだ。
この街には宿屋が存在せず、修道院に宿泊する規則になっている。
何ともあこぎな商売だ。宿泊する修道院を探していた時に問題は発生した。
「……お断りですな」
「異教徒は修道院へ立ち入る事を禁じています」
「……お引き取りを、異端が院内にいると修道士に悪影響です」
訪れる修道院の片っ端から拒絶を喰らってしまった。予想はしていたが、
ここまで露骨だと実に腹立たしい。トーマスの十字教嫌いも無理のない話だ。
しかし、このままでは今晩の泊まる場所が無い。
最悪、娼館で泊まるしかないが、女連れて行ける場所では無い。
十数件目の寂れた修道院で、ようやく宿泊許可が出たのは、日も暮れて、
通りにいるのは巡回の兵士と、怪しい職業の女だけに成り始めた時だった。
「ほほほ、それは大変で御座いましたな」
「もう、既に晩課(午後9時)に近いので軽い食事しか出せませんが、ご了承くだされ」
その修道院は、修道士も数人しか居なく、壁も所々ひび割れている。
おそらく修復する労働力も、資金も足りてないのだろう。
「御恥ずかしながら、なにぶん人手が足りなくての…
しかし、当院のリクオル(リキュール)は旅の疲労回復には一番です、持って来ましょう」
修道院は“労働は祈りに繋がる”等という共産主義者の巣窟で、自給自足の共同生活を送っている。
修道院や教会では、ミサに使う蝋燭やワインが大量に消費されるが、それを作っているのは修道院だ。
中世に盛んに行われた養蜂業は、甘味料の蜂蜜を入手する目的は勿論だが、
蝋燭に必要な蜜蝋を入手する事がメインだったと云う。
また、ワインやアルコールの製造業も現金収入の一環である。
現在の修道院でも、多くのアルコール類が製造されて出荷されている。
現在では修道院ビールの方が有名であり、多くのスタイルのビールが入手できる。
代表的な物は、ベルギービールのシメイの赤、青、白やレフシリーズ、オルヴァル、ウェストマール等だ。コリアンダー等の香辛料と、ホップの苦みのない小麦ビールの独特な風味と後味が面白い酒だ、一遍飲んでみろ。
割り当てられた部屋に向かう、男子修道院は原則女人禁制だ。
だが、こういう事も偶にはあるのか、1人別室での逗留は許可された。
まあ、フレイヤ女史なら、間違いを犯した修道士等が居ようものなら、
マチェットで脳天を叩き割りそうな勢いだから心配はないだろうが……
「なんて、ボロボロな毛布だよ……」
「屋根があるだけマシだ、小額の御布施で泊まれるんだ、我慢しろ」
鐘の音と共に目覚めると、着替えて、軽い祈りを済ませる。まだ、外は真っ暗だ。
「おい、早く起きろよ」
「んあー、朝まで寝かせろよ……」
「ここは何処だと思っている?修道院だぞ、普段とは違うんだ」
この時代の街での生活の時間は、鐘の音で決まる。
季節によってもまちまちだが、基本的な時間は以下のように決まる。
1、朝課 =午前2時 修道院での起床時間
2、讃課 =午前3時 一般市民の起床時間
3、一時課=午前6時 ミサの時間、その後は朝食の時間
4、三時課=午前9時 仕事の時間
5、六時課=午後0時 昼食
6、九時課=午後3時
7、晩課 =午後6時 仕事終了、帰宅して晩ごはん
8、終課 =午後9時 就寝
普段が3時や4時に起床しているのが2時に叩き起こされるのだ、不満も溜まる。
一応修道院に逗留している以上、その規則には従わねばならない。
修道士達と共に祈りを捧げる。一応、トーマスが参加する事も許可してくれた。
6時頃、ミサが始まる。聖堂に市民がまばらに集まっているが、空席が目立つ所を見ると、多くの者は、大聖堂などに集まっているのだろう。なにぶん人手が足りないので、私達も手伝いをする。
まず始めに、開催の儀で入祭唱を唱える。聖歌を合唱する人数が足りないのだろう。
その後、教会より来た司祭の挨拶が始まり、祈りが捧げられ、キリエが唱えられる。
聖書の朗読が執り行われる。旧約聖書(この世界では、前書と呼ばれる)の文を読み上げる。第一朗読が終了すると、第二朗読を詩篇の中から読み上げる。これは、答唱詩篇と言って、先唱者の読師と信徒が交互に朗読する。終了後、司祭による副音朗読が行われる。
次の典礼は、祭壇にワインとホスチア(無発酵のパン、味無くて糞まずい)
を奉納し、司祭が、奉納文を唱える。そして、全員で賛美の祈りを唱える。
その後、司祭がワインとパンを摂取して、最後の晩餐のお言葉を唱える。
最後の典礼が、交わりの儀である。主の祈りと神の子羊の祈りが執行され、
司祭がホスチアを引き裂き、ワインに浸して食べて、ワインを飲む。これを“聖体拝領”と言う。
その後、信徒達にホスチアを配り、参加者も聖体拝領を執り行う。
そして、閉祭の儀が行われてミサは終了した。
ミサの後は、修道士達の労働の時間である。季節によって仕事の内容は変わるが、秋の現在は、
小麦の収穫や冬に向けた準備等、一番忙しくなる季節だ。私達も謝礼を兼ねて、労働する。
「腹減ったぜ…メシが喰いてぇ……」
「修道院は基本ろくな飯無いからな、次の食事は九時課だ」
「まじかよ…」
「ギュンター!黙ってないで手を動かす!」
「そうだ、働けば自由になれる」
この時代の、聖職者の食事はミサで食べる聖体の後は、午後3時の食事まで待たないといけない。
しかも、その内容も……
「oh…ナンデスカ、コレ?」
「遠回しな自殺ですね……」
「修道士も大変ね…」
皿の上には、パンとワインとゆで卵に申し訳程度のチーズだった。
肉食は禁止されているので、パンに塗る獣脂すら無い。
沿岸都市なら魚料理が食べる者も居るが、この山岳都市には、干し魚か川魚しか無く、高価だ。
何れにせよ、この修道院で食べることなど出来ないだろう……
「……どう見てもビタミンとカルシウムが足りてない。
案外、異端審問とかが増えたのも栄養不足と禁欲で発狂したからじゃないか?」
「ヴィト君何か言ったの?」
「……何でもない」
食事の後は、終課まで祈りの時間などに成るが、この際に場所を借りて、
3人に聖書の勉強を教える。教材も幾らでもあるだろう、院長は快諾してくれた。
書庫に案内される、手の空いているらしい院長と私でマンツーマンのレッスンだ。
トーマス達に教えるのは院長にお願いする。一応は私から概要は教えてあるから、細かい所の復習となるだろう。だが、問題は……
「さて、お前はどうすんだ?この大馬鹿野郎」
「……ゴメンナサイ」
馬鹿一名の思想教育を行う。コイツは壊滅的に物覚えが悪い、未だに概要を覚えきっていない。
これを機に徹底的に自己批判させてやろう……
「その写本の福音書からだ、羊皮紙は高価だから間違っても汚したり、破損させたりするなよ?」
ギュンター曰く、この時の私は悪魔の様だったと言う。
その後、5時間かけて愛のシベリアンコントロール……もとい教育を実施した為、完全に燃えカスになったギュンター君。これで少しは真面目になると良いのだが……
千鳥足のギュンター引き連れて帰還する廊下で、院長が私に話しかけてくる。
「あなたの聖書への造詣、驚きました。若いのに完璧に内容を諳んじる等、ご立派です」
「実は、以前は修道士を目指していたのですよ。もっとも、村が壊滅して断念しました」
「確か、シェーン村でしたな。あそこの司祭とは同じ修道院で修行しておりました」
「知っているのですか?」
院長は遠い目をして漆黒の窓の外を見つめる。
「ええ、マルティン司祭は高潔な人物でした。大司教区の腐敗を糾弾し、
枢機卿の忌避を買って、あのような辺境……失礼しました、あの地に送られたのです」
「そうだったのですか…」
顔も知らない人物に、そんな事情があったとは知らず複雑な気持ちになった。
翌日も朝課の鐘で起床する。毛布の中で服に着替える。私が着用したのは、修道士の服だ。
昨日の話を聞いた院長が、特別にミサの朗読を行わせて下さるそうだ。
「おはようございます、ベネディクト院長」
「おお、大変似合ってますよ。紹介しよう、この方がヨアヒム大聖堂のユリアン司祭だ」
「……宜しく」
院長に紹介されたのは、街の中心の大聖堂付きの司祭だ。
最近の院長は体調がすぐれないらしく、派遣された司祭が、毎日のミサを執行していると言う。
「そうとは知らず、昨日は遅くまで付き合せてしまい申し訳ありませんでした」
「気にしないで下され、足が痛むのでミサを行う事が出来ないだけです。
こればかりは年齢によるものですから、魔法でも効果がありません」
「それに、部屋で祈りを奉げているのと、神の教えを説くのとでは、他者を導く方が重要ですよ」
一時課の鐘が鳴り、ミサが始まった。昨日とほとんど同じ手順で進んで行った。
そして、遂に私の出番の第二朗読が始まる。内容は“昇階唱”魔法の呪文にもなる基本的な文だ。
いつもとは違う読師に注目を浴びるが、構わず進める。
「Requiem aeternam dona eis Domine et lux perpetua luceat eis.」
(主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください。)
「In memoria aeterna erit justus ab auditione mala non timebit.」
(正しい人は、永久に記録され、凶報にも恐れはしないでしょう)(詩篇112:6-7)
「……詠唱もお願いします」
司祭の言葉に甘えて続ける。
「Absolve Domine, animas omnium fidelium defunctorum ab omni vinculo delictorum.」
(主よ、全ての死せる信者の霊魂を、余す所なく罪の鎖より解放してください)
「Et gratia tua illis succerrente, mereantur evader judicium ultionis.」
(彼らが主の聖寵の助けにより、刑罰の宣告を逃れ、)
「Et lucis aeternae beatitudine perfrui.」
(永久の聖光に包まれた幸福へ至らん事を………)
その後、ミサはつつがなく行われ、終了した。
ミサが終われば、間もなく街を出立する予定だったので、旅装へ着替える。
修道服を返却しようと、院長の部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します、お借りしていた修道服をお返しします」
「おおそうか、もう旅立たれるのかね?」
「はい、余り寒くなる前に帝都へ行きたいのです」
「そうかね……」
院長は窓の外を覗く、街の通りでは市民達が収穫祭の準備をしていた。
あと数日もすれば、街もお祭り騒ぎなるだろう。その後は長き冬に耐えるように、街は静まり返る。
「先程のミサは見事だった…綺麗な教会語の発音だ、マルティン司祭の教えは君へ受け継がれたのだな」
「まだ、未熟者ですよ……」
「教会魔法も使えるのだろう?その指輪は発動体だな」
「……はい」
私は、この人の良い老人を騙しているのだ。死後は地獄の第8層の底まで叩き落とされるだろう。
「もし良ければ、この地に残りなさい。君の知性と理性なら、良き修道士になれるはずです……」
「いえ、行かせてください……私には、成すべき目標があります」
「それに、若い我が身では、ここの食事は満足できませんね。
修行効率の向上のために食事の改善を要求します」
私の軽口に、院長は大笑いして1つの贈り物を下さった。黒ずんだ銀のロザリオだ。
「それは、マルティン司祭が昔使っていたものだ。
私には必要無いので持って行くと良い。よく磨けば色を戻すだろう」
既に飾りの文様は磨かれて潰れているから、金額的な物は大した価値では無いだろう。
しかし、このロザリオに詰まっている想い出は、貨幣で手に入れる事は出来ないはずだ。
逡巡している私の手にロザリオを握らせて、肩を叩いて激励する。
「Ite, missa est.」(往きなさい、貴方は遣わされた。)
それは、毎日のミサの閉祭の儀。一番最後に締めくくられる、ミサの語源となった言葉で意味は(ite=行け)+(missa派遣)+(est過去形)で「天に祈りは送り届けられた」や「聖者は、貴方の為に遣わされた」等、様々な意味が解釈されいるが、この場合の意味は……
「おい、ヴィトまだかよ?早く一緒に出発しようぜ!」