77話 古の戦い
修行の喧騒が遠のき、夜の静寂が船内を包み込んでいた。
ショウは自室の机に向かい、ランタンの淡い灯火の下で一冊の古書を開いた。エーテルフォレストでロンドから譲り受けた、重厚な革表紙の本――『人と魔族の古の戦い――神代の終焉』。
ページをめくる指先に、数百年の時を経た紙のざらつきと、歴史の重みが伝わってくる。
本の序盤には、まだ「魔法」という概念が人族になかった時代の絶望が綴られていた。
太古、世界は暗黒に閉ざされ、魔族がその覇権を握っていた。魔族は生まれながらに万象を操る『魔術』を血に宿し、肉体なき爪で空を裂き、声なき言葉で大地を焼いた。対する人族は、ただ鉄の剣を振るい、無力に散るだけの、狩られる側の存在に過ぎなかった」
ショウは息を呑んだ。今でこそ当たり前のように使っている魔法が、かつては人族には許されない「神域の力」だったのだ。
「その悲劇を見かねたのが、炎、水、風、土、雷を司る【五大神】である。神々は天より降り、泥にまみれた人族に『言葉』と『術式』を授けた。これが魔法の萌芽である。人族はみるみるうちにその力を血に馴染ませ、魔族の支配に抗う牙を手に入れた。そして、神の恩寵を最も色濃く継承した者は【巫】と呼ばれ、神の代行者として戦列の先頭に立ったのである。それに対抗するため魔族は不思議な力を秘めた石で神殺しの刃を二振り作り、その刃は巫達の猛威となった。」
挿絵には、光り輝く神々から火や雷を授かる人々の姿と忌々しく不気味な刃が、宗教画のような荘厳さで描かれていた。
しかし、読み進めるうちに物語は暗転し、血の匂いが立ち込めるような悲劇へと変貌していく。
「戦争が激化し、数多の屍が積み上がる中、一筋の歪な希望が生まれた。人族の英雄たる一人の【巫の男】と、魔族の上位に属する気高き魔神の【一人の女】。相容れぬはずの両者は、戦火の中で互いの魂に触れ、許されぬ恋に落ちたのである。男は人族に説いた。『魔族もまた心を持ち、理解し合える存在である』と。しかし、返ってきたのは罵声と刃であった」
ショウの指が、ページをめくるのを躊躇う。そこには、目を背けたくなるような記述が続いていた。
「人族は彼を『神への裏切り者』と断じた。そして、その巫の男と魔神の女を捕らえ、冷酷に処刑を執行した一人の男がいた。 彼は裏切りを許さぬ『正義の象徴』として、同胞であったはずの巫の心臓を、その手で貫いたのである」
ページは最終章へと差し掛かる。
「巫を処刑したその男は、後に人族の『英雄』として崇められることとなる。 彼は処刑によって人族の戦意を一つに束ね、その苛烈な力で魔族の王を討ち果たした。英雄が魔王を殺したことで、戦争は一応の終止符を打ったのである。……しかし、それは平和への道ではなく、魔族への永遠の憎しみの始まりであった」
ショウは本を閉じ、深く息を吐いた。
歴史に名を残す「英雄」が、実は平和を願った同胞を手にかけた虐殺者であったという事実に、吐き気にも似た不快感がこみ上げる。
(……魔神に恋をした男を殺した奴が、英雄と呼ばれ、魔王を倒したのか。そんな血塗られた歴史の上に、今の世界は成り立っているのか……?)
記述によれば、魔族や魔神には色々な種類があるようだが外見は人間とほとんど変わらない者もいるらしい。しかし、その内側に流れる「魔力」や「戦気」の質は、人族のものとは決定的に異なるという。
暗い部屋の中で、ランタンの火が小さく揺れた。
平和の象徴として語り継がれる英雄の物語は、ショウの目には呪いの記録のように映った。窓の外、夜の海はどこまでも深く、歴史の闇を飲み込むように静まり返っていた。
ショウは古書を閉じ、しばらくの間、消えかかったランタンの灯火を見つめていた。ページに刻まれた、平和を願った巫の男と魔神の女の悲劇。そして、彼らを処刑し「英雄」となった男の、血塗られた栄光。
(……巫を殺した男が、英雄、か。……なぜか、他人事とは思えないんだよな。俺のこの体の元の持ち主も、何か……選ばれた者としての苦悩や、誰かからの憎悪を抱えていたんじゃないか?)
手のひらに残る、異質な魔力の痺れ。それは、この世界の歴史の闇と、自分自身の正体が、見えない糸で繋がっているような予感を彼に抱かせた。
(もう少し、この世界の歴史を勉強してみよう。……俺が、俺であるために)
ショウはランタンの火を吹き消し、重い体をベッドに横たえた。波に揺れる船体の軋みが、子守唄のように彼の意識を深い闇へと誘っていく。
意識が沈んでいくにつれ、ショウは再び、濁った霧のような夢の中にいた。視界は悪く、音も歪んで聞こえる。けれど、そこに渦巻く感情だけは、痛いほど鮮明に伝わってきた。
それは、底なしの「憎悪」と「嫉妬」だった。
「いつも……いつもお前が選ばれる……! 俺じゃなくて……なぜだ! 俺の方が、力があるのに……ッ!!」
歪んだ視界の向こう、誰かが叫んでいる。それは若く、けれど絶望に満ちた、呪詛のような声だった。
「神も、人も……みんなお前ばかりを見る。俺は……俺はただの影か……? ……許さない。……あの二人……絶対に、殺してやる……ッ!!」
その声が放つ憎悪の念が、ショウの魂を締め付ける。前にも、似たような「誰かの記憶」を見た気がする。これは、この体の元の持ち主が、誰かから向けられていた殺意の残滓なのだろうか。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が全身を伝う。悪夢の泥濘に飲み込まれそうになった、その時だった。
「ショウ! 起きろ! ショウ!!」
鼓膜を突き破るような大声と、激しい振動がショウを現実世界へと引き戻した。
「……ん??? ……ううっ、夢……?」
ショウは跳ね起き、荒い息を吐きながら辺りを見回した。そこは、自分の船室だった。ランタンの灯りは消え、窓からは朝の光が差し込んでいる。
そして、ショウの目の前、ベッドの端に――一人の女が仁王立ちしていた。
「……エ、エマさん……?」
ショウは目を疑った。そこに立っていたのは、船酔いで死にそうになっていたはずのエマだった。尖り帽子を深く被り、ミニスカートの旅装束。彼女はベッドの上で仁王立ちになり、豪快に足を広げて、腕を組んでいる。
その姿は、羞恥心という言葉をどこかへ置き忘れてきたかのように、ミニスカートの奥のパンツ(下着)が、ショウの目前に「全開」で丸見えになっていた。
「ショウよ!! 私は勝ったのだ!! あの忌々しい船酔いになァァァァッ!!」
エマは、ショウの困惑など露知らず、朝日に向かって高らかに勝ち名乗りを上げた。
「はっはっはっは!!!! 見たか、この私の完全復活を!!」
「……エ、エマさん。……ジラード様に、船酔い防止魔法をかけてもらったんですね」
ショウは夢の重苦しさを吹き飛ばされた脱力感と共に、なんとか声を絞り出した。
「まあーな!!! あの老いぼれめ、渋々思い出したフリをして、私の懇願に応えおったわ!! これでこの『碧海の咆哮』号も、私の庭同然!! 快適な船旅になるぞ!!」
エマは鼻高々に胸を張り、ベッドの上でくるりと回って、その喜びを全身で表現する。……が、その度にスカートがひらりと舞い、ショウの目の前を「可愛いパンツの柄」が何度も通り過ぎていった。
「……エマさん。……パンツ、丸見えですよ」
ショウは顔を赤くし、片手で目を覆いながら、弱々しく指摘した。
「あ?」
エマは自分の足元をチラリと見ると、悪びれる様子もなく、むしろショウに向けて不敵な笑みを浮かべた。
「ふん。可愛いパンツだろ? ……ショウ、この下も……みるか?」
「結構ですッッ!!!!! すぐにベッドから降りてください!!!!!」
ショウの悲鳴のような叫びが、朝の船内に響き渡った。
悪夢の不穏な残滓は、エマの破天荒な「パンツ丸見え復活劇」によって、跡形もなく霧散してしまった。ショウは、これから始まるレテ島への上陸以上に、エマの暴走を止める日々に、頭を抱えることになりそうだ。




