73話 海の捕食者
「ギガァァァァァッ!!」
巨大なリザードマン・リーダーが咆哮を上げ、濡れた鱗を波立たせながら、滑るような動きでアリナとの間合いを一気に詰めてきた。その巨体に似合わぬ速度。
(……全身に傷があるな。村長が言っていた、何者かから逃げてきたっていうのは本当らしい……!)
ショウはリーダーの動きを冷静に分析し、グラウンド・ウェッジを握り直す。
「アリナ、きますよ! あの巨大な槍はアリナの盾じゃ防げない! 【ストーンウォール】!!」
アリナの真正面の地面が爆発し、強固な岩の壁が競り上がった。
「ズドーン!」
リーダーが放った渾身の突きが、岩の壁に深々と突き刺さる。
「そこだっ!」
岩の壁の影からアリナが弾かれたように飛び出した。槍を岩に取られたリーダーの死角へと回り込み、その太い尻尾へ鋭い剣を一閃させる。
「はぁッ!!!!」
「ガギーーン!!」
激しい金属音が響き、火花が散る。
(……硬い! 通常個体とは鱗の強度が違う!)
リーダーが槍を引き抜き、巨体を翻してアリナを狙う。
「……【ロックキャノン】!」
ショウが放った岩の弾丸は、リーダーの巨体に阻まれず、紙一重でかわされた。
代わりにリーダーは口を大きく開き、緑色の、不気味に泡立つ強力な酸の液をアリナめがけて飛ばしてきた。
「ドバーン!」
アリナが地面を転がってかわす。酸が着弾した岩場からは、ジュウジュウと音を立てて白煙が上がった。
「もう一発くる!」
「……【ウォーターウォール】!」
ショウが展開した水の壁が、二発目の酸の液を完璧に防ぎ、中和する。
盾と剣で敵の注意を引き、魔法でそれを完璧にサポートする。二人の連携は、かつてないほど洗練されていた。
アリナは酸を防がれたリーダーの隙を見逃さず、槍を持つその太い腕へと肉薄する。
「これでも喰らえ!」
渾身の力で振り下ろした剣が、槍の柄を直撃した。
「ガキィン!」
「ギ、ギガァァァァァッ!?」
予期せぬ一撃にリーダーは槍を取り落とし、武器を求めて岩場を泳ぐように動いた。
「今だよ、ショウ!」
「任せてください! ……【ファイヤーアロー】!!」
グラウンド・ウェッジを掲げたショウの指先で、マナコマンダーがかつてないほど強く輝く。杖の先端に凝縮された炎のマナが、無数の、鋭い炎の矢となって撃ち出された。
「シュルルルルッ!」
「ギガァァァァァッ!!」
無数の炎の矢がリザードマンを襲い、その強固な鱗を焼き、胴体を貫く。
リーダーの絶叫が響き渡る。効いている。これまでの修行の成果、ロンドからもらった指輪の力、アリナとの絆。その全てが、今ここに結実しようとしていた。
「アリナ! このままたたみかけるよ!」
ショウが勝利を確信し、グラウンド・ウェッジに魔力をこめた、その時だった――。
ドォォォォォォォンッ!!
これまでの戦闘の喧騒を全てかき消すような、地鳴りのような轟音が響いた。
咆哮を上げていたリーダーが、突如として動きを止める。
その背後、陽光に照らされていた穏やかな海面が、不気味に黒ずんだ。
「……な、なに!?」
アリナが呆然と呟いた。
海面が爆発したかのように弾け、そこから這い出てきたのは、禍々しい、紫がかった黒い巨躯。
そして、その巨躯から伸びる、数本の、あまりにも太く、長い触手。
触手の一つ一つには、大人がすっぽりと入るほどの巨大な吸盤が無数に並び、陽光の下でぬらぬらと濡れた光を放っている。
「……な、なんだ……!?」
ショウはグラウンド・ウェッジを握る手が震えるのを止められなかった。
海から現れたのは、グラン・マリーナで誰もが恐れていた、怪物――クラーケンであった。
その触手の一つが、逃げ惑う通常のリザードマンたちをまとめて絡め取る。
さらに、もう一本の触手が、槍を失って呆然としていた巨大なリーダーに巻き付き、その巨体を抵抗する間もなく、空高くへと吊り上げた。
「ギ、ギガァァァァァッ!?」
先ほどまで圧倒的な力を誇っていたリザードマン・リーダーが、まるで小さな玩具のように、クラーケンの触手に絡め取られ、空中で必死に暴れている。
潮の匂いは消え、代わりに深海から立ち上るような、悍ましい、冷たい魔力の気配が岩場を支配した。
「ブォォォォォォォォーンッ!!!!」
クラーケンの巨躯から、地鳴りのような咆哮が放たれた。それは勝利の雄叫びではなく、単なる「捕食」の合図に過ぎなかった。
悍ましい吸盤が無数に並ぶ触手が、空中で暴れていたリザードマン・リーダーを、そして岩場に取り残されていた数匹の通常個体をまとめて絡め取る。
クラーケンの中心、ぬらぬらと光る暗黒の口が大きく開かれた。
「ぐちゃ……ぐちゃぐちゃぐちゃァッ!!」
凄惨な音が岩場に響き渡った。
先ほどまでショウとアリナを苦しめていた、あの強固な鱗を持つリザードマンたちが、クラーケンの口へと吸い込まれ、骨ごと粉砕されていく。飛び散る青緑色の体液と、肉塊。
リザードマンのリーダーも、その巨躯を一瞬にして噛み砕かれ、跡形もなく消え失せた。
「……く、クラーケンだ……」
アリナの声が、恐怖に震えている。
(……嫌な予感はしていたが、まさか本当に会ってしまうなんて。てか、デカすぎだろ……あんなの、どうやって戦えばいいんだ……!)
ショウはその規格外の存在感に圧倒されていた。噂の「A級冒険者も全滅」という言葉が、一切の誇張ではなかったことを、今、目の前の光景が証明している。
クラーケンの無数の瞳が、リザードマンを食らい尽くし、次の獲物――岩場に立ち尽くす二人の人間へと向けられた。
ドガーーーン!!!
空気を切り裂く轟音と共に、山ほどもある太い触手が、ショウとアリナめがけて振り下ろされた。
「うわぁぁぁぁッ!!」
二人は本能的に左右へ飛び退いた。直後、彼らがいた場所の岩場が爆発したかのように砕け散り、鋭い石礫が雨のように降り注ぐ。
「アリナ、大丈夫か!?」
「うん、なんとか……!」
だが、クラーケンの攻撃は終わらない。一本の触手が防がれた直後、今度は無数の触手が、まるで槍の雨のように、執拗に二人を追い詰めてきた。
ドドドドドーーーンッ!!
「……【ストーンウォール】!!」
ショウが必死に展開した岩の壁。だが、クラーケンの触手はその壁を、まるで紙細工のように一撃で粉砕(秒殺)し、その勢いのままショウへと迫る。
(……や、やばい。魔法が、全く通じない……!)
ドガーーーンッ!!
砕かれた岩の破片を浴びながら、ショウは後方へと吹き飛ばされた。
「くそっ! ……【ウィンドカッター】!!」
グラウンド・ウェッジを一閃させ、渾身の真空刃を放つ。数本の触手の先端を切り裂くことには成功したが、クラーケンはその痛みに怯むどころか、さらに怒りを増幅させたようだった。切り口からは悍ましい体液が溢れ、すぐに新たな触手が再生を始める。
(……怯みもしない。ダメージも通ってないか……!?)
絶望的な実力差。クラーケンは左右から、二人の逃げ場を無くすように同時に触手を振り下ろした。
「左は私が! ショウは、右をお願い!」
アリナが叫び、盾を構えて左からの触手を真っ向から受け止める。ショウもまた、残った魔力を振り絞り、右からの触手へ向けてグラウンドウェッジを突き出した。
「……【ストーンウォール】!!」
防護魔法と盾の鉄壁。二人の連携は完璧だった。
だが――。
ゴォォォォォンッ!!!!
クラーケンの触手が放った衝撃は、彼らの防衛を遥かに凌駕していた。
アリナは盾ごと、木の葉のように空中へ吹き飛ばされ、悲鳴を上げる間もなく岩場へと叩きつけられた。
そしてショウもまた、展開したストーンウォールごと触手に押しつぶされ、凄まじい衝撃と共に後方へと弾け飛んだ。
「くっ……!!」
視界が真っ白に染まる。全身の骨が砕けるような痛みが走り、グラウンドウェッジが手から離れていく。
ドォーンッ!!!
ショウの体は、砕け散る岩場を越え、冷たい海面へと叩きつけられた。
凄まじい衝撃と共に、海水が口と鼻へ入り込む。
(……くそ……。ここまで、なのか……?)
陽光が届かぬ、深く、冷たい深海へと、ショウの体はゆっくりと沈んでいく。
泡と共に意識が遠のき、愛用の杖も、マナコマンダーの指輪も、その冷たい暗黒へと呑み込まれようとしていた。




