70話 勧誘
エーテルフォレストの重く湿った空気とは対照的に、グラン・マリーナの入り口を抜けた一行を待ち受けていたのは、鼻腔をくすぐる強烈な潮の香りと、突き抜けるような開放感であった。
その街は、まるで海から削り出された巨大な宝石のように、夕陽の残光を浴びて神々しく輝いていた。
街の骨格を成すのは、幾世代もの時を経て磨き上げられた純白の石造りの建築群。壁面に施された精緻な彫刻の溝には琥珀色の影が落ち、家々のテラスから垂れ下がる鮮やかなブーゲンビリアの赤が、燃えるような夕映えと呼応して目に痛いほどの色彩を放っていた。
ゆるやかな傾斜を描く石畳の坂道を下り、街全体を一望できる円形の見晴らし台へと出た瞬間、一行の視界は一気に「水平線」という名の境界を失った。
眼下に広がる紺碧の海は、沈みゆく巨神のような太陽をその身に抱き、水面は細かな金貨を敷き詰めたように激しく煌めいている。地平線の彼方では、巨大な三本マストの帆船が、夕陽の逆光を受けて真っ黒なシルエットとなり、まるで神話に登場する巨大な鳥が海を渡るかのように、音もなく滑っていた。
「うわーーーー!!! きれい!!!!! ねねね! すごい景色!!」
アリナが広場の白石の手すりに駆け寄り、身を乗り出すようにして歓声を上げた。彼女の弾んだ声は、港の喧騒と打ち寄せる波の音に混じり、風に乗って高く舞い上がった。その横顔を、沈みゆく陽光が赤銅色に縁取っている。
「すごいな……。夕陽も、海も……こんなに綺麗だなんて。まるで世界が燃えているみたいだ」
ショウもまた、手すりに手をかけ、その圧倒的なスケールの前に言葉を失っていた。地平線の向こうへと吸い込まれていく黄金の光は、彼の中にある不安や焦燥を一時的に塗りつぶし、広大な世界への純粋な畏怖を呼び覚ましていた。
視線を眼下へ落とせば、迷路のような港湾地帯には、大小無数のマストが林のように立ち並んでいる。
荷揚げを終えた労働者たちの荒々しい掛け声、家路を急ぐ馬車の車輪が石畳を叩く乾いた音、そして獲れたての鮮魚を売り捌く商人の威勢のいい怒声。それらすべての活気が、オレンジ色の濃厚な大気の中に溶け込んでいた。
「うむ! 悪くない景色だ。あの壮大な海に向かって、わたしの特大魔法をぶち込んだら、さぞかし天まで届くような美しい水柱が拝めるじゃろうな!」
エマが不敵な笑みを浮かべ、背負った杖の柄を愛おしそうになぞった。その赤い瞳は、夕陽の残影を映して不気味に、そして情熱的に発光している。
「そんな真似をしてみろ。一瞬でこの街の衛兵どもに包囲され、地下牢行きが関の山じゃ」
ジラードが呆れたように鼻を鳴らし、深く被ったフードの隙間から、既に夜の帳が降り始めようとしている路地裏へと鋭い視線を走らせた。その立ち姿は、観光を楽しむ一行の中で唯一、この街に潜む「毒」を警戒する獣のようであった。
美しく輝く白亜の街並み。ここにジラードが追う「銀閃のジル」という男がいる。
「……感傷に浸るのはそのくらいにしておけ。美しさに目を奪われすぎると、足元を掬われるぞ。まずは、この街のどこかにいるというジルを探すのが先決じゃ」
潮風が一段と強く吹き抜け、男の低い声が街の喧騒の中へと霧散していった。琥珀色の黄昏が急速に深い群青へと塗り替えられていく中、ショウたちは新たなる因縁の糸を辿り、白亜の迷宮へと足を踏み入れた。
一行は、潮風と熱気が渦巻く港近くの巨大な酒場へと足を踏み入れた。
天井の梁からは古びたランプが吊り下げられ、揺れる炎が幾多の荒くれ者たちの顔を赤く照らしている。ジラードは迷いのない足取りでカウンターへと向かい、店の主である恰幅の良い男へと低く、だが通る声で問いかけた。
「……探し人がいる。銀髪に褐色の肌、そして赤い瞳を持つ剣士だ。このあたりで見かけなかったか?」
その特徴を耳にした瞬間、オーナーの手が止まった。彼は拭きかけのジョッキを置き、どこか遠くを見るような、あるいは畏怖を孕んだような眼差しで頷いた。
「ああ……見たどころか、忘れようにも忘れられん男だ。奴はこの店にも時折顔を出していたが、纏っている気迫が尋常ではなくてな。……奴なら、この坂を下った先にある小さな居酒屋にいるはずだ。今日はそちらに流れると言っていたからな」
オーナーの話によれば、その男は街の冒険者ギルドからの依頼を時折受け、誰もが手を焼くような凶暴な魔物を、たった一振りで討伐しては静かに姿を消すのだという。
「……うむ。有力な情報だ、感謝する。これを受け取れ」
ジラードは短く礼を言い、カウンターに金貨を一枚置いた。金属が触れ合う硬い音が、酒場の喧騒の中に鋭く響いた。
酒場を後にした一行は、潮の香りが一段と濃くなる坂道を下り始めた。
先ほどの喧騒が嘘のように、このあたりは人通りも少なく、石畳の道は夜の露に濡れて鈍く光っている。白い石造りの家々の隙間から、波が岸壁を叩く一定の規則正しい音が聞こえてくる。
「ここじゃな……」
ジラードが足を止めたのは、街の片隅にひっそりと佇む、こぢんまりとした石造りの店だった。看板もなく、窓から漏れる微かな橙色の灯りだけが、そこが人の集う場所であることを示していた。
「……やっと飯か! 腹が減って死にそうじゃぞ!」
「もう、エマ。今は大事な時なんだから、少しは静かにして」
緊張感の欠片もないエマの叫びに、アリナが溜息をつきながらたしなめる。ショウはこれから出会うであろう「銀閃」と呼ばれる男への想像を膨らませていた。
ジラードが重い木製の扉を押し開けると、店内の淀んだ空気が潮風と共に一気に掻き回された。
煮え立つ魚介の香りと安酒の匂いが漂う、こぢんまりとした空間。カウンターの奥で手持ち無沙汰にしていた店主が顔を上げたが、一行の視線はその奥、影が色濃く落ちる壁際の席へと吸い寄せられていた。
そこに、その男はいた。
褐色の肌に、月光を反射したかのような銀色の短髪。
夜の闇の中でもなお、自ら発光しているかのように冷たく輝くその髪の下で、鋭い赤の眼光がこちらを射抜いた。その瞳は、獲物の急所を一瞬で見定める猛禽のようであり、向けられただけで肌がチリつくような威圧感を放っていた。
だが、何よりもショウの目を引いたのは、男が傍らに立てかけていた得物であった。
それは、この地の剣士たちが好む両刃の直剣とは、明らかに一線を画する異形の剣であった。
日本刀のように片側にのみ刃を持ち、流れるような美しい湾曲を描く刀。月明かりの届かぬ店内においても、その刃文は妖しく冴え渡り、まるで抜き身のままそこに置かれているかのような錯覚を抱かせるほどに鋭利な美しさを湛えていた。
「…………」
男はグラスを傾ける指を止め、無言のまま一行を見据えた。
『銀閃』のジルヴェス・レイン。
その名を体現するかのような鋭利な存在感が、狭い店内の空気を一瞬にして凍りつかせた。
ジラードが一歩前へ踏み出し、床の石畳をブーツの踵で鳴らす。
「……ようやく見つけたぞ、ジルヴェス・レイン」
その声が静寂を破った瞬間、男の赤い瞳がわずかに細められた。
「ジラードか……」
男――ジルヴェス・レインが低く呟いた。その声は、研ぎ澄まされた刃物のように冷たく、狭い店内の隅々まで響き渡った。
「久しいの、ジル」
ジラードは平然とした様子で、ジルの隣の席へと腰を下ろした。その横顔には、かつて死線を共にした者だけが持つ、独特の信頼と緊張が混ざり合っている。
一方、ショウは入り口の傍らで立ち尽くし、ジルの背中を見つめていた。
(……なんだ、この人は。見ただけでわかる。今まで会った誰よりも強い……。体の芯が震えるような、この圧倒的なオーラは一体……)
ショウは本能的に悟っていた。この男は、斬るべき瞬間のためにのみ、その存在を研磨し続けてきた「純粋な剣士」なのだと。
そんな張り詰めた空気などお構いなしに、エマがカウンターを叩く。
「店主! とりあえず一番美味い飯を4人前持ってこい! 腹が減っては戦も話もできんからな!」
「あ、私もお願いします……」
アリナが申し訳なさそうに付け加えることで、店内の凍りついた空気がわずかに緩和された。
ジルはエマの喧騒を無視し、赤い瞳をジラードへ向けた。
「……俺を探していたのか。何の用だ」
「ああ。わしらはこれからガイスト大陸へ向かう。だが、見ての通り魔術師が三人に、剣士が一名。前衛が心もとなくてな。貴様の力を借りたいと思っておる。お主の力があれば、道中は余裕じゃろう?」
ジラードがショウを指差しながら単刀直入に告げると、ジルはわずかに視線を動かし、ショウを射抜くように見つめた。その眼光に、ショウは思わず息を呑む。
「……俺も、ガイスト大陸へ戻る予定だ。だが、今は時期が悪い。この季節特有の嵐で、大陸行きの船は一隻も出ていないはずだぞ」
ジルの言葉は冷静だった。確かに、今の荒れた海を渡るのは自殺行為に近い。しかし、ジラードは不敵に笑った。
「ああ、グラン・マリーナから船で、大陸の中間地点にある【レテ島】まで行く。そこには昔、わしが隠した転移魔法陣がある。それを使えば、嵐を飛び越えてガイスト大陸へひとっ飛びじゃ」
「それに……『神殺しの刃』についても話がある...」
「…………!!???」
その言葉が出た瞬間、ジルの表情が一変した。




