68話 囚われた精霊
エーテルフォレストの朝は、天を衝く巨樹の隙間から差し込む光が、滞留する濃密なエーテルの霧に乱反射し、世界を淡い乳白色の宝石の中に閉じ込めたようだった。
旅立ちの準備を進める中、ショウは昨夜ロンドから借りた一冊の古書を食い入るように見つめていた。
『人と魔族の古の戦い――神代の終焉』。
なぜか、その煤けた革の装丁に触れるだけで、胸の奥が騒ぐような奇妙な感覚があった。ショウの視線に気づいたロンドが、紫煙を細く吐き出しながら口を開く。
「……ほう、小僧。そんな古臭い歴史に興味があるか?」
「あ、ロンドさん。はい、なんだか……読まなければいけないような気がして」
「ふむ。物との出会いも縁じゃな。その本、お主にくれてやろう。旅の供にするが良い」
「えっ、そんな貴重なものを……ありがとうございます!」
ショウはお礼を言い、吸い込まれるような感覚を覚えながら、その本を大切に鞄へと収めた。
「ロンド、世話になったな。また来るわい。その時までに、もっと熟成させた良い酒を隠しておけよ」
ジラードが不敵に笑うと、ロンドは「もーこなくて良いわい、酒が減るだけじゃ!」と毒づき返した。しかし、その黄金色の瞳には古い友への確かな情愛が宿っていた。
「……神殺しの刃については、わしも独自に洗ってみる。……それと、この時期、運が良ければジャイアントタートルの大移動が拝めるかもしれんぞ」
ロンドに別れを告げ、ショウ達は再び森の中を歩み始めた...
ロンドのツリーハウスを後にして数時間。森は驚くほどの静寂に包まれていた。
木々の間からは、雪のように白い毛並みの狐や、目がくりっとしたリスたちが好奇心に満ちた瞳でこちらを覗き込み、エマやアリナがその可愛らしさに声を弾ませている。
魔物の禍々しさは微塵もなく、平和そのものの時間が流れていた。だが、その静寂を「大地の震え」が破った。
「ドーーーン……、ドーーーン……」
足の裏から内臓まで響くような、重厚な地響き。
一行が音のする方へ駆け、巨大なシダの葉を掻き分けると、そこには言葉を失うほどに壮大な光景が広がっていた。
「……山が、動いてるみたいだ」
ショウが息を呑む。目の前をゆっくりと横切っていたのは、小山ほどもある超巨大な亀の群れ――『ジャイアントタートル』の行進だった。
一つ一つの甲羅は、それ自体が一つの生態系を成していた。長い年月をかけて積もった土には巨大な岩や太い樹木、そして厚い苔の絨毯が広がり、まるで「歩く大地」そのもの。彼らが一歩を踏み出すたびに森が震え、その威容に一行はただ立ち尽くし、自然の偉大さを五感で受け止めていた。
ジャイアントタートルの余韻に浸りながら先へ急ぐ一行。
エマが「もう少しこの森を探索したいのう……」と漏らしたその瞬間、平和な空気を切り裂く、乾いた爆裂音が轟いた。
「ドーーーン!!」
それは自然が発する音ではなく、明確な意図を持って練られた魔法の爆発だった。
「……魔法じゃな。行ってみるか」
ジラードの瞳が瞬時に変わる。一行が足早に向かった先には、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
「おい、この鹿の角は上等だぞ! 根元から叩き折れ!」
数人の男たちが、網でフォレストディアの動きを封じ、その美しい角を無造作に斬り落としていた。籠の中には、怯えて身を寄せ合う小鳥やリスたちが詰め込まれている。
「あいつら……密猟者ね!?」
アリナの声が怒りに震える。
「10人前後か……。エマ、アリナ、ショウ! ロンドとの約束だ、森の生き物達を助けるぞ!」
ジラードの合図とともに飛び出そうとした矢先、密猟者の一人が絶叫を上げた。
「ぎゃあああああああ!!」
死角から飛び出した白銀の旋風――ガルが、密猟者の腕を深く噛み砕いていた。
「フェンリルだ! 以前逃がした個体じゃねえか、今度こそ仕留めて売り飛ばせ!!」
「ガル……あいつ、一人で森を守ろうとしてるのか……!」
ショウは叫んだ。
「ガルを助けに行くこ!」
「ショウ、殺すのはダメよ!」というアリナの檄に、ショウは強く頷き、右手の指に填められた黄金の指輪『マナ・コンダクター』に意識を集中させた。
「はああぁぁぁっ!!」
ショウが『グラウンド・ウェッジ』を突き出すと、かつてない快い手応えが体を駆け抜けた。
今までのショウの魔力は、蛇口を壊したように溢れるか、あるいは固く閉ざされるかのどちらかだった。しかし今は違う。マナ・コンダクターが指先から体内の魔力を精密に導き出し、意志というフィルターを通して純粋なエネルギーへと変換していく。
(……すごい。指先から魔力が『流れてる』のがわかる……!)
ショウが放った魔力の衝撃波は、密猟者が放った魔法を正面から粉砕し、そのまま空気を切り裂く不可視の拳となって男たちの武器だけを正確に弾き飛ばした。
「な、なんだぁ!? 魔法が届かねえぞ!」
「これなら……あの時の魔力も完璧に扱える!」
ショウは確信した。指輪が杖と共鳴し、自身の内に眠る膨大な「古の魔素」を、守るための力へと変えているのだ。
エマとアリナ、ジラードの猛攻も加わり、10名の密猟者たちは逃げる間もなく縄で縛り上げられ、森の土へと組み伏せられた。
静寂が戻った森。ガルがゆっくりと、その気高い巨体を揺らしながらショウに歩み寄ってきた。
白銀の毛並みを月光に輝かせ、ガルはショウの目前で立ち止まると、その温かく濡れた鼻先をショウの手のひらにそっと押し当てた。
「……ありがとう、ガル。怪我はなさそうだね」
ショウが微笑むと、ガルは信頼を込めたように短く吠え、再び森の静寂を守るために深い霧の向こうへと姿を消していった。
「……さて、ショウ。感傷に浸るのはそこまでじゃ」
ジラードの声に、ショウは我に返り、地面に転がっている密猟者たちに視線を落とした。
「ジラード様、こいつら……どうします? ここに置いていくわけにもいきませんよね」
ショウの問いに、ジラードは密猟者たちが森を荒らすために使っていた大きな荷馬車を指差した。
「この森を出てすぐのところに小さな村がある。そこには王都から派遣された衛兵が駐屯しておるはずじゃ。……ちょうどいい、こやつらが乗っていた荷馬車にこ奴らを放り込んで、まとめて連行するとしよう」
「なるほど、荷馬車なら一気に運べるわね。歩かせるよりずっと早いわ!」
エマが納得したように頷き、アリナも「逃げ出したり、また森を傷つけたりしないように、しっかり縛ってから乗せましょう」と、魔法の縄で手際よく男たちを固定していく。
一行は密猟者たちを次々と荷馬車の荷台へ放り込むと、彼らが無理やり捕らえていた森の生き物たちを一つずつ解放し始めた。網から解き放たれたフォレストディアが深々とお辞儀をするように頭を下げ、小鳥たちが感謝を歌うようにショウたちの周りを旋回して空へ帰っていく。
そんな中、ショウは荷馬車の奥、一際重い布が被せられた場所に違和感に気づいた。
「ん……? なんだ、これ。何か入ってる……」
布を剥ぐと、そこには両手で抱えられるほどの小さな、しかし異様に頑丈な造りの檻。その中に、一際奇妙な生き物が閉じ込められていた。
『……助けてぇ……』
『誰かぁ……出してぇ……』
「な、なんだこいつ!? 喋れるのか……?」
ショウが驚いて顔を近づけると、檻の中にいたのは猫ほどの大きさの、二足歩行をする不思議な生き物だった。
その体は、一見すると柔らかそうだが、実際は乾燥した木肌のような、ザラリとした独特な質感に覆われている。まるで小さな木の精霊が、そのまま動いているかのようだ。顔には「どんぐり」をそのまま大きくしたような、ユーラスな木製のお面のようなものを被っている。短い手足をバタバタとさせながら、それは必死にショウを見上げていた。
「なんだ、この生き物は……?」
エマとアリナも興味津々で覗き込む。
「ほう、これは珍しい。……『コロンボ族』じゃな」
ジラードが低い声で教えた。
「森の奥深くに住まう精霊の一種じゃ。非常に臆病で人前に姿を現すことは滅多にないが、植物や薬草について、並外れた知識を持つと言われておる。それに不思議な治癒魔法を得意とすると聞く」
「たすけて、大きいひと! ここ、とっても狭いの! どんぐり、割れちゃう!」
お面を揺らしながら必死に訴えるその姿は、どこか愛らしく、放っておけない危うさがあった。
「大丈夫だよ、今出してあげるからね」
ショウは優しく檻の錠前を外すのだった




