66話 古き森のロンド
太陽が西の果てに沈み、エーテルフォレストに深い夜が訪れた。
しかし、この森に「暗闇」という言葉は似合わない。夜になると、木々の幹に宿る燐光苔が青白く発光し、宙を舞う胞子が星屑のように瞬き、森全体が淡い光のヴェールに包まれていた。
一行はジラードを先導に、螺旋階段を上ってツリーハウスの中へと足を踏み入れた。
ギィ……と、手入れの行き届いた木の扉が、静かな音を立てて開いた。
「ロンド! おるか! ジラードじゃ!」
ジラードの声が響くが、返ってくるのは古い木材が鳴る音と、森のざわめきだけだった。
家の中は、主人の不在を忘れさせるほどに豊かで、洗練された空間だった。
天井からは色とりどりの薬草やドライフラワーが吊り下げられ、壁一面の棚には、びっしりと古ぼけた魔導書や、出所不明の奇妙な壺、そして歯車が静かに時を刻む小さな魔道具たちが整然と並んでいる。
特に目を引いたのは、棚のあちこちに置かれた小さな小瓶だった。その中には青い光を放つ虫たちが閉じ込められ、おしゃれなランタンのように室内を柔らかく照らしていた。
「留守のようじゃな……。だが、遠くには行っておらんはずじゃ」
ジラードが顎髭をさすりながら外を見やる。
「おいお前ら、ロンドを探すぞ。近くにおるはずじゃ。奴は……まあ、見ればすぐにわかる。わしとエマはあっち、ショウとアリナは逆の方向を探してくれ」
ショウとアリナは、ツリーハウスの裏手へと続く、深い苔の道を歩き出した。
「ロンドさーん?」
「いませんかー?」
二人の声が、夜の静寂に吸い込まれていく。しばらく進むと、微かな水の音と共に、森の奥から一段と強い輝きが漏れ聞こえてきた。
「……ショウ、見て!」
アリナが指差した先。そこには、言葉を失うほどに幻想的な池が広がっていた。
それは、森の窪地にひっそりと湛えられた「光の溜まり場」だった。
池の周囲を囲む柳に似た巨木の枝からは、光る蔦がカーテンのように垂れ下がり、その一本一本が水面に微かな光を落としている。そして何より、池の上空には無数の「青く光る虫」たちが、まるで地上の銀河のように群れをなして舞い踊っていた。
たちが羽ばたくたびに、粉雪のような光の粉が水面に降り注ぐ。
その青い光は、池の透明な水に反射し、周囲の木々やアリナの瞳をサファイアの色に染め上げた。
「わあぁ……綺麗……。こんな景色、一生忘れられないわ」
アリナが夢見心地で呟く。
「ああ、すごいな……。まるでおとぎ話の中に迷い込んだみたいだ」
ショウもまた、探索の目的を忘れ、その圧倒的な美しさに心を奪われていた。
「……ふむ。そう言ってもらえると、手入れをした甲斐があるというものじゃな」
「!」
「うわあっ!?」
突如として、背後から掛けられた落ち着いた、けれど重みのある声。
二人が飛び上がるように振り返ると、そこにはいつの間にか、一人の小さなドワーフの老人が立っていた。
その老人は、ショウの腰のあたりまでしかない小柄な体躯でありながら、岩のような存在感を放っていた。
膝まで届く見事な白い髭は丁寧に編み込まれ、そこには小さな光る石や木の実が飾られている。身に纏っているのは、丈夫そうな革の作業着の上に、幾多の魔法文字が刺繍された深い緑のローブ。
その手には、自身の背丈ほどもある、複雑な真鍮のパーツが組み込まれた魔法杖が握られていた。
「見ない顔だな。……冒険者か?」
老人は、鋭くもどこか慈愛に満ちた黄金色の瞳をショウに向け、不敵な笑みを浮かべた。
この人物こそが、エーテルフォレストの深淵に住まう、魔法使い――ロンドであった。
「あ……あなたが、ロンドさんですか?」
ショウが問いかけると、老人は編み込まれた見事な白い髭を揺らし、不敵に口角を上げた。
「うむ、いかにもわしがロンドじゃよ。お主らは何者じゃ? この森に迷い込むには、少々ひ弱に見えるがの」
「すみません、私はショウとアリナです。ジラード様と一緒に旅をしていて、彼がロンドさんに会うために、この森に寄ったんです」
「ほう、ジラードがな……。あやつ、相変わらず勝手な男よ」
ロンドは呆れたように鼻を鳴らしたが、その黄金色の瞳には古い友を想う温かな光が宿っていた。
「それにしても、この池……本当に綺麗ですね」
「そうじゃろ。この時期、この月光虫たちは交尾のために光り、水辺に集まってくる。この森の、それも極めて澄んだ水にしか棲まぬ気難しい連中でな。……お主、この景色を拝めるとは、相当な幸運の持ち主じゃな」
ロンドとそんな言葉を交わしていると、森の奥からジラードとエマが姿を現した。
「ロンドよ! 探したぞ、こんなところで油を売っておったか」
「おお、ジラード! 久しいな。こやつらはお主の連れのようだな……。お前が連れと旅など、珍しいこともあるものよ」
旧友との再会を短く祝したのち、一行はロンドの住まう螺旋階段のツリーハウスへと移動した。
「……で、わしになんの用じゃ?」
ロンドは椅子に腰掛け、パイプ煙草に火をつけた。紫煙が天井のドライフラワーの間をゆらゆらと昇っていく。
ジラードは椅子に深く腰掛け、組んだ両手の上に顎を乗せた。その瞳には、いつもの快活さは微塵もない。
「……ロンドよ。お主、魔道具の伝承には詳しかったな。師匠のところで多くの本を読み、管理も任されていたお主にしか聞けんことがある」
ジラードは一度言葉を切り、重く問いかけた。
「……『神殺しの刃』を知っているか?」
ロンドの手が止まった。吐き出された煙が、部屋の空気を一気に重く変える。
「……知っておるよ。忌まわしい記憶じゃ」
ロンドは遠い目をして、古の戦争の記憶を語り始めた。
「昔、人と魔族が存亡を賭けて争った時代……。人族が窮地に陥った際、神々がその加護を与え、自ら剣を取って魔族を退けた。それに対抗するため、魔族が禁忌の石と力を用いて作り上げたのが『神殺しの刃』じゃ。神の肉体を切り裂き、神の力や魔力を無効とし魂を砕くためのな」
ロンドはパイプを燻らせ、続ける。
「刃は二つ存在したと言われておる。一つは『剣』。これは行方不明じゃ。……もう一つは『短剣』。それは、かつて魔族を討った人族の特殊な一族――褐色の肌を持つ『ガルム一族』が、戦利品として代々管理してきたはずだが?」
「その短剣の方だがな……」
ジラードの声が、震えるように低くなった。
「最近、実物を見たのだ。……そしてその短剣は、クレアの命を奪った」
「!?」
ロンドが椅子から身を乗り出し、驚愕に目を見開いた。
「クレアが……!? 死んだというのか!?」
ジラードは苦渋の表情で頷き、さらに衝撃的な事実を付け加えた。
「それだけではない。クレアを殺したその男は、特殊な魔法を行使しておった。短剣で彼女の命を奪うと同時に、クレアが宿していた神聖な『巫の力』そのものを、自らの中へと吸収し、奪い取ったのじゃ」
「……吸収した、だと?」
ロンドの顔から血の気が引いていく。
その横で、ショウの脳裏にあの日の光景が生々しく蘇った。
「……はい。確かに、俺も見ていました。短剣が刺さった瞬間、男の手が、あるいは魔法が……クレアさんの中から光り輝く魔力を無理やり引き抜いているように見えたんです。刃そのものが吸ったというより、男がその力を自らのものにしているような……」
ショウの証言を聞いたロンドは、震える手でパイプを掴み直した。
「……なんという事じゃ。ガルム一族が管理していた『神殺しの刃』は、神の力を封じ、鎮めるためのもの。それが巫の命を奪うために使われ、あまつさえその持ち主が巫の力を奪う魔法を使うなど……。それはもはや、ただの強奪ではない。神の力を我が物にし、何者かになろうとする、冒涜的な企みが動いておるということじゃ」
部屋を支配するのは、張り詰めた沈黙。
暖炉の火がパチリと爆ぜ、光虫の瓶が不気味に青く明滅する。
ショウが目撃した「力の吸収」。そしてジラードが隠し続けてきた、古き友の命を奪った刃の正体。
エーテルフォレストの美しい夜は、巨大な陰謀の渦へと飲み込まれようとしていた。




