65話 エーテルフォレスト
フィエルテを後にして数刻。穏やかに広がっていた草原の街道を外れた瞬間から、世界はその色を変え始めた。
踏み固められた土の道は次第に細くなり、背の低い雑草に飲み込まれて消えていく。旅人や商人の話し声、馬車の車輪が立てる乾いた音……それら「人の営み」の気配が、霧が晴れるようにスッと消え失せた。
ショウたちの目の前に、それは突如として現れた。
【古き森エーテルフォレスト】。
その森を一言で表すならば、「壁」だった。
「……でかい、なんてもんじゃないな」
ショウは足を止め、思わず首が痛くなるほど天を仰いだ。
そこに立ち並ぶ樹木の一本一本が、王都の時計塔すら子供の玩具に見えるほどに巨大だった。地を這う根はそれ自体が小山のようであり、天を貫く幹は、数人がかりで抱えても到底届かないほどの太さを持っている。
「見えてきたな。……さあ、ここからは森に入るぞ。いいか、絶対に我の側を離れるな。一歩でも道を違えれば、森そのものがお主らを飲み込み、二度と日の光を拝めなくなるかもしれんからの」
ジラードの冗談ともつかぬ警告に、ショウは生唾を飲み込んだ。
一歩、森の境界線を踏み越える。
その瞬間、空気が変わった。湿り気を帯びた、けれど驚くほど澄んだ空気が肺を満たす。それは、この世界の魔力の源泉――『エーテル』が、物理的な重さを持って滞留している証拠だった。
森の中は、薄い青白い霧がカーテンのようにたなびいていた。
巨木たちの広大な葉が日光を遮っているはずなのに、不思議と暗さはない。木々の肌にびっしりと付着した燐光を放つ苔や、空中に舞う光る胞子が、幻想的な光源となって道を照らしているのだ。
「でかいな……。まるで、世界が作り替えられたみたいだ」
ショウが感嘆の声を漏らすと、足元のふかふかとした苔が心地よい弾力で応える。
「すごいの! この木、よじ登りたくなるわ! どこまで高いのだ!?」
エマが目を輝かせ、アリナもまた圧倒されたように周囲を見渡した。
「……こんな大きな木、見たことない。……でも、怖いっていうより、なんだかとても静かで……穏やか」
アリナの言う通り、森は驚くほど静かだった。
魔物の気配は微塵もなく、時折、見たこともない色鮮やかな小鳥が枝を渡り、鹿に似た角を持つ不思議な小動物が、好奇心に満ちた瞳でこちらを覗き込んでは霧の中に消えていく。
ここは、弱肉強食の殺伐とした場所ではなく、森そのものが一つの巨大な意志を持って、生命を育んでいる揺籃のように感じられた。
静寂の中を、ジラードの先導でゆっくりと進んでいく。
ショウは歩きながら、ふと気になっていたことを口にした。
「そういえば、ジラード様。そのご友人には、どのような用事があるのですか? 偏屈な奴だが魔法に詳しい方だと仰っていましたが……」
ジラードは杖を突きながら、ふっと視線を斜め下に落とした。いつもの快活な調子とは少し違う、何かを思案するような間がある。
「ああ。昔、わしらの師匠の下で共に学んだ奴でな。……魔法使いのドワーフじゃ。奴は魔道具の知識にかけては右に出る者がおらん。……実はな、少しばかり……気になる魔道具があってな。奴なら知っているかもしれぬ」
ジラードはそれ以上語るのを避けるように、わざとらしく鼻を鳴らした。
「……それに、奴の作る酒もまた絶品でな! せっかく近くを通るんじゃ、飲まずにはいられんわい。カッカッカ!」
(……今の間は何だ? 酒の話は後付けのような気がするけど……)
ショウはジラードの背中を見つめながら、違和感を覚えた。
「ドワーフの魔法使いとは珍しいな! どんな奴か気になるわ!」
エマが興味津々に身を乗り出すと、アリナも不思議そうに尋ねた。
「でも、どうしてこんな人里離れた、深い森の中に住んでいるんですか?」
「奴は、この森の生き物が好きでな。……それに、あんまり人を好かんのじゃ。この森の生き物と共に暮らし、森の一部になっているようなもんだわい。……まあ、会えばわかる」
ジラードの言葉通り、森の奥へと進むにつれ、エーテルの濃度はさらに増していく。
巨木たちが織りなす大回廊の先に、どのような「家」が待っているのか。
ショウは期待と、ジラードが見せたわずかな翳り(かげり)への不安を抱えながら、静かな深淵へと一歩ずつ歩みを進めていった。
森に入ってどれほどの時間が過ぎただろうか。
進むにつれ、【古き森エーテルフォレスト】はその奥深き本性を現し始めた。木々はさらに太く、高く、空を覆い隠すほどに葉を茂らせ、差し込む光はより一層濃い青緑色へと変化していく。足元の苔はふかふかとした絨毯のように厚みを増し、踏みしめるたびに微かなエーテルの粒子が舞い上がる。
森の静寂を破るのは、見たこともない色鮮やかな小鳥たちのさえずりや、遠くで響く不思議な獣の唸り声。
ショウの視界には、七色に発光するキノコの群生や、触れると風鈴のような音を奏でる半透明の花、さらには虚空に魔力の根を伸ばす浮遊植物など、人里では決してお目にかかれない「魔法の植物」たちが次々と現れた。
一行は、その神々しくも圧倒的なスケール感に圧倒されながら、ジラードの背中を追って蒼き回廊を静かに進んでいった。
数刻の歩行ののち、霧が晴れるように視界が開けた。
そこに広がっていたのは、巨木たちに囲まれた、鏡のように澄み切った池だった。
池の底には七色の石が敷き詰められ、水面には周囲の巨樹たちが鮮明に映し出されている。空中に舞う光る胞子が水面に落ち、波紋となって広がる様は、まるで星々が踊っているかのようだ。
「……ふぅ。ここで少し休息とするか。お主らも疲れたじゃろう」
ジラードが荷物を下ろし、ショウたちもそれに倣った。
エマは真っ先に池の縁へと駆け寄ると、両手で水を掬い、勢いよく口に含んだ。
「……んんっ!? うんまいぞ、これ! 驚いた、王都の高級な水よりもずっと澄んでおる!」
「カッカッカ! 当たり前じゃ。この池の水は、エーテルフォレストの巨木たちが何百年もの時間をかけて、その根で濾過し、エーテルをたっぷりと含ませた『命の水』じゃからのう」
ジラードが自慢げに髭を撫で、ショウも水を一口含んだ。……驚くほど甘く、冷たく、染み渡るようなその味に、体の中の疲れがスッと引いていくのを感じた。
休憩していると、池の対岸の霧が晴れ、数頭の鹿の群れが姿を現した。
「……綺麗ね」
アリナが息を呑む。
その鹿――『フォレストディア』は、普通の鹿とは違っていた。その角は美しい流木のように波打ち、そこには色とりどりの森の花や蔦が、まるで意匠されたかのように咲き乱れている。背中からは発光する Moss(苔)が垂れ下がり、彼らが歩くたびに、森の生命が溢れ出るようだった。
群れは静かに水辺へと近づき、神々しい姿を水面に映しながら、静かに水を飲み始めた。ショウたちは、その奇跡のような光景を、言葉もなくただじっと眺めていた。
再び歩き始めた一行は、さらに森の深部へと進んでいった。
道中、背中から巨大な宿り木を生やした古代の亀や、羽が色鮮やかな透き通った巨大な虫、さらにはショウの背丈ほどもある色鮮やかな鳥など、エーテルフォレスト特有の生き物たちと遭遇しながら、その多様性に驚嘆し続けた。
そして、森の静寂を破るように、かすかな生活の匂いが漂ってきた。
巨木たちが織りなす回廊の先に、その「家」はあった。
天を衝くほどに巨大な樹木の幹に、直接彫り込まれたような、おしゃれで可愛らしいツリーハウス。幹の周囲を螺旋状に囲む、手すりのついた木の階段。屋根からは赤煉瓦の煙突が伸び、そこからは白い煙が、森の霧に混ざるように立ち上っていた。
ハウスの麓には、主人の手入れが行き届いた小さな畑や、色とりどりの花が咲き乱れる花壇が広がり、無骨なドワーフのイメージを覆すような、温かみのある生活空間が作られている。
入り口の傍らには、古びた木板に掠れた文字で書かれた看板が立っていた。
『【森の賢者のツリーハウス】 勝手に入るな。人間お断り』
「着いたの。ここが奴の家じゃ。……相変わらず、偏屈な看板を立ておって」
ジラードが苦笑いしながら、螺旋階段を上り始めた。
ショウは、そのツリーハウスの温もりと、看板に書かれた主人の性格に、期待と不安を抱きながら、巨樹の隠れ家へと足を踏み入れた。




