63話 教会に潜む魔物
血を啜り、無慈悲に集落を蹂躙したナーガの生々しい這い跡。湿った土に深く刻まれたその一本の溝を追い、一行は森の最深部へと足を踏み入れていた。
日光を遮るほどに生い茂る木々の隙間から、唐突にその姿を現したのは、もはや自然の一部と化しつつある石造りの廃教会だった。
教会の外装は、長い歳月の重みに耐えかね、至る所が崩落している。かつて白かったであろう石壁は、厚い苔と蔦に覆われ、まるで巨大な植物の骸のようにも見える。尖塔の先は折れ、屋根の瓦は剥がれ落ちて、虚ろな空洞を曝け出していた。
「……ここは?」
ショウが足を止め、杖を握り直す。空気は冷え込み、森の鳥のさえずりさえも聞こえない。ただ、教会の入り口へと続く這い跡だけが、ここが「死の安息所」ではないことを告げていた。
「ここには昔、小さな村があったのだがな。数十年も前に廃村となり、今はこの教会の跡だけが遺されているのだ……」
ドラムが兜の奥の鋭い瞳を細め、背負った巨大なウォーハンマーの柄を強く握りしめた。鎧の金属音が、不自然なほど静寂な森に響く。
「跡は、この中へ入っている。……奴はこの中にいるぞ。皆、警戒しろ。標的を仕留めるまでは、一瞬たりとも気を抜くな。いいな!」
「了解した」
エマが短く応じる。彼女の指先は、杖を弾くように微かに動いている。
「手下ども、遅れるな。我の魔眼に映るまで、せいぜい盾になって働くが良い!」
一行はドラムを先頭に、不気味なほど軽い音を立てて開いた木扉を潜り、内部へと足を踏み入れた。
内部は外から見るよりもずっと広大で、高い天井が威圧感を与えてくる。差し込む午後の光は、空中に滞留する分厚い埃を白く照らし出し、無数の光の筋となって暗い堂内を貫いていた。
教会のメインホールへと続くさらなる重厚な大扉を、ドラムが警戒しながらゆっくりと押し開ける。
――ギィ、ィィィ……。
油の切れた蝶番が悲鳴を上げる。
その先に広がっていたのは、かつて数多の信徒が敬虔な祈りを捧げたであろう、広大な礼拝堂だった。
左右には朽ちかけた木の長椅子が、秩序を保ったまま幾列にも並んでいる。だがその表面は厚い塵に覆われ、ネズミの這い跡さえ見当たらない。
壁の高い位置に嵌め込まれたステンドグラスは、幾枚かが無残に砕け、残った色ガラスが不気味な色彩を床に落としている。砕けたガラスの破片が床で鈍く光り、ショウたちの足音に混じって、時折パリ、という小さな音を立てた。
正面の突き当たりには、一段高くなった牧師のステージがある。その中央には、かつてこの地の信仰の拠り所であったであろう、巨大な石の銅像が立っていた。しかし、経年劣化によってその頭部は欠け落ち、肩のあたりも大きく崩れ、異形の影を壁に投影している。
「魔物の姿が……見えないな」
ショウは周囲を警戒しながら、長椅子の間の通路をゆっくりと進んだ。
一歩進むごとに、積もった埃が舞い上がり、光の筋の中でキラキラと不気味に踊る。
その静寂を、粘つくような重い音が切り裂いた。
――ずるるるるる。
巨大な肉塊が、古い石のステージを擦る音。
「……そこか!」
ドラムの叫びと同時に、一行の視線はステージ上の、崩れた銅像に釘付けとなった。
銅像の胴体に、幾重にも絡みつく「何か」が動いていた。
それは、窓からの光を浴びて鈍く、不吉な輝きを放つ濃青の鱗に覆われた、巨大な蛇の下半身。太い石像の胴体を締め上げるその尾は、まるで鉄の塊のような力強さを感じさせる。
そして、その上に鎮座していたのは、あまりにも異質で恐ろしい「顔」だった。
「……女の、姿?」
アリナが息を呑む。
上半身は、人間の女性の形をしていた。燃えるような赤い髪が背後に流れ、その隙間から覗く目は、黄金色に光る爬虫類特有の縦に割れた瞳孔を宿している。口元からは鋭い牙が、唇の端から覗いていた。
その手には、略奪したものか、あるいは自ら鍛えたのか、鈍い銀光を放つ一本の長剣が握られている。
「じゃあああああああああ!!!」
耳を劈くような咆哮。威嚇とも嘲笑とも取れるその声に、教会の空気が震えた。
ナーガは銅像の締め付けを解くと、そのまま獲物を目掛けて高く跳躍した。
ドォォォォォン!!
凄まじい着地音。古い床石が粉々に砕け、巨大な砂煙が教会の広場全体を瞬時に覆い尽くした。
「くるぞ!! !」
ドラムの怒号が、砂煙を切り裂く。
視界を塞ぐ煙の向こう側で、長い青い尾が蛇行する音が近づいてくる。
ドラムが先頭に立ち、岩のような肩をいからせて巨大なウォーハンマーを正面に構えた。その隣では、アリナが盾を構え、剣の切っ先をナーガの瞳へと向ける。
その後方。
ショウは杖『グラウンド・ウェッジ』の両端を強く握りしめ、足元を固めて魔力を練り上げた。
隣ではエマが、まだ見ぬ敵の情報をすべて読み取らんとばかりに、杖を構え、その「目」を限界まで見開いている。その眼球には、砂煙の向こうに潜むナーガの歪な魔力の輪郭が、刻一刻と映し出されようとしていた。
「下宿屋のオーナーを、舐めるなよ……。おまえが壊したのは、ただの建物じゃないんだ……!」
ショウの呟きに呼応するように、砂煙が晴れ、濃青の悪魔がその鎌首をもたげた。
静寂に包まれていた廃教会は、今、一匹の怪異と四人の戦士がぶつかり合う、凄惨な戦場へと変貌を遂げた。
「シャアアアアアアアアーーーーーッ!!!!!」
咆哮と共に、ナーガがその巨大な、濃青の尾を横一文字に薙ぎ払った。
その威力は凄まじく、通路に整然と並んでいた分厚い木の椅子を、まるでおもちゃの積み木のように粉々に粉砕しながら、一行へと迫りくる。
「散れっ!!」
ドラムの怒号が響く。だが、その巨大な質量を伴う一撃は、逃げるよりも早く彼らの鼻先にまで到達していた。
「ふんぬうううっ!!」
ドラムが足元の石床を砕きながら踏ん張り、背負っていた巨大な鉄槌『ウォーハンマー』を正面に構える。
ガアァァァァァァン――ッ!!
硬質な筋肉と鋼鉄が激突し、爆音と共に凄まじい衝撃波が教会内を駆け抜けた。その余波だけで、舞い上がっていた埃がドーナツ状に吹き飛ぶ。ドラムの足元が数センチ沈み込むほどの重圧だったが、彼はその一撃を、文字通り力でねじ伏せて止めてみせた。
ナーガは己の尾を弾かれたことに苛立ったのか、即座に上半身をしならせ、右手に握った長剣でドラムの首元を鋭く突き刺そうとする。
「させないよっ!」
そこに割り込んだのはアリナだった。彼女はドラムの影から弾かれたように飛び出すと、愛用の盾を斜めに構え、ナーガの剣先を受け流す。
ギィィィィィィィンッ!
火花が散り、剣が盾の表面を滑る不快な音が響く。その隙を、後方のショウとエマが逃すはずもなかった。
「いけっ! ウォーターランス!」
「刻め! ウィングカッター!」
ショウの放つ鋭い水の槍と、エマが操る真空の刃が、ナーガの白い腹部を目掛けて殺到する。
だが、ナーガの動きは彼らの予想を遥かに超えていた。
「ずるるるるっ!」
上半身を不自然な角度で捻り、下半身をうねらせる。ナーガはその巨体に似合わぬ柔軟さで、魔法の光軸を紙一重ですべて回避してみせた。
「っ……嘘だろ!? あの巨体でそんなに動くのか!」
ショウが驚愕する間もなく、ナーガは標的を「後方の魔法使い」へと定めた。床を左右に蛇行しながら、ぬるぬるとした高速の動きでショウとエマとの距離を詰めてくる。
「貴様の相手はこの私だと言っているだろうがぁ!!」
割って入ったのは、再びドラムだった。彼は巨体に似合わぬ瞬発力でナーガの進路に立ち塞がり、鉄槌を縦に振り下ろす。
ガギィィィィィィン!!
ナーガの剣とドラムの鉄槌が正面から噛み合い、互いの力が拮抗して火花が飛び散る。
「今だわ! もらったぁ!」
アリナがその膠着状態を見逃さず、ナーガの死角である背後へと高く跳躍した。剣を上段に構え、剥き出しになった蛇の背中を切り裂こうとした
――その瞬間。
「シャアッ!」
ナーガの意思とは無関係に動く生き物のように、その巨大な尾が背後を強襲した。
「きゃっ!?」
空中で回避不能となったアリナの体に、鞭のような尾が直撃する。
ドォォォォォン!!
アリナの体は小さな石礫のように吹き飛ばされ、教会の石壁へと激突した。
「アリナ!!!」
ショウの叫びが響く。だが、ナーガは止まらない。
「ロックキャノン――ッ!!」
エマが必死の形相で、銃弾のように高速化した巨大な岩を次々と放つ。
しかし、ナーガはそれを笑うかのように、長い尾でバッティングするようにすべて叩き落としてみせた。
ドォン! ドォン! と、砕けた岩が教会のステンドグラスをさらに破壊していく。
だが、そのナーガの注意がエマの魔法に向いた一瞬。
ドラム・ストロングウォールは、その隙を逃さなかった。
「隙だらけだぞ、化け物がぁ!!」
ドラムは剣を押し返し、ナーガの体勢を強引に崩すと、全身のバネを回転に乗せてウォーハンマーを横に振り抜いた。
ドォォォォォォンッ!!
「……ガッ、ハッ……!?」
ナーガの横腹に、鉄の塊が深々と食い込む。
あの巨体が、まるでゴミ切れのように宙を舞い、教会の逆側の壁まで吹き飛ばされた。
(あの巨体を……あんなに安々と!)
ショウは息を呑む。目の前で繰り広げられるのは、文字通り「隊長格」の実力。人の域を超えた剛力。
だが、砂煙の向こう側。吹き飛ばされたはずのナーガが、ゆっくりと、さらに禍々しい魔力を放ちながら鎌首をもたげるのが見えた。




