56話 リベンジ
宿屋の裏にある小さな広場。朝の冷たい空気が肺を突く中、レンは腰に提げた長剣をゆっくりと引き抜いた。
鉄の重み、柄に巻かれた革の使い込まれた感触。
意識を集中させると、脳の奥でパズルのピースが音を立てて嵌まるような感覚が走る。
(……くっ、これは……この体の記憶か)
前世の自分は剣など握ったこともないはずだ。だというのに、どう動けば刃が最短距離を通るのか、重心をどこに置けば安定するのかが、濁流のように頭の中に流れ込んでくる。
「はぁーーッ!!」
鋭い呼気と共に剣を振る。
ぶん、ぶん! と空気を引き裂く音。
流れるような横薙ぎから、突きへの遷移。
(……まあまあだな。俺のスペックをもってすれば、この体の最適化するのは容易い)
前の持ち主が積み上げてきた基礎に、自分の高い状況判断能力と知能を掛け合わせる。それだけで、以前の「レン・アーヴィング」を遥かに凌駕する戦士になれるはずだという確信が、彼に不敵な笑みを浮かべさせた。
「レン! もう体は大丈夫なの!?」
背後からかけられた声に、剣を止める。
そこには、大きな杖を抱えた少女が立っていた。
(こいつは、ルーシィ。おそらく俺と同い年だ)
明るい茶色の髪に、心優しそうな、しかしどこか芯の強さを感じさせる瞳。以前のレンと一番親しかったであろう魔法使いの少女。
「ああ、いま素振りをして体を慣らしていたところだ」
「そお? あんまり無理しないでね。本当に心配したんだから。……私たちの冒険も、ここで終わりかと思ったんだよ」
ルーシィが心底安堵したように息を吐く。
その時、広場の入り口から快活な声が響いた。
「俺たちの旅はまだ始まったばかりじゃんかよ! これからだよな、レン!」
やってきたのは、濃い青の短髪を揺らす青年だった。
(こいつは、ザック。額にバンダナを巻いた、少しやんちゃなアサシンタイプだ)
弓とダガーを使い分け、トリッキーな動きで前衛をサポートする役回り。
昨夜聞いた話では、三ヶ月前に別の街で出会い、意気投合してパーティを組んだばかりだという。そして、このトーリス村で「オーガ」の討伐を請け負い、返り討ちに遭った。
「ああ。……俺たちの旅は、これからだ」
レンの言葉に、ザックがニカッと笑う。
だが、ルーシィの表情はすぐに曇った。
「また、あのオーガ……昨夜、村の女の子を攫っていったらしいよ。衛兵たちもやられて、もう手に負えないって」
「らしいな。あいつ、積極的に女を狙うらしいぞ。……あの速さとパワーは、正直まともじゃねえ」
ザックの苦々しい言葉。
それを聞き、レンは手元にある剣の刃を冷徹な目で見つめた。
「リベンジするぞ。……負けたままなんていられない」
「ええっ!? また戦うの!?」
ルーシィが驚愕の声を上げる。
「もっと他のモンスターで経験を積んでからの方がよくない? またあんなことが起きたら、私……!」
「この村の連中も困ってるんだろ? それに、この村に他の冒険者は見当たらない。なら、俺たちがやるしかないだろ」
「確かに……。ここは王都からも他の街からも離れすぎてる。援軍なんて期待できねえしな」
ザックがレンの言葉に頷く。
レンの瞳には、村への正義感などよりも、自分の「新しい力」を試し、敗北という汚点を上書きしたいという強烈なエゴが宿っていた。
それからの数日間、レンは休息もそこそこに、ルーシィとザックを伴って村の外での特訓に明け暮れた。目的はただ一つ。自分たちが今「何ができるのか」を正確に把握することだ。
(……分析を誤れば死ぬ。)
特訓を通じて分かったことは多い。
ルーシィは火・水・風の三属性の初級魔法を操る。威力はまだ心もとないが、牽制や補助としては十分使える。
ザックは持ち前のスピードを活かした撹乱が得意だ。ダガーでの近接と弓での遠距離を器用に使い分ける立ち回りは、前衛の俺が戦いやすくなるための「隙」を確実に作ってくれる。
そして俺自身は、この体に刻まれた剣技をなぞり、敵の攻撃を最小限の動きで捌き、一撃を叩き込む盾であり矛だ。
(……悪くない。だが、まだ足りない)
ふとした瞬間に、胸の奥を焦がすような焦燥が突き上げてくる。
ショウ、そしてサクラ。
もし二人がこの世界にいるのなら、一刻も早く探し出さなければならない。こんな辺境の村で立ち止まっている暇など、本当はないのだ。
(早く……一秒でも早く、ここの問題を片付けて次へ行くぞ)
数日後の朝。
トーリス村の出口に、三人の姿があった。
「よし、オーガ討伐に行くぞ」
レンの短く、決意に満ちた言葉に、二人が緊張した面持ちで頷く。
「昨日も、若い女の子が森で薬草を採っているところを攫われたらしいわ……。早く助けに行かないと」
ルーシィが不安そうに、大きな杖をぎゅっと握りしめる。
「今ならまだ間に合うはずだ! あいつ、少し離れた森の中にある洞窟を住処にしてるらしい。そこまで一気に行くぞ、レン!」
ザックが森の奥を指差す。
女を積極的に狙う、知性の片鱗を見せる化け物。
レンは腰の剣の重みを確かめ、一歩を踏み出した。
「行くぞ。……最短で終わらせる」
薄暗い森の奥深く、陽光を遮るほどに生い茂る木々の間を、三人は慎重に進んでいた。
静寂が支配する森。時折、足元の腐葉土を踏みしめる音や、遠くで枝が鳴る音だけが響く。レンは、腰の剣の柄に常に手をかけ、神経を研ぎ澄ませていた。
(……来るな)
ざかざかと、前方の茂みが激しく揺れる。
現れたのは、飢えた眼光を放つ二匹の狼だった。
「戦闘だ!」
レンの鋭い号令と共に、一匹の狼が跳躍した。
初めての、本物の命の奪い合い。だが、レンに恐怖はなかった。むしろ、脳は氷のように冷え、状況を克明に捉えていた。
(いけるか……?)
剥き出しの牙が喉元に迫る。レンは最小限の動きでそれを回避し、すれ違いざまに剣を振り抜いた。
ズバァン! と、確かな手応えが腕に伝わる。
(浅い……!)
前世での経験か、あるいはこの体の記憶か。瞬時に「仕留めきれなかった」と判断する。
二匹目が横から飛びかかろうとした瞬間、ザックの放った矢がその眉間を射抜き、狼は激しく転倒した。
「ガァッ!」
一匹目が再び体勢を立て直し、レンの剣を牙で受け止める。凄まじい力と獣臭。だが、レンがその動きを封じた隙を、ルーシィは見逃さなかった。
「『火炎よ!』」
彼女が放ったファイヤーボールが狼の脇腹に直撃し、爆炎が獣を焼き払う。まだ息のあった一匹に、レンは容赦なくトドメの刺突を叩き込んだ。
ズブり、という生々しい感覚と共に、狼の体が弛緩する。
「……はぁ、はぁ。上手くいったね……よかった!」
「ああ、初の戦闘にしちゃ上出来だ」
ルーシィとザックの声を聞きながら、レンは自分の手を見つめた。
まあまあだ。この体の記憶と俺のスペックがあれば、十分に戦える。
「……さらに奥へ行くぞ」
三人はさらに森を突き進む。やがて、巨大な樹木の根が岩と苔を巻き込むようにして口を開けている、不気味な洞窟が見えてきた。
「あれだろう……」
ザックが声を潜めたその時、洞窟の奥から引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「――っ! イヤァァァァァァ!!」
人は即座に近くの岩陰に身を隠し、息を殺して中を覗き込んだ。
そこには、三メートル近い巨体を誇る醜悪なオーガの姿があった。
洞窟の中には、手作りと思わしき無骨な木の牢に入れられた若い女が一人。そしてもう一人――オーガの太い腕に持ち上げられ、弄ばれている女がいた。衣服は無惨に引き裂かれ、剥き出しの肌をオーガの巨大な舌が不気味に舐め回している。
「ひ、ひどい……」
ルーシィが顔を青ざめさせ、杖を握る手を震わせる。
「変態猿め、あんなこと……!」
ザックの目が怒りに燃えた。
だが、レンの瞳だけはどこまでも冷徹だった。
相手の巨体、リーチ、そして女を盾にされるリスク。すべてを頭の中で計算し、一瞬で「最適解」を導き出す。
「二人とも、行くぞ」
レンは低く、しかし逆らえない重圧を孕んだ声で命じた。




