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異世界転生 勇者の体で下宿屋営みます  作者: 抹茶のあずき
第1章 : 異世界転生編

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55話 レン・アーヴィング

五年前――。

ルミナ大陸の最果てにある小さな村、トーリス


(……なんだ? なんだよ、この音は……)


必死に目を開けようとするが、瞼が鉛のように重い。視界の端で、誰かが自分の体を「縫い合わせている」ような、極めて正確で、冷徹なまでに無駄のない指先の感触がした。

死の淵から自分の魂を無理やりこの肉体に繋ぎ止めているような、戦慄を覚えるほどの圧倒的な気配。

だが、ようやく重い瞼を持ち上げたとき、そこに「その男」の姿はもうなかった。


「#$%! &*……!!」


「=?!! +*&!!」


視界が激しく揺れ、ぼやけた視界の中に、泣き叫んでいるような男女の顔が映る。

耳に届く音は、最初はただの記号の羅列にしか聞こえなかった。だが、脳の奥で複雑なパズルのピースが音を立てて嵌まっていくような感覚と共に、そのノイズが突如として「言葉」へと変貌する。


「……レン! 目を……覚まして、レン・アーヴィング!!」


「……おい! 分かるか! 俺たちのことが分かるか!」


突然、ダムが決壊したように「音」が「意味」へと変わった。


(……ここは、どこだ? 俺は……居酒屋にいたはずじゃ……)


埃っぽい安宿の狭い一室で、レンは意識の深淵から引きずり戻された。


記憶の最後にあるのは、慣れ親しんだ居酒屋の喧騒。そして、壁を突き破って飛び込んできたトラックの白光と、すべてが砕ける衝撃だ。


「はぁ……はぁっ……! っこ、ここは……」


自分の口から出た声は、記憶にあるものよりずっと低く、酷く掠れていた。


「よかった……! トーリスの宿屋よ! レン、オーガにやられて三日も眠り続けてたんだから!」


少女――ルーシィが、涙を拭いながら叫ぶ。


「死にかけてたレンを、通りすがりの旅医者が救ってくれたんだよ。名前も名乗らずに去っちまったが、あの人がいなきゃ今頃あんたは墓の下だったぞ」


ザックと呼ばれた青年が、安堵に肩を落とした。


(トーリス? オーガ? ……医者?)


レンは混乱に目を見開いた。


(ショウとサクラはどこだ?)


視界に入るのは、中世の物語に出てくるような粗末な宿の風景と、古めかしい装備を身につけた若者二人。


「ショウ……サクラは……?」


「ショウ? サクラ? ……誰のことだ? 怪我のせいで混乱してるのか?」


青年――ザックが不安げに顔を歪める。


「鏡……を。鏡を見せてくれ」


震える声でそう告げると、ルーシィと呼ばれた少女は戸惑いながらも、枕元にあった古ぼけた手鏡を差し出した。

恐る恐る、それを覗き込む。

そこに映っていたのは、かつての「自分」の面影など微塵もない、見知らぬ10代の若い男の顔だった。

逆立った、鮮やかな金髪。

日本人のそれとは明らかに違う、彫りの深い洋風の顔立ち。

少し鋭い目つきは、いかにもファンタジーゲームに出てくる「若き戦士」のそれだった。


(……なんだ、これは)


自分の手で、その金髪に触れてみる。指先に伝わるゴワついた髪の感触が、あまりに生々しい。

居酒屋のテーブル、酒の匂い、そして店の壁を突き破ってきたトラックの強烈な白光。あの瞬間、すべてが砕けて終わったはずだった。


(夢か……? それとも、死ぬ間際に見ている走馬灯か?)


あまりに出来過ぎた「冒険者」のような自分の姿。目の前にいる、ファンタジー映画から飛び出してきたような格好の男女。

これが現実だとは、到底信じられなかった。脳が理解を拒み、これは質の悪い冗談か、あるいは意識を失う直前に見た映画の記憶が混ざり合っているだけだと思い込もうとする。


「……レン? どうしたの、そんなに自分の顔をじっと見て」


心配そうに覗き込んでくるルーシィの瞳に、自分の動揺した顔が映っている。その視線があまりにリアルで、レンの背筋に冷たいものが走った。


「……悪い。頭が、ひどく混乱してるんだ。自分のことさえ、よく思い出せない」


レンは絞り出すような声で、記憶喪失を装った。混乱を隠すためではない。本当に、この「金髪の男」としての記憶など欠片もなかったからだ。


「ええっ!? 自分のことも分からないの!?」


「嘘だろ……。オーガの一撃で、そこまで……」


ザックが絶望したように頭を抱える。

レンは痛む体を引きずりながら、この悪夢のような状況を整理するために、掠れた声で問いかけた。


「……教えてくれ。俺は、誰なんだ。……俺たちは、今まで何をしていた?」


二人が語り始めたのは、自分たちが「食い詰めた新米パーティ」であること、そしてこの村トーリスの近くで魔物と戦闘になり、リーダーである自分が死にかけたという事実だった。

何でも器用にこなし、周囲から期待されていた「自分」という魂が、この見知らぬ「レン・アーヴィング」という男の体に、無理やり縫い付けられた。

その残酷な現実を、まだレンは知る由もなかった。


二人は説明をし終わり「安静にしているんだよ」と言い、部屋を出て行った後、静まり返った安宿の室内で、レンは一人、天井の染みを見つめながら情報の断片を繋ぎ合わせていた。


「……レン・アーヴィング、か」


乾いた唇でその名をなぞってみる。

皮肉なものだ。この見知らぬ「戦士」の肉体も、元の自分と同じ名前を冠していた。偶然か、あるいは何らかの導きか。今の彼には、その奇妙な縁を笑い飛ばす余裕さえなかった。


(整理しよう。……冷静になれ。俺は、かつての俺じゃないんだ)


彼は前世で培った明晰な頭脳をフル回転させ、ルーシィとザックから聞き出した情報を頭の中で一冊の古びたノートにまとめていく。

まず、ここはルミナ大陸。その最果てにある、トーリスという名の小さな村だ。

そして自分は、茶色の髪をした心優しい魔法使いのルーシィ、そして濃い青の短髪を揺らす弓とダガー使いのザックと共に、冒険者パーティを組んでいた。


(……だが、状況は最悪だ)


彼らの話によれば、自分たちはまだ駆け出しの、いわゆる「端くれ」の冒険者。大陸各地を回り始めた矢先、この村の討伐依頼でオーガと遭遇し、返り討ちに遭った。

リーダーだったこの体の持ち主は仲間を守るために盾となり、文字通り死にかけたのだという。


(オーガ一匹に全滅しかける……。それが、今の俺の立ち位置か)


前世では、何をやらせてもトップクラスだった。勉強もスポーツも、望めば何でも手に入った。そんな「持てる者」だった自分が、今や辺境の村で食い詰めている新米冒険者の成れの果てだという事実は、ボディーブローのようにじわじわとプライドを削っていく。


そして、もう一つ。

瀕死の自分を繋ぎ止めたという、名もなき旅医者。

二人の話を聞く限り、その男の手際は「奇跡」と呼ぶにふさわしいものだった。この文明レベルの低い村で、内臓まで損傷した人間を数日で意識が戻るまで回復させるなど、本来ならあり得ない話だ。


(……その医者は、もういない。礼を言う暇も、正体を突き止める隙も与えずに消えた)


窓の外から聞こえてくる、見知らぬ鳥の鳴き声。

風に乗って運ばれてくる、嗅いだことのない土の匂い。

すべてが、ここが東京の居酒屋ではないことを突きつけてくる。


「夢か、それともリアルなゲームか……。だとしても、腹は減るし、傷は痛む」


レンはゆっくりと、自分の新しい「手」を握りしめた。

平均的な骨格、平均的な筋力。かつての自分なら、この程度のスペックの肉体でも「器用に」使いこなしてみせただろう。


(ショウ、サクラ……。お前らも、この空のどこかにいるのか?)


レンは一人、窓から見える異世界の月を見上げ、静かに唇を噛んだ。

意識を取り戻してから数日。トーリス村の小さな診療所で、レンは「現実」という名の違和感を一つずつ噛み砕いていた。


「……っ」


顔をしかめるレンの横で、古びたローブを纏った初老の男が、静かにその掌を差し出す。

男の指先から、淡い、それでいて吸い込まれるような柔らかな光が溢れ出した。その光が傷口に触れた瞬間、ズキズキと脈打っていた痛みが、まるで冷水で熱を引くようにスッと消えていく。


(……光る手。細胞の活性化か、それともエネルギーの直接干渉か)


前世の科学知識では説明のつかない現象。だが、目の前で塞がっていく傷口が、これが手品ではないことを証明していた。


「……『魔法』、か」


独りごちるレンの言葉に、医者は不思議そうに首を傾げたが、レンはそれ以上何も言わなかった。

痛みという脳への信号が、物理法則を無視して上書きされる感覚。それは、かつてテレビ画面の向こう側で見ていた「ファンタジー」そのものだった。

数日後、ようやく自力で歩けるようになったレンは、トーリス村の通りへと足を踏み出した。


「おい、レン! もう歩いて大丈夫なのかよ!」


「無茶しちゃダメよ、まだ顔色が悪いんだから」


声をかけてくるザックとルーシィを適当にいなしながら、レンは鋭い視線で周囲を観察し、脳内のデータベースを更新していく。


(建物は石造りと木材の混合。舗装されていない土の道。……中世ヨーロッパ風か)


行き交う人々は、麻や羊毛を粗く織ったような布の服を着ている。腰に無骨な鉄の剣をぶら下げた門兵、露店に並ぶ見たこともない極彩色の果実、そして、棚に無造作に置かれた、彫り込みの深い木の杖。


(間違いない。……剣と魔法の世界だ。昔、暇つぶしに遊んでいたあの手のRPGと、驚くほど共通項が多い)


市場を歩きながら、レンは自分の装備を改めて見下ろした。

使い古された革の胸当て、安物の鋼鉄の長剣。

それらは、まるでゲームを開始した直後の初期装備のように見えた。


(……フン。皮肉だな。エリートだった俺が、こんな『初期キャラ』に成り下がるとは)


だが、恐怖はなかった。むしろ、ある種の傲慢な余裕さえあった。

前世で、彼は常に勝者だった。勉強も、仕事も、ゲームでさえも。ルールを理解し、最短ルートを見つけ出し、誰よりも早く頂点に立つ。それが「レン」という男の生き方だったからだ。


(ルールがゲームと同じなら、攻略法はいくらでもある。この世界のシステムを理解すれば、俺ならすぐに這い上がれるはずだ)


店先に並ぶ盾や薬草を、冷めた、しかし野心に満ちた瞳で値踏みする。


「……まずは、この世界の『レベル』ってやつを確かめさせてもらうか」


レンはこの世界のことを受け入れながら、異世界のこと、自分のことを少しずつ理解していこうとしていた。

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