53話 エストリア家の執事
翌朝、ショウは裏庭で仕上げの作業に没頭していた。
大きな二つの浴槽を隔てる頑丈な壁。土魔法で一気に組み上げた、木の香りが漂う石造りの脱衣所。さらに遊び心で、男女のエリアに一つずつ、一人用の「壺湯」も用意した。
「よし……大体完成だな。あとはお湯を張るだけだ」
満足げに呟いたその時、庭の入口でコロが鋭く吠えた。
「わん! わん! わんっ!」
ただ事ではないコロの様子に、ショウは顔を上げた。これほどまでに激しく、警戒を剥き出しにして吠えるのは珍しい。何かが来たと直感し、ショウは慌てて玄関の方へと向かった。
サクラソウの正門の前には、二人の男が立っていた。
一人はアルクさん。そしてもう一人は、黒い執事服を完璧に着こなした老人だった。
背筋を真っ直ぐに伸ばしたその老人は、白髪を後ろで綺麗に束ね、整えられた口髭を蓄えている。腰には一振りの剣を帯びており、立ち姿には微塵の隙もない。その圧倒的な風格に、ショウの喉が鳴った。
(……この人が、ハワードさんか)
「ハワード爺!!」
背後から弾かれたように駆け出したのは、セシリアだった。彼女はそのままの勢いで老人に抱きつく。
「セシリア様!! ……ああ、ご無事で、何よりです」
老人の表情が、一瞬だけ慈愛に満ちた「爺や」のそれに緩んだ。だが、アルクがショウを促すと、彼はすぐに姿勢を正し、鋭くも理性的な瞳をショウに向けた。
「ショウさん。この方が、以前お話ししたエストリア家に仕えるハワード様です」
ハワードは一歩前へ出ると、ショウの目を真っ直ぐに見据え、深く頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。エストリア家に仕える、ハワードと申します。ショウ様のことは、アルク様から伺っております。この度は、セシリア様を『スカルロザリオ』の手からお守りいただき……誠に、ありがとうございました」
「い、いえ、頭を上げてください。セシリア様には僕の方こそ助けていただいていますから」
ショウが恐縮して言葉を返していると、玄関の扉が静かに開いた。
そこには、カイトが立っていた。
ハワードの視線が、カイトへと移る。
「……カイト様。お久しぶりでございます」
その呼びかけに対し、カイトは何も言わなかった。ただ、唇を固く結び、どこか苦しげな表情で、小さく、静かに礼を返すのみであった。
ショウはハワードをリビングへ招き入れ、今までの経緯を丁寧に説明した。アルクも時折言葉を添え、エストリア家を巡る状況を補足していく。
一通り話を聞き終えたハワードは、深く溜息をつき、改めてショウに向き直った。
「左様でしたか……。ショウ様、改めてお礼を申し上げます」
その時、ずっと沈黙を守っていたカイトが、絞り出すような声で重い口を開いた。
「……俺を、叱らないのですか」
ハワードの視線がカイトに向く。
「セシリア様を勝手に連れ出したのは俺です。結果として、彼女を幾度も危険な目に遭わせた。どんな罰でも受ける覚悟です……」
「カイト様……。あなたがセシリア様を想い、あのような行動に出たことは分かっております」
ハワードの瞳に、柔らかな光が宿る。
「私も、セシリア様をお小さい頃からお世話してまいりました。巫の力を使うお姿は、見ておれぬほど痛ましいものでした……。しかし、あなたと遊んでいる時のセシリア様は、本当に幸せそうだった。私も、ずっとその時間が続けばと思っておりました。……ですが、巫の定めからは、巡礼からは逃れられませぬ」
「はい。逃げるつもりはありません」
セシリアが凛とした声で割って入った。
「お父様にもお伝えください。私はもう、迷いません。巡礼をやり遂げます」
「セシリア様……。なんとご立派になられて……」
ハワードは感極まったように目を細めた。そこでアルクが、ショウとカイトも巡礼に同行したいという希望を伝える。ハワードは少し考え込み、「バルトロメウス様もカイト様の件はご存知ですし、シオン様もおられます。……ですが、今回のご恩があります。私からも進言してみましょう」と約束してくれた。
その後、セシリアの身を一度城へ移す話が出たが、セシリアは「ショウさんたちがガイスト大陸から戻るまで、ここに残りたい」と譲らなかった。困り果てるアルクをよそに、ハワードが意外な提案をする。
「ならば、ショウ様が旅から戻られるまで、この私ハワードがここでお手伝いをさせていただくというのはいかがでしょう? 私が側にいれば、セシリア様がここにいても問題はないはずです」
ハワードはショウに向き直り、「それでもよろしいでしょうか?」と問いかけた。ショウは「もちろんです」と即答した。アルクも「ハワード様がいれば安心でしょう」と安堵の表情を見せる。
話がまとまり、アルクを見送るために門へと向かった、その時だ。
門の前に、冷徹な空気を纏った一人の男が立っていた。
「シオン様!」
ハワードが声を上げる。
「ハワードか。ここにいると聞いてな」
シオンの視線は鋭く、妹へと向けられた。
「セシリア、迷惑をかけるな。城へ行くぞ」
「……お断りします。私は、ショウ様が旅から帰るまで、ここに残ります!」
シオンの瞳が細められ、威圧感が増した。
「セシリア。お前は命を狙われているのだぞ。……来い」
シオンがセシリアの手を掴もうと踏み込む。だが、その手をカイトが割り込んで掴んだ。
「セシリアは……その間、俺がちゃんと守る!」
「カイト……貴様。ならば守ってみろ」
シオンが腰の白銀の剣を抜いた。
「お兄様!」
「シオン様、おやめください!」
叫び声が響く中、シオンの剣が閃いた。
ガギィィィン!!
カイトは咄嗟に剣を構えて防いだが、あまりの衝撃に足が浮き、そのまま後ろへと吹き飛んだ。
「くっ……!」
ドガァァァン! と土煙を上げて壁に叩きつけられるカイト。
「……こんな貧弱な男が、セシリアを連れ出し、さらには守るだと? 笑わせるな。一撃すら耐えられぬではないか」
シオンは冷たく吐き捨て、妹へ歩み寄る。
「お待ちを、シオン様」
ハワードがその間に立ち塞がった。
「どうか……もう少しだけ、セシリア様をここにおいていただけませんか。このハワードの名において、命に代えてもお守りすると誓います。どうか、お許しを」
「……ふん。まあいい。ハワード、貴様がいるなら話は別だ」
シオンは剣を鞘に納め、倒れたままのカイトを一瞥した。
「カイト、貴様……バーンフィールド家の血を引きながら、その様か。……失望したぞ」
そう言い残し、シオンは一度も振り返ることなくサクラソウを後にした。
シオンが去った後、ショウはハワードをサクラソウの内部へと案内した。入居者たちの紹介を簡潔に済ませ、そのまま途中だった温泉作りの手伝いを頼むことにした。
ハワードの手際は、まさに驚嘆の一言だった。
「そこは、このように装飾を施せば見栄えが良くなるかと」
そう言って、彼は土魔法で作られた無機質な空間に、洗練された棚や備品を次々と配置していく。見栄えは瞬く間に良くなり、ただの浴槽だった場所は、最高級の宿にあるような「露天風呂」へと昇華された。
「……すみません。来ていただいたばかりなのに、こんな雑務まで」
ショウが申し訳なさに頭を下げると、ハワードは柔らかな微笑みを返した。
「いいえ。セシリア様の命の恩人からの頼みです。執事として、これ以上の喜びはございません」
「ありがとうございます。……心強いです」
ショウは心からそう思った。ハワードは続けて、静かな声で尋ねた。
「そういえば、明日からガイスト大陸へご友人を探しに行かれるとか。アルク様から伺っております」
「はい。少しの間ここを留守にしますが、本当に大丈夫でしょうか?」
「もちろんでございます。入居者の方々とこのサクラソウ、必ずや守り抜いてご覧に入れましょう。巡礼に関する王都側との調整も、私が進めておきます」
その頼もしい言葉に、ショウが「よろしくお願いします」と深く頷いた時だった。
背後から、決然とした足取りでカイトが近づいてきた。
「ハワードさん」
カイトの瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、燃えるような意志が宿っていた。
「俺を……俺を弟子にしてくれ。今のままじゃ、シオンの言う通りセシリアを守れない。頼む!」
ハワードはカイトの目をじっと見据えた。沈黙が流れる。
「……分かりました。ですが、死ぬほど厳しい稽古になりますよ?」
「ああ。よろしく頼む……!」
その夜、サクラソウの全員にハワードが紹介された。完成した温泉がお披露目されると、リビングは歓喜の渦に包まれた。
「一番風呂じゃあああ!」
ジラードが誰よりもはしゃぎ、酒瓶を抱えて裏庭へ突撃していく。
賑やかな声が遠くに響く中、リビングにはショウとカイトが残された。
「今朝は、不甲斐ないところを見せたな……」
「いえ、大丈夫ですか?」
ショウの問いに、カイトは少しだけ視線を落として語り始めた。
「ハワードさんには昔から世話になっていてな。よくセシリアと一緒に怒られたもんだよ。……ハワードさんの奥さんは、セシリアの前任の『再生の巫』だったんだ」
「えっ……!?」
予想もしなかった事実に、ショウは目を見開いた。
「ハワードさんはかつて凄腕の剣士で、奥さんの巡礼に同行していた。だが……その巡礼の最中、スカルロザリオの幹部『青薔薇』に襲われ、彼女は命を落としたんだ」
「そんな過去が……」
「だから、ハワードさんは巫の辛さが誰よりも分かるし、セシリアに優しいんだ。新しく巫が現れたと聞いて、次こそは守り抜くと誓い、エストリア家に仕えることを決めたんだろう。……俺も、その想いは同じだ」
カイトは顔を上げ、ショウに向かって右手を差し出した。
「俺も強く成長してみせる。ショウ、明日からいよいよガイスト大陸への旅だな。お互い、頑張ろうぜ」
「……はい、もちろんです!」
二人は固く握手を交わした。
友に会うための旅、そして大切な人を守るための修行。それぞれの戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。




