5話 思わぬ初戦
翌朝、ショウとルーナは再び丘の上の古屋敷へと向かった。
眩しい朝日が蔦の絡まる外壁を照らしているが、一歩中へ入れば、そこには昨日と変わらぬ埃の積もった静寂が待ち構えていた。
「よし、やるぞ」
ショウは腕捲りをし、昨夜ルーナに教わった魔力の循環を意識してみた。身体の奥底にある熱い流れを指先へと集め、イメージを形にする――。
(……動け。水でも風でもいい、少しでいいから現れてくれ)
だが、指先に神経を集中させても、そこにあるのはただの自分の手だけだった。風が起きる気配もなければ、水滴が滴る予兆もない。何度試しても、体内を巡るはずの魔力は、霧を掴むように頼りなく霧散していった。
「やっぱり、一朝一夕にはいかないか……。前世でも魔法なんてない、ただの普通の人間だったしな」
ショウは苦笑いしながら、早々に「魔法での掃除」を諦めた。現実は甘くない。
結局、昨日バケツに汲んだ水と、使い古された箒を手に取った。
「ショウ様、あまり焦らないでくださいね。最初はみんなそんなものですから。……さあ、私が魔法でサポートします、一緒に頑張りましょう!」
ルーナが快活に笑い、風の魔法で高い場所の埃を払い、水の魔法で雑巾を湿らせていく。その鮮やかな手並みに助けられながら、ショウは地道に粗大ゴミを運び出し、床を磨き続けた。慣れない若返った体での重労働だったが、みるみるうちにリビングの床が木目を取り戻していく様は、見ていて気持ちが良かった。
気がつけば、窓から差し込む陽光が真上へと移動してい
た。
「ふぅ……。ひとまず、リビングの半分は綺麗になったな」
額の汗を拭うショウに、ルーナが明るい声をかけた。
「ショウ様、お疲れ様です! お腹も空きましたし、ここらで休憩にしませんか? この近くに私の行きつけの美味しいご飯屋さんがあるんです。そこの名物料理、きっとショウ様も気に入ると思いますよ」
「行きつけの店か。それは楽しみだ」
ショウは道具を置き、埃を払って立ち上がった。魔法はまだ使えないが、労働の後の空腹感だけは、この世界でも変わらず心地よいものだった。二人は並んで屋敷を後にし、活気ある王都の昼時へと繰り出していった。
二人は並んで屋敷を後にし、昼食をとるために再び王都の市街地へと向かった。
「そこは路地裏にある小さなお店なんですけど、シチューが絶品で……」
ルーナが楽しそうに店の説明をしていた、その時だった。
「わわわっ! ちょっとどいてどいてー!」
前方から、元気な叫び声と共に人影が猛スピードで突っ込んできた。避ける間もなく、その人影はショウの正面から激しくぶつかった。
「おっと……!」
衝撃と共に、ショウの胸元に驚くほど柔らかく、それでいて弾力のある独特の感触が押し付けられた。
「きゃっ! ご、ごめんねー!」
ぶつかった相手は、ショウの顔をチラリと見て、慌てて頭を下げた。それは、鮮やかな桜色の髪を肩のあたりで跳ねさせた、活動的な印象の少女だった。特筆すべきはその健康的な肢体で、薄い革鎧を押し上げんばかりの豊かな胸が、先ほどの感触の正体であることを物語っていた。
「急いでるから、また今度! 本当にごめんっ!」
少女は風のように走り去っていった。その際、遠くの方から彼女を呼ぶ仲間の声が響いてきた。
「おーい、アリナー! 遅れるぞー!」
「わかってるってばー!」
少女――アリナは走りながら大きく手を振り、雑踏の中へと消えていった。それを見送ったルーナが、苦笑いしながら口を開く。
「……元気な子でしたね。あの様子だと、ギルドの依頼に遅れそうなのかも。大丈夫ですか、ショウ様?」
ルーナが心配そうに顔を覗き込んでくる。ショウは「ああ、大丈夫だよ」と答えつつも、不意打ちで味わった「巨乳の感触」の余韻を密かに反芻していた。
(……いやあ、今の感触はすごかったな。あんなに細身なのに、あそこだけ異様にボリュームが……。役得、かな)
内心でニヤけそうになるのを必死に抑え、ショウは平静を装って歩き出した。鼻の下が伸びていないか、少しだけ心配になりながら。――と、その時。
ショウの視界の端、石畳の上に小さな革の袋が落ちているのが入った。
「あ、これ……あの子の財布じゃ……!」
ショウは咄嗟にそれを拾い上げ、「待って、落とし物だよ!」と叫んだが、アリナの姿はすでに人混みの向こうへと完全に見失ってしまっていた。
「困ったな……。ルーナさん、あの子は冒険者だったよね? ギルドに行けばわかるかな」
「そうですね。きっとギルドに寄ってから出発するはずです!」
二人は昼食を後回しにし、近くにある冒険者ギルドへと急いだ。重厚な扉を開け、活気溢れるカウンターの受付嬢に事情を説明する。
「すみません。さっき桜色の髪をしたアリナという子がここに来ませんでしたか? これを落としたみたいなんです」
受付嬢は台帳を確認すると、すぐに答えてくれた。
「ああ、アリナさんたちですね。ちょうど今、王都付近の森で薬草を採取する依頼を受けて出発したところですよ。街の門を出てすぐの森ですから、今すぐ追いかければ間に合うかもしれません」
「森か。ルーナさん、どうする? 昼飯は遅くなっちゃうけど」
「もちろんです! お財布がないとアリナさんも困るでしょうし、森なら私も同行します。行き先も近いですし、一緒に行きましょう!」
こうして、ショウとルーナは予定を変更し、アリナを追いかけて王都の外へと向かうことになった。
王都から伸びる緩やかな街道を離れ、二人はアリナたちが向かったという森の入り口に到着した。
木漏れ日が差し込む穏やかな森の中を、財布を落とした少女の行方を探しながら数分ほど歩いた、その時だった。
「うわああぁぁ!」
「こっちに来るな! 撃て、早く撃てっ!」
鋭い悲鳴と、金属がぶつかり合う激しい音が、静かな森の空気を切り裂いた。
「この声……アリナさん!?」
ショウとルーナは顔を見合わせ、音のする方へと全力で駆け出した。茂みをかき分け、開けた場所へ飛び出した二人の目に飛び込んできたのは、緊迫した戦いの光景だった。
そこには三人の若い冒険者たちがいた。
必死に剣を振るう若い男の剣士。そして、先ほどぶつかった桜色の髪のアリナ。そしてその背後、木に背を預けて座り込んでいるのは、若い女性の弓使いだった。
「ひっ、ああ……っ」
弓使いの女性は、太ももを深く切り裂かれたのか、押さえた指の間から真っ赤な血が溢れている。彼女の足元には弓が転がり、怪我の痛みと恐怖で顔を蒼白にさせていた。
彼らを包囲していたのは、醜悪な緑色の肌をした小鬼――ゴブリン。その数は、なんと八体。
「嘘……、この森にこんなにたくさんのゴブリンが出るなんて……! それに、あの子……怪我をしてるわ!」
ルーナが息を呑む。本来なら数体で行動するはずのゴブリンが、群れを成して新米冒険者たちを追い詰めていた。アリナは負傷した仲間を庇うように前に立ち、必死に剣を構えているが、多勢に無勢なのは明らかで、その手は小刻みに震えている。
「……やるしかない!」
ショウは戦場のただ中に転がり落ちていた、太くて頑丈そうな木の棒をひったくるように拾い上げた。
「こっちだ、化け物ども! 相手は俺だ!」
叫びながら棒を大きく振り回し、ゴブリンたちの注意を自分へと引きつける。ショウはあえてアリナたちから距離を置くように、誘い出しながら森の奥へと走り出した。
「ショウ様!?」
「ルーナさんは今のうちに怪我人を! 早く!」
ショウの声に弾かれたように、ルーナは負傷した弓使いの元へと駆け寄り、必死に『ヒーリング』を唱え始めた。
ショウが数体のゴブリンを木々の合間へ引き込んだ、その時だった。前方からも、さらに三体のゴブリンがニチャニチャと汚い笑い声を上げながら姿を現した。
「……合計で十一体か。ちょっと多すぎないか!?」
ショウは必死に拾った木の棒を突き出したが、前世で格闘の経験などない素人だ。ゴブリンの棍棒をまともに受け、手に激しい痺れが走る。次の瞬間、木の棒は指の間からすり抜け、無情にも草むらへと転がっていった。
「くっ……!」
武器を失い、背中を太い幹に押し付けられた。絶体絶命、ゴブリンたちが一斉に跳びかかろうとした、その瞬間。
脳裏に、あの時と同じ感覚が走った。――異世界の言葉が理解できたときのように、記憶の空白にパズルのピースがカチリとはまるような、奇妙で異質な感覚。
(来る……!)
ショウは本能的に、右手に全ての意識を集中させた。体内を巡る熱い魔力が一点に凝縮され、手のひらの上に拳大の水の塊が浮かび上がる。
「いけぇっ!」
放たれた水球はゴブリンの一体の顔面に直撃した。だが、それは少し勢いよく水をぶっかけた程度で、ゴブリンをひるませ、姿勢を崩させるのが精一杯だった。
(しょぼーーーっ……!)
あまりの威力不足にショウの心が一瞬折れかけた。ゴブリンたちは顔を拭い、先ほどよりもさらに激しい怒りを露わにして、醜い顔を歪ませながら詰め寄ってくる。
(落ち着け……もっと、もっと鋭く、強く流すんだ! 水のままでも、形を変えれば刃になるはずだ!)
ショウは再び、全身の神経を研ぎ澄ませて魔力の流れを意識した。丸かった水の塊が、ショウの意志に呼応して急激に形を変えていく。それは透き通るような美しさと、冷徹な鋭さを兼ね備えた、一筋の槍の形となった。
「――『ウォーターランス』!!」
放たれた魔法は、空気を切り裂く鋭い音と共に一直線に突き進んだ。先頭のゴブリンの胸を容易く貫き、その後ろにいた数体をもまとめて串刺しにする。
その圧倒的な威力に、残ったゴブリンたちは一瞬で戦意を喪失した。仲間が無残な姿になったのを見て、彼らは悲鳴を上げながらクモの子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。
「お、おおお……やったのか?」
ショウは自分の手を見つめて驚愕した。
直後、全身に奇妙な倦怠感というか、体の一部が削り取られたような違和感を覚えたが、今はそれどころではない。ショウは息を切らしながら、アリナたちが待つ場所へと急いで戻った。




