44話 転移した犬
洞窟の奥から響く足音に、一行は茂みの中で息を殺した。
冷たい魔力の残滓、何かが這い出てくるような不気味な気配。ルークは剣を構え、エマは指先に魔力を溜める。
だが、暗闇からヌッと姿を現したのは、およそ想像していた「怪物」とは程遠いものだった。
ピンと立った三角形の耳、丸まった巻き尻尾、そして凛々しくも愛嬌のある「もふもふ」とした顔。茶色と白のコントラストが美しい、一匹の犬だった。
「……犬やないかい!」
エマが思わず立ち上がってツッコミを入れる。ジラードはそれを見て、ガハハと愉快そうに笑い声を上げた。
「はっはっは! 緊張感があって良かったではないか! この辺りの主かと思ったわい」
(いや、まて……嘘だろ……?)
ショウは目を見開いたまま固まった。その姿は、この異世界にいるはずのない、日本の「柴犬」そのものだったからだ。
「かわいいー! もふもふだー!」
「だ、大丈夫? 噛まれない?」
ミアが駆け寄り、ルークが慌てて後を追う。犬は一行に気づくと、期待に満ちた顔で舌を出し、「ヘッヘッ」と機嫌良さそうに尻尾を振って寄ってきた。
ミアがその巨体を撫で回す。そう、巨体だ。
ショウは茂みから出ながら、その違和感に言葉を失った。その柴犬は、前世の記憶にある姿よりも遥かに大きく、優に大人が乗れるほどのサイズがあったのだ。
(で……でかすぎる……。俺の知っている柴犬じゃないぞ?)
困惑しながらも、ショウはその毛並みに触れた。その瞬間、ショウの脳裏に強烈なフラッシュバックが起きた。
地下都市グリム・ハインで気を失った時、断片的に思い出した。
居酒屋の生ぬるい空気、突っ込んでくるトラックの眩しいヘッドライト。死の直前、視界の端で飼い主を待っていた、窓から見える散歩中の小さな柴犬。
(あの時いた犬……もしかしてお前、あの時の……?)
信じられない思いで犬の首元を見ると、そこには革製の頑丈な首輪がついていた。そして、金属のプレートには、この世界の誰もが読めないはずの「文字」が刻まれていた。
「なんですかね、この文字。見たことのない形だ……」
「わしも世界を歩いてきたが、古代エルフ語でも魔神語でもないのう」
アルクとジラードが首を傾げる中、ショウの口が自然と動いた。
「……『コロ』って書いてます」
「……え?」
全員の視線がショウに集まった。
「ショウ、お前……この文字が読めるのか?」
ジラードの目が、一瞬だけ鋭く光る。ショウは冷や汗を流しながら、必死に誤魔化しを口にした。
「あ、いや……ええと、昔読んだ古い本に、確かこんな感じの文字があったような気がして……たぶん、名前ですよ。コロ、です」
「ふーん……古い本、ねぇ」
ジラードは追及こそしなかったが、面白そうに顎を撫でた。
「うむ! この天才美少女の私が、こやつを手懐けて召喚獣にしてやろう! 乗り心地も良さそうだしな!」
エマが自信満々に胸を張る。コロはエマの声に反応して大きく「ワンッ!」と吠えた。
その鳴き声は森に響き渡り、不思議とショウの心にある不安を少しだけ溶かしてくれた。
転生した自分と、転移した(?)柴犬。
謎は深まるばかりだが、コロはショウの匂いをしつこく嗅ぐと、懐かしむようにその手をペロリと舐めた。
「さて、こやつはどうする? ……食うか?」
ジラードがニヤリと笑いながら冗談を飛ばすと、エマとミアが同時に声を上げた。
「何を言う! こやつは私の召喚獣にするのだぞ! 私が上に乗って魔法を放てば、まさに一騎当千だ!」
「えーーー!! 私が飼うの! このもふもふ、絶対に離さないんだから!」
当のコロは、二人のやり取りを不思議そうに首を傾げて眺めていたが、ふとショウの方を向くと、弾かれたように駆け寄って押し倒した。
「わわっ!? ちょっと、待てって!」
顔中を大きな舌でペロペロと舐められ、ショウは必死に抗議する。だが、その温もりと少し生臭い吐息は、紛れもなくあの日の記憶にある「犬」の感触だった。
(……こいつと一緒にいれば、俺がここに来た理由や、転生と転移の謎がわかるかもしれない)
ショウは舐められるがままになりながら、覚悟を決めた。べたべたの顔を拭いながら立ち上がり、力強く宣言する。
「こいつは、俺が面倒を見ます! ……王都に連れて帰って、サクラソウの看板犬にします!」
その言葉に応えるように、コロは「ワンッ!」と一段と大きく、頼もしい声で吠えた。
「看板犬、か。いいじゃないか、ショウ。サクラソウにぴったりだ」
アルクが優しく微笑むと、隣で目を輝かせていたルーナも大きく頷いた。
「素敵ですね! 賑やかになりますし……それに、これだけ大きな子がいてくれたら、みんなの安全にもなります。とっても心強いです!」
コロを仲間に加え、一行は湿り気を帯びた洞窟の奥へと足を踏み入れた。
ジラードが杖の先に灯した魔法の光が、凹凸の激しい岩肌を青白く照らし出す。洞窟内には、コロの「ヘッヘッヘッ」という弾むような息遣いと、天井から滴り落ちる水の音、そして一行の足音だけが重苦しく反響していた。
しばらく進んだところで、不意に光が岩の壁を突き当たった。
「あれ……? ここ、行き止まりじゃないですか?」
ショウが眉をひそめて声を上げる。道はずっと一本道だったはずだ。エマがここぞとばかりにジラードを指差した。
「ちょっとジラード! 行き止まりじゃないの! さてはまだ酔っ払ってるんでしょ。私の魔法で頭を冷やしてあげようか?」
「やかましいわい、酔っておらん! 道はここであっておる」
ジラードはエマの野次を鼻で笑い飛ばすと、無造作に目の前の岩壁へと手を触れた。すると、堅固に見えた岩壁が音もなく霧のように崩れ、その奥にさらなる道が続いていた。
「魔法で壁を作り、行き止まりに見せておいただけじゃ。旅人に勝手に転移魔法陣なんぞ使われて、王国の役人にバレたらたまらんからのう」
ジラードは一行を通すと、再びその手で背後の壁を復元し、完璧な隠蔽を施した。その徹底した用心深さに、アルクも感心したように頷いている。
さらに奥へと進むにつれ、洞窟の空気から湿っぽさが消え、代わりに肌をピリピリと刺すような高密度の魔力が漂い始めた。
「……見えてきたな」
ジラードが呟くと同時に、視界が急に開けた。
洞窟の最深部――そこは広大なドーム状の空洞になっており、その中心の床には、暗闇を拒絶するように薄紫色に輝く巨大な魔法陣が鎮座していた。
幾重にも重なる幾何学模様と、見たこともない古代文字。それらが呼吸をするかのように淡い光を放ち、静かに時を刻み続けている。
「これが……転移魔法陣…」
ルーナが思わず感嘆の声を漏らす。その神秘的な光景に、ショウは圧倒されながらも、いよいよ王都ルミナスへ戻るのだという強い実感を噛み締めていた。
「転移門を起動する。準備に少し時間がかかるから、そこらで休んでおれ」
ジラードがそう告げると、魔法陣の傍らに膝をつき、掌から静かに、だが膨大な魔力を回路へと注ぎ込み始めた。薄紫色の光が脈動するように強まり、洞窟の壁を妖しく照らし出す。
その間、エマとルーナ、ミアの三人は、すっかり緊張感が抜けた様子でコロと戯れていた。
「ほら、お座り! お座りだってば!」
「エマちゃん、この子、お座りじゃなくて『伏せ』をしてますよぉ」
「あはは! もふもふすぎて顔が埋まっちゃう!」
一方、戦いの連続で疲れ果てていたルークは、岩壁に背を預けたまま、コロの呼吸を子守唄代わりにスースーと寝息を立て始めている。
その光景を眺めながら、ショウは隣にいたアルクに、ふと感じていた疑問を投げかけた。
「……そういえば、アルクさん。ミアって、ナイフの使い方がめちゃくちゃ上手いですよね。グリム・ハインやバッカスとの戦いでも、あんなに短い刃物で鋭く立ち回ってたし。弓も凄いですけど、実は剣もかなり使えるんじゃないですか?」
ショウの言葉に、アルクの表情が一瞬で強張った。
彼は何かを隠すように、気まずそうに視線を泳がせる。
「あ、ああ……。実はね、ミアも……かつては『剣の都レヴァンティン』で修行していたことがあるんだ。あそこは剣術の最高峰が集まる場所だからね」
「レヴァンティン……。じゃあ、やっぱり」
「……でも、ある事件が起きてね。それを境に、彼女は二度と剣を握らず、弓を手に取るようになったんだよ」
アルクはそれ以上語るのを拒むように、言葉を濁した。その横顔には、遠い日の後悔を滲ませるような暗い影が落ちている。
ショウは、コロの首に抱きついて屈託のない笑顔を見せているミアを見つめた。その明るい笑声の裏に、剣の都での忌まわしい記憶が隠されているとは、今のショウには想像もつかないことだった。
会話が途切れ、洞窟に魔力のハミング音が響き渡ったその時――。
「準備できたぞ!!」
ジラードの野太い声が、静寂を打ち破った。
魔法陣の輝きが頂点に達し、眩い光の柱が天井を突き抜けんばかりに立ち昇る。
「おお!!」
「ついに……!」
皆が嬉しそうに顔を上げ、ジラードの元へと駆け寄る。
ショウたち一行は、期待と少しの緊張を胸に、渦巻く光の門の前へと立った。




