41話 エリシオンの朝
「せんせーーい!!! 目を覚まして! 先生!!」
誰かの悲痛な叫び声が、遠のいていたショウの意識を強引に引き戻した。
重い瞼を押し上げると、視界が激しく揺れている。必死に叫んでいるのはエマだ。彼女もまた、地面に倒れ伏したまま動けない体で、必死に顔だけを上げていた。
視界がようやく焦点を結んだとき、ショウの心臓は凍りついた。
そこには、黒いフードを深く被ったあの男が立っていた。
そして、その手にある禍々しいナイフは、倒れ込んだクレアの胸元を深く貫いていた。
「……あ……、……」
クレアの口から、声にならない吐息が漏れる。男はナイフを突き立てたまま、もう片方の手を彼女にかざしていた。クレアの体から、白銀の魔力……氷華神の残照とも言うべき光が、どろりとした黒い奔流となって男の手へと吸い込まれていく。
(……奪っているのか? クレアさんの力を……!?)
ショウは動こうとしたが、指先一つ動かない。魔力を絞り尽くした体は、泥のように地面に張り付いている。
「……――――」
男が冷酷にトドメを刺そうとした、その時。
横合いから猛烈な魔力の弾丸が男を襲った。男は吸い取っていた手を離し、背後へ跳んでそれを防ぐ。
「おいおい……人を勝手に誘い出しといて、自分だけ先に帰っちゃうのかよ?」
瓦礫を蹴立てて現れたのは、ジラードだった。服はボロボロに裂け、体中に傷を負っているが、その眼光はかつてないほど鋭く燃えている。
「あんな遠いところまで飛ばしてくれたんだ。きっちり落とし前はつけてもらうぜ?」
「……逃がさないよ。後には僕がいる」
静かな、だが心底怒りに震える声。男が退こうとした先には、聖剣『フルグライト』を構えたアルクが立っていた。バッカスとの死闘を終え、この土壇場で駆けつけたのだ。
(アルクさん……! あのピエロを倒したのか!?)
「逃さねーぞ……死ねッ!!」
男が漆黒の魔力を放出した瞬間、ジラードとアルクが弾かれたように動いた。
一方は杖を振り抜き、一方は雷光の如き一閃を放つ。王国最強クラスの二人が、同時に、そして最短距離で男へと襲いかかった。
ズバーーーーン!!!
凄まじい衝撃波が広場を走る。
だが、二人の顔に浮かんだのは勝利の色ではなく、驚愕だった。
「なにっ……!?」
土煙が晴れたそこには、斬られた手応えも、焼かれた痕跡もなかった。黒いローブの男の姿は、まるで最初から幻だったかのように、跡形もなく消え去っていた。
「……チッ、消えたか……!」
ジラードは毒づくと、すぐに背を向け、血の海に沈むクレアの元へと文字通り転がるように駆け寄った。
「おい、クレア! クレア!! しっかりしろ!!」
ジラードの悲痛な呼びかけが、雪の降り始めた静かな街に響き渡った。
エマは地面を這うようにして、ジラードの腕に抱かれたクレアの元へと向かった。ショウも折れそうな足に鞭を打ち、震える体をグラウンド・ウェッジを支えにして、一歩、また一歩と血溜まりのそばへ歩み寄る。
ジラードの手が白光に包まれた。
「……『天使の羽ばたき』!」
最高位の治癒魔法がクレアの傷口を覆う。しかし、溢れ出す鮮血は一向に収まる気配がない。それどころか、魔法の光そのものが、傷口に触れた端から黒く濁って霧散していく。
「……ジラード、もういい。この異様な気配で……分かっているだろう」
クレアが、吐血混じりに静かに言った。
「あいつが使ったのは……おそらく『神殺しの刃』だ。神を殺すために打たれ、すべての魔法を無効化する呪いの欠片。……神の力を宿した今の私には、……毒と同じだよ」
ジラードの顔が、見たこともないほど暗く沈んだ。魔法を紡ぐその手が、わずかに震えている。
「おい、ジラード! 何をやめてるんだよ! 続けろ、続けろよッ!!」
エマが泣き叫び、ジラードの肩を叩く。だが、クレアは残された力を振り絞り、エマの手をそっと握った。
「エマ……最後に顔を見せてくれ……」
「先生! 嫌だ、最後なんて言うなよ!!」
「お前は少し、落ち着きがない。……生まれつき魔法のセンスがあったせいか、人ができないことが……理解できなかった。だから、教えるのももう少し学んだ方がいいねぇ……」
クレアは苦しげに微笑み、エマの涙を指先で拭った。
「あのルーナという子を……お前が指導し、互いに成長しあうんだ。そうすれば……魔法使いとして、ようやく一人前だよ……」
「……っ、……はい……!」
エマは子供のようにしゃくり上げた。クレアは頷くと、自身の目に手をやり、その指先をエマの片目に添えた。
「あと、これをお前に授ける。……魔力操作に長けたお前なら、使いこなせるだろう。これで……ショウさんに協力するんだ」
クレアの指先から、吸い込まれるように光がエマの瞳へと流れ込む。
「虚空の写し目」――。
クレアの最強の武器であったその瞳が、エマへと継承された。
「ジラード……すまないね。あとは、頼んだよ……」
「ああ……任せろ」
ジラードの声は低く、地を這うようだった。クレアは最後に、傍らに立つショウとアルクへと視線を向けた。
「ショウさんにアルク。……こんなことに、巻き込んでしまって……すまないね。エマとジラードが……お前さんの『友人』を探すのを、私に代わって手伝ってくれるだろう……」
「謝らないでくださいよ……っ」
ショウの言葉は震えていた。
空からは、戦いの熱を冷ますように静かな雪が降り始めていた。
クレアは満足そうに一度だけ頷くと、遠い夜空を眺めるように瞳を細めた。そして、穏やかな冬の風が吹き抜けるなか、静かにその瞼を閉じ、永遠の眠りについた。
街を救った英雄、氷華神の巫ノヴァ・クレア
その最期を看取るのは、降り頻る白銀の粉雪と、彼女が愛した弟子の嗚咽だけだった。
翌朝、エリシオンの街は、冷たい朝霧の中で復旧作業の槌音に包まれていた。
瓦礫の山を片付ける衛兵、傷ついた建物を補強する職人たち。昨夜の悪夢のような炎が嘘のように、街の人々は生きるために懸命に動き回っている。
クレアの葬儀は、大学関係者とごく一部の身内のみで静かに行われた。「氷華神の巫」が殺害され、その力が奪われたという事実は、あまりに影響が大きすぎる。混乱を避けるため、彼女の死は公には伏せられたままだ。
街外れの静かな丘。新しく作られた墓石の前に、ショウ、エマ、そしてジラードの三人が立っていた。
「……ありがとうな。あんな大事に付き合ってもらって」
エマが、いつになく落ち着いた、どこか寂しげな声で言った。その片目は、クレアから受け継いだ「虚空の写し目」の影響か、時折淡い光を帯びている。
「なーに。わしもあいつとは長い付き合いだ。これくらい当然よ」
ジラードが静かに応じる。彼は少し視線を落とし、ショウに向き直った。
「そういえばショウ、お前の連れの……ルーナとミア、それにルークの具合はどうだ?」
「はい。とりあえず三人とも無事です。被害のなかった宿で休んでいます。アルクさんは、街の復旧作業の指揮で忙しいみたいで……」
「あの男も、相変わらず忙しいのう」
ふと、ショウは昨夜の光景を思い出し、胸の奥が冷えるのを感じた。
「……あの黒いローブの男は何者なんですか? スカルロザリオのメンバーなんでしょうか」
「わからん。だが、あまりに計画的すぎる。あいつが使っていたのは、今では失われたはずの『古い魔法』だ。それ以上のことは、わしもまだ掴めておらん……」
沈黙が流れ、墓前がしんみりとした空気に包まれる。それを強引に振り払ったのは、エマだった。
「おいおいおい! そんなしみったれた空気だと、クレア先生に怒られるぞ!」
エマは腰に手を当て、いつもの強気な笑顔を作ってみせた。
「改めて言うが私、お前の『友人探し』とルーナの指導のために、一度王都にあるお前の下宿屋に世話になるからな!」
「えっ、やっぱり僕の下宿にですか?」
「おーー、そうだったのぅ! わしも引越しの準備をせんとな!」
ジラードもエマの調子に合わせるように、明るい声を出す。
「私も瓦礫の中から必要なものをかき集めて王都に行くぞ。これからよろしくな、ショウオーナー!」
二人の明るさは、悲しみを無理やり抑え込んだ「から元気」かもしれない。それでも、立ち止まっているわけにはいかないのだ。
(……進まなくちゃいけないんだ)
ショウは胸の奥にある重い痛みを抱えながらも、一歩を踏み出す決意を固めた。クレアが命を懸けて守ったこの命を、彼女に託された願いを、繋いでいくために。
冷たい風に吹かれながら、ショウは静かに、けれど力強く、クレアの墓石に背を向けた。そこには美しい氷の華が手向けてあった。




