29話 暗闇の底
だが、次に目を開けたとき、そこは冷たい奈落の底ではなかった。
「ショウ! ショウ!!」
聞き覚えのある声に、ふと顔を上げる。そこは、かつて通い慣れた前世の職場だった。窓の外には見慣れたビル群が広がり、パソコンの駆動音と電話のベルが鳴り響いている。
何ボーッとしてんだ?」
デスクの横に立っていたのは、レンだった。
「また契約取ってきたぜ!」
「おお……さすがだな、レン」
なにか、とても長くて過酷な夢を見ていた気がする。だが、その記憶は霧のように薄れていく。
「ショウ、疲れてるんじゃない? はい、コーヒー!」
同期のサクラが笑顔でカップを差し出してくれる。
遠くでは、上司に褒めちぎられているレンの姿が見える。
高校のサッカー部時代、パスを出すのはいつも俺で、シュートを決めてヒーローになるのはいつもレンだった。勉強も、仕事も、レンは常に俺の先を行き、輝いていた。俺は何をやっても「普通」だった。
「ショウくんがいつもレンを支えてるじゃん」
サクラのその言葉に救われていたけれど、心のどこかで、ずっと彼を羨んでいた自分もいた。
「仕事終わったら、3人でいつものとこで飲もうぜ!」
レンの誘いで、気づけば夜の居酒屋にいた。
「乾杯! 翔、桜、お前らも俺についてこいよ。来年はもっとデカい案件、俺が取ってきてやるからさ!」
「翔くん、来年のGW、あのテーマパークのホテル予約しちゃおうか?」
「サクラ...飲み..過ぎじゃないか?」
幸せな、日常の風景。
(……でも、これ、前にもどこかで……)
「わんわんわんわん!!!」
外で、散歩中の柴犬が激しく道路に向かって吠えている。その鳴き声が、不自然に耳に突き刺さった。
(眩しい……?)
窓の外から、強烈なヘッドライトの光が差し込んでくる。
(……あ!! ここにいちゃダメだ!! ここにトラックが来る!!)
叫ぼうとした瞬間、視界が白一色に染まり、轟音がすべてをかき消した。
気づけば、俺は事故の光景を上から眺めていた。あの居酒屋の席は跡形もなく潰れている。だが、そこにいたはずの俺、レン、サクラの姿だけが、どこにもなかった。
柴犬の散歩をしていた女の人も動揺しているのが見える。おそらくあの犬も巻き込まれたんだろう...
(……そうだ。俺は、これで死んだんだ。……でも、待てよ)
意識が現実と夢の間を揺れ動く。
(今ごろだけどレンやサクラも姿が変わってら……。……てか、あのトラックの運転手、笑ってなかったか?)
深まる違和感。だが、急激な頭痛が思考を断ち切った。
『――お前はまだ、殺させないぞ!!』
脳内に直接響く、憎悪に満ちた、だがどこか聞き覚えのある叫び。
『殺すのは……俺だ!!!!!』
「っ……!!」
ショウは跳ねるように目を開けた。
「お、ショウくん! 気がついたかい?」
視界に入ってきたのは、パチパチと爆ぜる小さな焚き火。そして、その横で心配そうに覗き込んでいるゼルクスの顔だった。
「あんまり動かないほうがいい。……まだ体は悲鳴を上げているよ」
腕を見ると、真っ赤に爛れた生々しい火傷の跡があった。激痛が走り、ショウは顔をしかめる。
「ごめんよ。僕もすぐに治療しようとしたんだけど、あの光線を防ぐ時に魔力を使いすぎちゃってね……。気休め程度の応急処置しかできなかったんだ」
「あ……そうだ。ヘル・ゲートと戦って……床が落ちて……」
ショウは重い頭を動かし、周囲を見渡した。
そこは、あの美しい「千柱廊」とは対照的な、湿っぽくて冷たい、暗い空洞だった。
ショウが仰向けになって見上げた天井は、ただひたすらに深く、重い闇に閉ざされていた。自分たちがどれほどの高さから落下してきたのか、想像することさえ恐ろしいほどに。
「そーいえば……ヘル・ゲートは?」
ショウが掠れた声で尋ねると、ゼルクスは焚き火の爆ぜる音を背に、静かに口を開いた。
「ああ……。奴は僕たちより先に落ちていったよ。ただ、この奈落の底に激突する直前、霧が晴れるように姿を消してね……。僕も残った魔力のすべてを振り絞って、なんとか君と僕、二人の落下の衝撃を殺すのが精一杯だったんだ」
ゼルクスはそこで言葉を切り、少しだけ視線を逸らした。その先には、瓦礫の山に投げ出された冒険者のリーダーの姿があった。
「でも……彼は助けることができなかったよ」
ショウは痛む体に鞭打って、視線をリーダーの方へと向けた。
そこには、かつてエリシオンで希望に燃えていたであろう男の変わり果てた姿があった。全身を酷い火傷に覆われ、もはや息を吹き返すことはない。仲間の仇を討とうとした、そのたった一度の無謀な一撃が、皮肉にも彼自身の命を奪う結末を招いてしまった。
ショウはやりきれない思いを抱えながら、再び視線を暗い天井へと戻した。
「……ゼルクスさん、すみません。助けていただき、ありがとうございます」
震える声で感謝を伝えると、ゼルクスは一瞬、何かを言いかけたように口を動かしたが、すぐにいつもの曖昧な笑みを浮かべた。
「あ……ああ。礼には及ばないよ……」
その返答はどこか上の空で、焚き火の光に照らされたゼルクスの横顔は、いつもの飄々とした雰囲気とは違う、冷徹なまでの冷静さを孕んでいるように見えた。
ショウとゼルクスは、焚き火のそばで泥のような眠りについた。
どれほどの時間が過ぎたのか、光のないこの底では見当もつかない。ただ、再び目を覚ましたときには、体の奥に少しだけ魔力が戻り、火傷の痛みも鈍い痺れへと変わっていた。
「……よし、少しは動けそうだね」
ゼルクスに促され、ショウは杖を支えにして立ち上がった。エリシオンから来た冒険者のリーダは今の2人では上まで運ぶことが出来ないと判断し、この場で火で焼きこの場で埋葬した。
その後二人は魔法で照らし、どこまでも続く暗闇の中を歩き始めた。
「大丈夫かい? まだ足元がふらついているようだけど」
「はい……なんとか。歩き始めれば、意外と大丈夫です」
ショウが答えると、ゼルクスは「ふふっ」と、いつもの掴みどころのない笑い声を漏らした。
「……? 何かおかしなことでも言いましたか?」
「いや……昔を思い出してね。昔、弟とよく『冒険者ごっこ』をしていてね。近所の洞窟に入り込んでは出口がわからなくなって、二人で泣きべそをかきながら歩いたのを思い出したのさ」
「弟さん…今は、どこにいらっしゃるんですか?」
「さぁーねぇ。世界中を旅してるんじゃないかな? もしかしたら、案外僕のすぐ近くにいたりしてね!」
ゼルクスは茶目っ気たっぷりに肩をすくめたが、その瞳の奥には冗談とは思えない深い色が宿っていた。そんなとりとめもない会話をしながら、二人は暗闇の奥へと進んでいく。
やがて、灯火が照らし出したのは、整然と削り取られた岩壁と、錆びついたレール、そして打ち捨てられた古い掘削機だった。
「……ここは、ドワーフたちが採掘していた跡みたいですね」
「そうだね。地下都市のさらに下……ここは貴重な鉱石が眠る『深層採掘場』だったんだろう。……見てごらん、ショウくん。あそこの岩肌だけ、少し不自然だ」
ゼルクスが指差した先には、他の岩壁とは明らかに質感の違う、黒く光る巨大な岩石が剥き出しになっていた。
「あれは『黒石』といってね、途方もなく硬い鉱石なんだよ。武器や鎧の材料として、魔族との戦争時には喉から手が出るほど欲しがられた貴重な資源だったのさ……」
ゼルクスのその口ぶりは、まるで当時の光景をその目で見てきたかのような、妙に生々しい響きを帯びていた。ショウはその違和感に一瞬眉をひそめたが、今は生き残ることが先決だと自分に言い聞かせる。
「……これだけ採掘の跡があるなら、ドワーフたちが地上や都市部へ戻るための手段も必ずあるはずです」
「そうだね。採掘路に沿って進んでみようか」
二人が慎重に奥へ進むと、岩壁に備え付けられた、木と古いロープで組まれたエレベーターのような昇降機を見つけた。経年劣化でボロボロだが、ドワーフの堅牢な造りのおかげで形は保っている。
「見て、ここに動力源の魔石があるよ。ここに魔力を注げば動きそうだけど……二人の残りの魔力で足りるかな」
ゼルクスが手をかざそうとした、その時だった。
「……ギギッ、匂うぞ!!」
「人間の匂いだ……血の匂いだァ!!」
背後の闇から、黄色く濁った無数の瞳が近づいてきた。4体のゴブリンだ。奈落の底に住み着き、死肉を漁る個体なのだろう。飢えた形相で棍棒を振り上げ、ショウたちに飛びかかろうとする。
「クソ、こんな時に……!」
ショウが杖を構えようとしたが、ゼルクスがそれを制した。
「ちょうどいい。……少しだけ、貸してもらうよ」
ゼルクスが静かに手を前に差し出した、その瞬間だった。襲いかかってきたゴブリンたちが、急に自分の喉を掻きむしり、悶え苦しみ始めた。
「ぎゃああああ……っ!?」
「な……なんだ、これ……魔力が……っ!」
1体、また1体と、干からびた木の実のように力が抜け、その場に力なく倒れ伏していく。
「な……何をしたんですか、今?」
ショウが驚愕して問い詰めると、ゼルクスは倒れたゴブリンを見下ろし、穏やかに、だがどこか冷徹な声で答えた。
「ああ、僕はね……他者の魔力や痛みを『吸収』できるんだよ。この力があるから、人の病や傷を自分に引き受けて治す『医者』なんて職業ができているようなものなのさ」
ゼルクスは吸収したての魔力を掌で転がすように見つめた。
「こいつらの魔力をすべて吸い取った。ゴブリン程度じゃたかが知れているけど……今の僕たちには、ちょうどいい燃料だね」
ゼルクスがその手を昇降機の魔石に触れさせると、石は青白い輝きを放ち、重々しい鎖の音を立てて装置が動き出した。
「さあ、乗りなよ。上でお仲間が心配しているはずだ」
二人が乗り込むと、昇降機は激しく揺れながら、ゆっくりと奈落の闇を切り裂いて上昇を始めた。




