28話 炎の悪魔 ヘル・ゲート
静寂が、無数の足音と悲鳴によって無残に引き裂かれた。
「なんだ……!? 何か来るぞ!」
ルークが剣を構え直すが、白い石柱の影から飛び出してきたのは、襲撃者ではなかった。
「ぎゃぁぁぁーーっ!」
「逃げろ! 燃える、焼かれるぅぅ!!」
30体、いや40体は下らないであろうゴブリンの群れ。だが、それは略奪のための軍勢ではなく、ただ死の恐怖から逃げ惑う「敗走兵」の集まりだった。彼らはショウたちの存在など目に入らない様子で、脇目も振らずに横を素通りしていく。
「えっ……また無視!? あたしたち、完全にスルーされてるんだけど!?」
ミアが呆気に取られて叫ぶが、冗談を言っていられる時間は一瞬で終わった。
ゴブリンたちが逃げてきた背後――白い石柱の森の奥から、空間そのものが「ゆらり」と歪み始めた。
「……来るぞ」
アルクの叫びが、かつてない緊張感で震えている。
ゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォーーーーー!!!!!
凄まじい熱波が「静寂の千柱廊」を吹き抜け、純白だった石柱たちが一瞬で赤黒く照らし出された。石が焼ける嫌な音が響き、視界の先にある暗闇が「意思を持つ炎」となって膨れ上がる。
そして、ついにその姿を現した。
燃え盛る巨大な体。
天を覆わんばかりの炎の翼。
額から顔を覆うように前へと突き出した、禍々しい二本の巨角。
背後でムチのようにしなる、焔を纏った長い尻尾。
「ヘル・ゲート……!」
ショウは息を吸うことさえ忘れていた。
昨晩の夢、そして先ほど中庭で見た記憶のビジョン。その元凶が、今、圧倒的な威圧感をもって目の前に立っている。
ヘル・ゲートが、その燃える眼窩でショウたちを捉えた。
瞬間、周囲の白い石柱たちが、その熱量に耐えきれず「パンッ!」と爆ぜるように砕け散る。
「……あ……あぁ……」
助けた冒険者の一人が、腰を抜かして震えている。
これが、グリム・ハインを滅ぼし、山を地獄へと変えた「悪魔」の正体だった。
「……ひっ、あ、あぁ……終わりだ、もう終わりだ……!」
救助した冒険者が、あまりの絶望感に膝を突き、ガタガタと震えながら虚空を仰ぐ。
「まだ命はある! 諦めるな!」
アルクの声が、熱気に支配された空間に鋭く響いた。その覇気が、金縛りにあっていたショウたちの体を辛うじて解き放つ。
だが、ヘル・ゲートは待ってくれない。
奴の巨大な顎が開かれ、その奥に太陽のごとき超高熱のエネルギーが凝縮されていく。
「来るぞ! 石柱の裏へ隠れろ!!」
ぶぉォォォォォォォォォォォン!!!!!
放たれた紅蓮のブレスが、目の前の石柱を次々とドロドロの溶岩へと変えながら、ショウたちの横を通り過ぎた。影に隠れているはずなのに、肌がじりじりと焼けるような熱波に視界が白む。
「……僕が気を引く。その間に奴の背後に回り、出口を目指せ!」
「で、でも……!」
ルーナが悲鳴に近い声を上げるが、ミアがその肩を強く掴み、アルクを信じる目で頷いた。
「アルクさんに任せよう。いざという時は……あの人には、もう一本の剣があるわ」
(もう一本の剣……)
ショウは、アルクが常に腰に差していながら、一度も抜いたことのない古びた外装の剣を思い出した。あの剣には、一体どんな力が……。
「ショウ君、君の目眩ましを合図に飛び出す。頼めるか?」
「……わかりました。やります!」
ショウは杖を突き出し、全魔力を練り上げた。
「右に炎、左に水……食らえ! 『スチーム・バースト』!!」
相反する二つの魔法がヘル・ゲートの目の前で激突し、爆発的な勢いで真っ白な水蒸気が空間を埋め尽くした。
「今だっ!!」
アルクが目にも留まらぬ速さで飛び出し、剣を振う。
「はぁぁぁぁ!!」
放たれた青白い巨大な飛ぶ斬撃が、ヘル・ゲートの分厚い胸元に直撃した。だが、鋼を断つはずのその一撃も、悪魔の硬い皮膚には傷一つ付けられない。
しかし、目的は達した。
「グォォォ……ッ!?」
視界を奪われ、さらに自分を攻撃してきた「羽虫」に、ヘル・ゲートの殺意が完全に固定された。
「走れ! 立ち止まるな!!」
ショウたちは水蒸気の煙幕に紛れ、無数の石柱を縫うようにして、ヘル・ゲートの巨躯を大きく迂回し始めた。背後では、怒り狂った悪魔が振るう尻尾によって、鎮魂の石柱たちが次々と粉砕される轟音が響き渡っていた。
背後で響く音と熱波を肌に感じながら、ショウたちは必死に走る。
「みんなついてきてる!? 離れないでよ!」
ミアが先頭で叫び、ショウがそれに応える。
「ああ! 全員いる!」
「でも、本当にアルクさん大丈夫なんですか!? あんな化け物相手に……!」
ショウは後ろを振り返るが、ルークが自分に言い聞かせるように強く答えた。
「あの人ならきっと大丈夫です……! 今は信じて走るしかありません!」
逃げる道中、そこかしこに黒い灰の山があった。それは逃げ遅れたゴブリンたちのなれの果てだ。肉も骨も一瞬で焼き尽くされた凄惨な光景に、ショウは背筋が凍る。
(なんて威力だ……掠っただけで、僕たちもこうなる……!)
遠くでは、アルクが白い石柱を縦横無尽に飛び回り、目にも留まらぬ速さで斬撃を飛ばし続けている。ヘル・ゲートの巨躯を翻弄し、一歩も引かずに注意を引きつけていた。
(いける……このままなら、みんな助かる!)
そう確信した、その時だった。
隣を走っていた、あの冒険者のリーダーが不意に足を止めた。その目は激しい憎悪と、何かに取り憑かれたような狂気に染まっていた。
「……ここまで離れれば、大丈夫だよな。……あいつに、仲間を二人も殺されたんだ……」
「おい! 何をしているんだ! 止まるな!!」
ショウが異変に気づいて叫ぶが、リーダーは聞く耳を持たなかった。
「これは仲間の分だ……死ねええええ!!!」
彼が両手を前に突き出すと、魔力が暴発するように集束し、巨大な岩の塊が形成された。
「『ロックキャノン』!!!」
放たれた岩弾は、無防備なヘル・ゲートの背中に、まともに直撃した。
「 何をしているんだ!!!」
アルクの悲鳴に近い怒声が響く。
ドォォォォォン……!
衝撃音と共に、ヘル・ゲートの動きが止まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、その燃え盛る巨大な首が、アルクから「石を投げた者たち」の方へと回っていく。
「グォォォォォォォォォォォォン!!!!!」
その咆哮は、これまでのものとは格が違った。
標的が変わった。
アルクという「厄介な羽虫」ではなく、自分を背後から撃った「脆弱な人間たち」へ。
ヘル・ゲートの瞳に宿る炎が、一際激しく燃え上がった。
ヘル・ゲートの口元に収束した炎は、もはや「火炎」ではなく、すべてを貫く「破壊の光線」と化していた。
「『ウォーターウォール』!!!!!」
ショウが叫び、全魔力を込めて展開した水の壁。そこへ光線が激突した瞬間、この世のものとは思えない激しい蒸発音が轟いた。
「ぐっ……あああああ!!!」
重い。そして、熱い。杖を通じて伝わってくる圧力は、巨大な鉄塊で押し潰されるかのようだ。一瞬で魔法の水が沸騰し、霧散していく。ショウの視界が白く染まり、意識が遠のきかけたその時、温かくも底知れない魔力がショウの体に流れ込んだ。
「僕も力を貸すよ……。君の魔力は、そんなもんじゃないはずだ……!」
隣に立ったゼルクスの瞳が、一瞬だけ鋭く光る。二人の共同防衛によって、光線をなんとか食い止めるが、足元の石畳は熱でドロドロのマグマへと変わり始めていた。
アルクが叫びながら斬撃を叩き込むが、ヘル・ゲートは光線を出し続け、意に介さない。―その均衡を破ったのは、ミアだった。
「どいてえええ!!」
ミアが風のような速さで飛び出し、腰のダガーを抜き放つ。彼女が狙ったのは悪魔本体ではなく、その左右にそびえ立つ巨大な白い石柱だった。
「はぁっ!」
鋭い一閃が柱の根元を断ち切り、同時にアルクも意図を察して背後の柱を斬撃でなぎ倒す。
三方向から倒れ込んできた数トンの石柱が、ヘル・ゲートの巨躯に直撃した。
「グガッ……!?」
体勢を崩した悪魔の光線が、制御を失ってあらぬ方向を焼き払う。そして最悪なことに、その破壊の光は、すでに熱で脆くなっていた自分自身の足元の床を直撃した。
ズズズ……ドォォォォォン!!
地響きと共に、千柱廊の広大な床が崩落を始める。ヘル・ゲートはその巨躯ゆえに逃れる術もなく、真っ逆さまに暗い底へと落ちていった。
だが、代償はあまりに大きかった。
全魔力を使い果たしたショウが、膝から崩れ落ちる。
「ショウ君!!」
ゼルクスが咄嗟に駆け寄り、ショウの体を抱き起こそうとする。しかし、崩壊の連鎖は止まらない。ショウ、ゼルクス、そして震えて動けなくなっていた冒険者のリーダーの足元までもが、無残に崩れ去った。
「あ……」
浮遊感。
見上げると、崩落の縁に踏みとどまったアルク、ミア、ルーナたちが、絶叫しながらこちらへ手を伸ばしているのが見えた。だが、その手は遠い。あまりに遠い。
(……死んだな、これ……)
ショウの意識は、吸い込まれるような闇と、奈落の底から響く悪魔の咆哮の中に溶けていった。




