22話 故郷の匂い
小鳥のさえずりと、湿り気を帯びた草木の匂いで朝が来た。
原生林の朝は深い霧に包まれており、数メートル先も白く霞んでいる。
「ふぁ……。おはよう、ショウ、アルクさん。よく眠れた?」
テントから這い出してきたルーナが、寝ぼけ眼で二人を見て微笑む。続いて、ミアとルークも出発の準備を始めた。昨夜のアルクとの秘密の対話を知る者は、この場には二人しかいない。それがショウには少しだけ面映ゆく、同時に誇らしくもあった。
朝食を済ませ、各自が装備を整える。アルクが周囲の警戒を怠らず、ショウはルーナの淹れた温かいハーブティーで喉を潤した。やがて霧が少しずつ晴れ始め、出発の時が来る。
「よし、行こう。ここから先は足元にも気を付けてくれ」
アルクの言葉を合図に、一行は原生林の奥へと足を踏み入れた。
森の中は、まるで別世界だった。
見たこともない奇妙な植物が至る所に生い茂っている。巨大なシダの葉は人の背丈を超え、幹に奇妙な模様が浮かび上がる木々が、薄暗い陽光を遮っていた。地面には発光するキノコが点々と生え、不気味なほどの色彩を放つ花々が咲き乱れている。空気は湿気を帯び、土の匂いに混じって、どこか甘く、しかし危険な香りが漂っていた。
「わぁーっ!」
その時、一行の先頭を進んでいたミアが突然、悲鳴を上げた。
不意に伸びてきた一本の太いツルが、ミアの足首に絡みつき、そのまま彼女の身体を宙へと釣り上げたのだ。
「ミア!?」
ショウが驚いて声を上げる。
ミアが逆さまに吊るされた視線の先には、まるで巨大な赤い花のような口を開いた魔物がいた。花の中央には鋭い牙のようなものが無数に生え、爛々とした目でミアを見つめている。
マンイーターだ。
「このっ、エッチ!!」
ミアは逆さまになり、風にスカートがめくれて下着が丸見えになってしまったことに気づくと、真っ赤な顔で叫んだ。片手で慌ててスカートを押さえながら、もう片方の手で弓を引き絞る。
ヒュッ!
放たれた矢は、正確にマンイーターの牙の隙間、その柔らかそうな深紅の中心部を射抜いた。
「ギィイイイイイッ!!」
マンイーターは苦痛に身をよじり、ミアを解放する。ドサッと地面に落ちたミアは、すぐに体勢を立て直し、弓を構え直した。
だが、危機はそれだけではなかった。
マンイーターの断末魔の叫びに応じるように、周囲の奇妙な植物たちが次々とその正体を現し始めたのだ。木々の陰、巨大な葉の裏、地面から顔を出すようにして、同じ赤い牙を持つマンイーターが、ぞろぞろと這い寄ってくる。
「な、なんだこれ……そこら中から出てくるよ!?」
ルークが驚愕に声を震わせる。
ショウは咄嗟に、杖を構え、周囲の状況を把握しようとした。これは、想定外の遭遇戦だ。
突然の奇襲に一瞬ひるんだ一行だったが、アルクの鋭い声が森の空気を引き締めた。
「みんな落ち着いて! 囲まれているけど、こいつらは個体としては大して強くないよ。ツルの動きにだけ警戒しつつ、真ん中の赤い花……そこが核だ、そこを狙って!」
アルクが言うやいなや、腰の二振りの剣が閃いた。電光石火の速さで踏み込み、迫りくるマンイーターの核を一刀両断にする。
「よっとおぉ!」
ミアも着地の衝撃をものともせず、跳ね起きるなり流れるような動作で次々と矢を放つ。放たれた矢は、マンイーターの「口」の奥へ正確に吸い込まれ、魔物を次々と沈めていく。
「う、うわぁぁぁ! 来るな、来るなっ!」
ルークは半ばパニックになりながらも、必死に盾を突き出し、隙を見て片手剣を振り回す。不格好ながらも、必死の猛攻で這い寄るツルを叩き切っていた。
そして、ショウが杖『グラウンド・ウェッジ』を掲げる。
(今だ……王都を出る前に、特訓して覚えた新しい魔法を試す!)
ショウは精神を集中させ、大気中の魔力を鋭い「刃」の形へと練り上げた。
「風よ、切り裂け! ウィンドカッター!!」
ショウの叫びと共に、杖の先から不可視の風の刃が放射状に放たれた。それは、これまで使っていた魔法よりも遥かに鋭利で速い。
シュバババッ! という鋭い風切り音が響き、周囲でうごめいていたマンイーターたちが、悲鳴を上げる間もなく一斉に切り刻まれていく。
あたりに静寂が戻った。
切り落とされた赤い花びらとツルが地面に散らばり、マンイーターの群れは見事に殲滅されていた。
「……ふぅ。やった……新しい魔法、上手くいった!」
ショウは杖を握り直し、確かな手応えに顔をほころばせた。
「すごいじゃない、ショウ! 今の魔法、キレッキレだったわよ!」
ミアがスカートの汚れを払いながら、親指を立てて笑いかける。
「ああ、いい威力だった。魔力の制御も完璧だね」
アルクも剣を鞘に収めながら、ショウの成長を眩しそうに見つめた。
マンイーターとの戦いを終え、一行は再び原生林の奥へと歩みを進めた。
ショウが放った新魔法『ウィンドカッター』の威力が余韻として残る中、話題はこれから向かう目的地へと移る。
「もう少しで、関所がある山**『アイゼンヘイム』**に着くよ。あそこは山全体が温泉地のような場所でね。宿場も有名で、長旅の疲れを癒やすには最高の場所なんだ。……もっとも、今は少し状況が変わっているようだけどね」
アルクが前方を警戒しながら、どこか含みのある言い方で話を続けていると、突如として霧の向こうから鋭い悲鳴が響き渡った。
「助けてーーっ!!」
「女の子の声だ!」
ショウが叫ぶのと同時に、一行は声のする方へと全力で駆け出した。
開けた場所に飛び出すと、そこには腰を抜かして震える一人の少女と、彼女を今にも引き裂こうと前脚を振り上げた巨躯――マウンテンベアーがいた。
「危ない!!」
ショウが杖を構えるよりも早く、アルクが影のように動いた。
――ザシュッ!!
「グ……ッ……」
マウンテンベアーは咆哮を上げることすら許されず、その喉元と胸を正確に斬り裂かれ、地響きを立ててその場に崩れ落ちた。一撃。圧倒的なまでの実力差だった。
「……もう大丈夫だよ。怪我はないかい?」
アルクが剣を納め、優しく少女に手を差し伸べる。少女は足首をひねり、出血もしていた。
「あ、ありがとう……ございます……」
ショウの合図でルーナが駆け寄る。
「動かないでね。……『ヒーリング』」
傷は瞬く間に消えていった。
「私は、アイゼンヘイムの関所に住むユウナ。……本当に、助かりました」
立ち上がったユウナに、アルクが真剣な表情で問いかけた。
「ユウナ。こんな危険な魔物が出る場所で、一人で何をしていたんだい?」
ユウナは顔を伏せ、震える声で話し始めた。
「……古代ドワーフの鉱山都市**『グリム・ハイン』**で、古代の魔物が目を覚ましたんです。その魔物が、アイゼンヘイムを越えようとする人たちを襲っていて……。みんな、恐ろしい火傷を負って運ばれてくるんです」
ショウたちは息を呑んだ。
「運ばれてくる人たちの火傷を治すために、このあたりに自生している薬草を取りに来ていたんです。普通の薬じゃ効かないから……」
「……やはり、噂は本当だったのか」
アルクの視線の先には、温泉の蒸気ではない、不気味な黒煙を薄く吐き出すアイゼンヘイムの山がそびえ立っていた。
「ここが本道よ。本来なら、手前の橋が崩れていなければここを通るはずだったの。ここまで来れば、もうすぐそこよ」
ユウナが指さす先、道なりに進んでいくと、やがて視界が開け、岩肌に張り付くように作られたアイゼンヘイムの関所の村が姿を現した。
村のいたる所にある岩の隙間から、真っ白な湯煙が空へと立ち上っている。それと同時に、独特な硫黄の香りが風に乗って鼻をくすぐった。
(……あ、なんだか懐かしいな。この匂い、日本の温泉街の匂いだ!)
前世の記憶がふと蘇り、ショウの胸に温かな郷愁が広がる。異世界に来てから、これほど「故郷」を近くに感じたのは初めてだった。
ショウがクンクンと鼻を鳴らしていると、ユウナが振り返って微笑んだ。
「助けてくれたお礼に、私の知人がやっている宿屋に話を通しておくわね。今夜はそこに泊まって。ここの温泉はとっても気持ちいいって評判だから、期待していてくださいね!」
その言葉に、女性陣の目がパッと輝いた。
「温泉!? 嬉しい、ずっと歩き通しで汗もかいてたし!」
「ミア、はしゃぎすぎよ。……でも、楽しみね、ショウ」
ルーナも少し頬を赤らめて嬉しそうに微笑む。
長旅の緊張が少しだけ解け、一行はユウナの後に続いて、湯煙たなびく石畳の村へと足を踏み入れた。
アルクが足を止め、真剣な面持ちでショウたちに向き直った。
「僕は一度、関所の衛兵たちのところへ行ってくる。アイゼンヘイムの山道とグリム・ハインが今どうなっているのか、詳しく情報を集めておきたいんだ。……例の『ヘル・ゲート』の件もあるしね。少ししたら、ユウナさんが教えてくれた宿屋で合流しよう」
「了解です。無理はしないでくださいね、アルクさん」
ショウが答えると、アルクは短く頷き、鋭い足取りで衛兵の詰所がある方へと向かっていった。
「よしっ! じゃあルーナちゃん、私たちはあっちへ行ってみましょ! せっかくの温泉街なんだから、まずは何か美味しいものを食べて、それから温泉よ!」
「あ、ちょっと待ってよミア……! ショウ、また後でね!」
ミアに腕を引かれ、ルーナは困ったように、でも少し楽しそうに笑いながら人混みの中へ消えていった。
残されたのは、ショウと少し緊張した様子のルークの二人だ。
「……さて、ルーク君。僕たちは村の中を見て回ろうか」
「う、うん。そうだね、ショウ君。……なんだかここ、温泉の匂いはいいけど、雰囲気が少し重苦しい気がするよ」
二人が村の目抜き通りを歩き出す




