2話 王都へ
「……さて、どうしたもんか」
ショウは、祠の前に広がる大草原を前に独りごちた。
祠から出て数分。見渡す限り、ビル一棟、電柱一本すら見当たらない。あるのは風に揺れる草の海と、どこまでも続く青い空だけだ。
「ここは日本じゃない。……というか、俺の知っている場所じゃないことは確かだ」
彼は一歩、また一歩と歩き出した。
「……軽いな。なんだか、体が自分のものじゃないみたいだ」
若返った肉体のせいか、以前よりも足取りが驚くほど軽い。しかし、その「軽さ」に脳が追いついていない感覚があった。段差を乗り越えるだけで、思ったよりも高く跳んでしまい、着地で少しよろける。
「若返ったおかげで体力が戻ってるんだろうけど……。これ、慣れるまで時間がかかりそうだな」
一時間ほど歩いた頃だろうか。風に乗って、ギャアギャアという下品な叫び声と、必死な……しかし、聞いたこともない「音」が聞こえてきた。
「……! 誰かいるのか?」
小高い丘に駆け上がったショウの目に飛び込んできたのは、無残な光景だった。
街道で立ち往生している一台の馬車。それを囲んでいるのは、緑色の肌をした、子供のような体格の醜い怪物――ゴブリンたちだった。
馬車の脇では、小太りで身なりの良い老人が地面を這いずり、必死に何かを叫んでいる。
「#$%&*!! +=?!!」
(……何を言ってるんだ? 外国語か?)
何を叫んでいるのかは分からない。だが、その声に混じった「恐怖」と「絶望」だけは痛いほど伝わってきた。
その悲鳴を聞いた瞬間、ショウの体は勝手に動いていた。
「おい! やめろ!」
ショウは丘を駆け下りた。だが、全力で走ろうとすると足が地面を強く蹴りすぎてしまい、前のめりに転びそうになる。
「うわっと……! 加減が難しいな……!」
なんとか老人の前に割り込むが、三体のゴブリンが同時に襲いかかってきた。
「こ、この……っ!」
ショウはがむしゃらに腕を振り回した。今の彼には技術はないが、驚異的なスタミナと、無意識に発揮される「普通より少し強い力」があった。
一発のパンチがゴブリンの胸元に当たると、ゴブリンは「ギャッ」と短い悲鳴を上げて数メートル後方へ転がった。
泥臭く、しかし必死な抵抗。
ショウが必死に振り回した腕がもう一体を突き飛ばしたところで、ゴブリンたちは「この人間、なんだかおかしい」と本能で察したのか、不気味な鳴き声を残して森の奥へと逃げ去っていった。
…………ふぅ。……死ぬかと思った……」
肩で息をしながら、膝をつくショウ。
そんな彼の足元に、老人が震えながら縋り付いてきた。
「○△×□! *&%#@!!」
老人が涙を流しながら、ショウに向かって何度も何かを叫んでいる。ショウは困惑し、眉を下げた。
「すいません……何て言ってるのか、全然分からないんです。俺、日本人で……」
そう言いかけた時だった。
頭の奥で、カチリ、とパズルのピースがはまるような音がした。
ショウの意識に、祠で目覚めたときのような不思議な温かさが広がる。老人の発する「ノイズ」のような音が、急に意味を持って脳に染み込んできた。
「……あり……がとう。……ありがとうございます! 命の恩人よ! あなた様はいったい……!?」
「え……?」
さっきまで雑音にしか聞こえなかった言葉が、日本語として……いや、自分がその「異国の言葉」を理解している感覚で、はっきりと聞き取れた。
「あ、いや……。通りすがりの、ただの……人間です。……それより、怪我はないですか?」
ショウが息を切らしながら、無意識に口をついて出たのは、自分でも驚くほど滑らかな「異世界の言語」だった。
「怪我などございません! 私はバルト。しがない商人です。……おお、なんという勇気あるお方だ。武器も持たずに、あんな怪物たちを追い払うとは……」
「バルトさん……。実は、俺と一緒にいたはずの仲間を探しているんです。一人はサクラ、もう一人はレンっていう名前なんですけど……どこか、この辺りで人がたくさん集まる大きな街を知りませんか?」
ショウの切実な瞳を見て、バルトは少し考え込んだ後、力強く頷いた。
「サクラにレン、ですな。……残念ながらこの近くでその名を聞いたことはありませんが、ここから馬車で少し先の場所に、この地方で最も大きな王都があります。そこなら商人も旅人も集まる。お仲間を探すなら、そこが一番の近道でしょう」
「王都……。そこに行けば、二人に会えるかもしれないんですね」
「ええ、可能性は高いでしょう! 命の恩人をこんな道端に置いていくわけにはいきません。私もその街に住んでおります。よろしければ、私の馬車で王都まで同行しませんか?」
ショウは藁にもすがる思いで、「お願いします!」と頭を下げた。
揺れる馬車の中、バルトはショウの身の上を興味深そうに尋ねてきたが、ショウは適当な理由をつけて言葉を濁した。代わりにバルトが語り始めたのは、自慢の商売の話だった。
「いやあ、ショウ殿。先ほどは本当に助かりました。こう見えて私は、王都で不動産業を営んでおりましてな。街にある建物のかなりの数を私が所有しているのですよ」
バルトは快活に笑いながら、窓の外を指さした。
「命を救っていただいたお礼をしたいと考えていたのですが、ショウ殿はあいにく住む場所も決まっていないご様子。……どうです、もしよろしければ、私が持っている建物の中から一つ、自由に使っていただいても構いませんぞ?」
「えっ……一つ丸ごとですか? それはさすがに申し訳ないです」
「はっはっは! 恩人に野宿をさせる方が、私の名が廃ります。それに、王都で仲間を探すにしても、拠点は必要でしょう? 古い物件ではありますが、家賃も何も要りません。自由に使ってください」
話がまとまり、ショウは少しだけ胸を撫で下ろした。
だが、馬車の座席に座っている間も、彼は自分の「新しい体」が発する違和感に戸惑っていた。
(……さっきゴブリンと戦った時、まともに攻撃を食らったはずなのに、痣一つできてない。それに、このローブ……)
慣れない体と、前世では考えられなかった「不動産王からの物件提供」という幸運。
ショウは、自分がこれから足を踏み入れる王都が、ただの「探し場所」以上の意味を持つことになるとは、まだ予想もしていなかった。
王都……なんて名前の街なんですか?」
馬車の窓から流れる景色を眺めながら、ショウが尋ねる。バルトは誇らしげに胸を張り、その名を口にした。
「王都『ルミナス』。この国で最も美しく、光に満ちた街ですよ。あそこなら、ショウ殿のお仲間も見つかるに違いありません」
「ルミナス……。いい名前ですね」
ショウはその響きを口の中で転がしてみた。
馬車が街道を進むにつれ、遠くに巨大な城壁と、陽光を反射して輝く尖塔が見えてきた。
「さて、ショウ殿。先ほどお話しした建物の件ですが……。実は、街の北側にある少し古い屋敷でしてな。広い庭があるのですが、手入れが行き届いておらず、今は誰も住んでいないのです。ショウ殿が自由に使って、お仲間を待つ拠点にされるといい」
馬車が王都「ルミナス」の巨大な正門をくぐった瞬間、ショウは言葉を失った。
空気を震わせる鐘の音、石畳を叩く馬蹄の響き、そして何より、空を見上げれば巨大な鳥のような生き物が当たり前のように旋回している。
(……ああ、本当に。本当にここは、俺のいた世界じゃないんだ)
これまでは頭の中を整理することに必死だったが、街の活気と未知の光景を目の当たりにし、ようやく「異世界転生」という事実が現実味を帯びてショウの胸に迫ってきた。
「ショウ殿、顔色が優れませんな。今日はもう日が暮れます。屋敷の案内は明日にして、今夜は私の家に泊まってください」
バルトの厚意に甘え、ショウは彼の豪邸へと招かれた。
バルトの豪華な邸宅に到着すると、大きな扉が勢いよく開いた。
「あら、あなた! お帰りなさい……って、あら?」
出迎えたのは、ふくよかな体型に明るい笑顔を浮かべた女性――バルトの妻、マーサだった。彼女は夫の隣に立つ見知らぬ青年、ショウをまじまじと見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「あなた、その方はどなた? お客さん……にしては、ずいぶんと変わった格好をしてるけど」
「ああ、マーサ! 驚くなよ、このお方は私の命の恩人、ショウ殿だ! 街道でゴブリンに襲われていたところを、武器も持たずに助けてくださったのだよ!」
バルトが鼻高々に説明すると、マーサは「まあ!」と声を上げ、ショウに歩み寄った。彼女はショウの逞しい腕を遠慮なくさすり、その若々しい顔立ちを覗き込む。
「ゴブリンを素手で? まあ、なんて爽やかな男前なのかしら! 私はマーサ。この食い道楽のバルトの胃袋を握ってる女よ。さあショウさん、立ち話も何だし、中へ入って。今すぐ温かい料理を用意するからね!」
ダイニングに並んだのは、ショウが見たこともない料理の数々だった。
「美味しい……。こんな料理、食べたことないです」
「おかわりはいくらでもあるわよ! 命の恩人さんを空腹で帰すなんて、ルミナスの女の名が廃るわ!」
マーサの豪快な笑いと、バルトとの仲睦まじいやり取り。異世界の家庭料理の温かさに、ショウの強張っていた心は少しずつ解けていった。
食後、マーサに「旅の汚れを落としてきなさい」と促され、ショウは浴室へ向かった。
「……ふぅ。いい湯だ」
木製の広い浴槽に浸かり、ショウは手足を伸ばした。
若返った自分の体。程よく引き締まった腹筋、そして湯船の中で存在感を放つ「大物」となった下半身。
(……これから、本当にやっていけるのかな。サクラ、レン……どこにいるんだ……)
不安を洗い流すように顔を洗っていた、その時だった。
カチャリ、と脱衣所の扉が開く音がした。
「お父様ー、石鹸の補充、忘れ――」
「え?」
「……え?」
湯煙の向こうに立っていたのは、バルトではなく、一人の少女だった。
艶やかな金髪をアップにまとめ、バスタオル一枚を体に巻き付けた姿。大きな瞳が、ショウと……そして、湯船からわずかに露出していた彼のたくましい上半身(と、水面下に潜む気配)を捉えた。
彼女はバルトの娘、ルーナだった。
数秒の沈黙。ショウはあまりの衝撃に固まり、ルーナは顔を真っ赤にして口をパクパクさせた後――。
「…………っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、脱衣所へと飛び出していった。
「違うんだ! バルトさんに借りてて……!」
ショウの声は、虚しく浴室の壁に反響した。
真っ赤になって飛び出していったルーナを見送り、ショウは激しい鼓動を抑えながら脱衣所へ戻った。するとそこには、いつの間にかマーサが立っていた。
「あら、ルーナったら。ショウさん、ごめんなさいね。あの子、お父様だと思って油断してたみたいで。……でも、ショウさんがあんまりいい体してるから、あの子、顔を真っ赤にして逃げていったわよ?」
マーサは茶目っ気たっぷりにウインクして去っていった。ショウは顔を熱くしながら、急いで服を着るしかなかった。
自室で一息ついていると、ノックの音がした。現れたのは、着替えて少し落ち着きを取り戻したルーナだった。
「……ショウ様。先ほどは、本当に……すみませんでした。お父様から事情は伺いました。命の恩人の方に、あのような……」
ルーナは少し俯きながらも、夜の静寂の中でショウの瞳をじっと見つめた。
「お詫びと言ってはなんですが、明日、お父様が貸し出すという屋敷まで、私が案内させてください。お仲間を探すなら、街の地理を知っている私がお供した方が絶対にいいですから」
「ありがとう、ルーナさん。よろしくお願いします」
ショウの誠実な返事に、ルーナは頬を緩めた。
「では明日よろしくお願いします!」
「おやすみなさい」
張り切った顔をするルーナを見送りながら、ショウは異世界での第一歩を強く実感していた。




