15 謁見
昨夜の熱気が嘘のように、王都の朝は静まり返っていた。
宿屋「サクラソウ」の食堂に差し込む柔らかな光が、テーブルを囲む面々の顔を照らしている。
だが、今朝の空気はどこかおかしい。
「……おはよう、ショウ」
カイトが力なく手を上げ、朝食の席に着く。目の下には深い隈があり、昨夜の深酒と「激戦」を物語っていた。彼は気まずそうに視線を泳がせると、黙々と硬いパンを噛みしめ始めた。
その隣では、セシリアがいつになく静かに座っている。
いつもなら「おはようございます、ショウ様」とはつらつと挨拶してくれる彼女だが、今朝はショウと目が合った瞬間に、白磁のような頬をさっと朱に染め、俯いてしまった。
ショウは昨夜、壁の向こうから漏れ聞こえてきたセシリアの甘い声を思い出し、喉が詰まるような感覚に陥った。セシリアはセシリアで、昨夜の情事の余韻か、それとも聞かれていたかもしれないという羞恥からか、指先でスカートの裾をいじりながら、伏せたまつ毛を小刻みに震わせている。
アリナだけが「ねえショウ、今日のスープ、ちょっと味薄くない?」と無邪気にスプーンを動かしているが、ショウは生きた心地がしなかった。
その時である。
平和な、いや、気まずい静寂を切り裂くように、表の扉が凄まじい音を立てて叩かれた。
「おい! ギルファーを捕らえた英雄はここか!」
地響きのような声。
ショウが驚いて席を立つより早く、扉が勢いよく開き、朝日を背負った巨大な影が食堂になだれ込んできた。
岩のように盛り上がった筋肉を鎧で包み、背中には人の胴体ほどもある巨大な鉄の塊――戦鎚を背負った男。
「ガッハッハ! 貴公がショウだな! 私は王都騎士団第一部隊長、ドラム・ストロングウォールだ!」
男の豪快な笑い声に、食堂の食器がチリチリと鳴る。
ドラムと名乗った騎士は、困惑するショウの肩を丸太のような腕で叩いた。
「王がお呼びだ! 貴公の功績、しかと陛下のお耳に届いているぞ。さあ、支度をしろ。城まで案内する!」
「えっ、あ、お城……?」
あまりに急な展開に、ショウはたじろいだ。昨日までしがない宿屋の主人だった自分が、いきなり王に呼ばれるなど想像もしていなかった。
「ちょっと待ってください。俺はただの下宿屋のオーナーで、それに今日は仕事が……」
ショウが戸惑いながら断ろうとすると、台所の方からルーナがひょっこりと顔を出した。
「仕事なら私が、ショウ様。安心してお城へ行ってきてください」
ルーナの頼もしい言葉に、隣にいたセシリアも、まだ少し頬を赤らめて伏し目がちながらも、小さく頷いて言葉を重ねる。
「……ええ。私も、ルーナさんと一緒にお手伝いします。昨夜は……いえ、昨日はショウ様にとても助けられましたから。これくらい、なんてことはありませんわ」
「……あ、ああ。二人とも、ありがとう……」
ショウがようやくそう答えると、朝食の席で黙々とパンを齧っていたカイトが、顔を上げずにぼそりと呟いた。
「いい機会じゃないか、ショウ。……騎士団の旦那もわざわざ迎えに来てくれたんだ。行ってきなよ」
カイトの言葉を受け、ドラムはガハハと豪快に笑いながら、丸太のような腕でショウを促した。
「聞いたか! 客人もそう言っているぞ。陛下はお待ちだ、さあ来い!」
ドラムに促され、馬車へ向かおうとしたショウだったが、ふと立ち止まって振り返った。
「……あの、ドラムさん。ギルファーを捕まえられたのは俺一人の力じゃないんです。カイトさんやセシリアさん、それにアリナが協力してくれたからで……。みんなも一緒じゃなきゃ、俺だけ褒美をもらうなんて」
ショウの言葉に、ドラムは「ほう、そうなのか!」と目を丸くした。だが、誘われたカイトとセシリアは、示し合わせたように顔を見合わせ、困ったような苦笑いを浮かべた。
「いや……私は遠慮しておくよ。ああいう堅苦しい場所は、どうも肌に合わなくてね」
カイトはあいまいに手を振って断り、セシリアもまた、どこか寂しげな、しかし断固とした表情で首を横に振った。
「私も……あまり表に出るような身分ではありませんから。お気持ちだけで十分ですわ、ショウ様」
二人のどこか影のある断り方にショウが戸惑っていると、カイトがすっと近づき、ドラムに聞こえないほどの小声で耳打ちした。
「……ショウ。悪いが、俺たちのことは城では内緒にしておいてくれないか。特に名前は出さないでほしい。色々と、事情があってね」
「事情……? あ、はい。分かりました」
ショウが小声で返すと、カイトは少しだけ安心したように、いつもの飄々とした笑みに戻った。
残されたアリナは、自分一人だけが行くことになると察して、露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
「えーっ!? 私もお城なんて行きたくないよ! 堅苦しいし、怖い人いっぱいいるんでしょ?」
「お願いだよ、アリナ。俺一人じゃ何をしていいか分からないし……頼む!」
ショウが手を合わせて必死に頼み込むと、アリナは「もー、しょうがないなあ」と頬を膨らませつつも、ようやく重い腰を上げた。
「……ガッハッハ! 賑やかな英雄一行だな! よし、ではショウ殿とアリナ殿。参るとしよう!」
二人が馬車に乗り込むと、蹄の音と共にサクラソウが遠ざかっていく。窓から身を乗り出すようにして振り返ると、入り口でルーナとセシリアが並んで手を振っていた。その後ろで、カイトは腕を組み、馬車が角を曲がるまでその場を動かずに見送っていた。
馬車の窓から外を眺めていたショウは、思わず息を呑んだ。
王都の喧騒を抜け、ゆるやかな坂を登り始めた馬車の先に、空を切り裂くような巨大な**「白亜の外壁」**が姿を現したからだ。
「……あれが、全部お城の壁なのか?」
「ああ、そうだ。あれはルミナス王国の誇り、不落の外周壁だ」
ドラムが自慢げに鼻を鳴らす。
近づくにつれ、その壁の高さに圧倒される。下宿屋の屋根が豆粒に見えるほどの高さがあり、その上には一定間隔で弓を携えた衛兵たちが配置され、眼下の街道を厳しく監視していた。
やがて、一つ目の巨大な鉄格子の門が、重々しい金属音を立ててゆっくりと上がっていく。
門を潜るたびに、周囲の景色は一変した。道はさらに広く、磨き抜かれた石畳になり、左右には美しく整えられた庭園が広がる。だが、その庭園を歩いているのは、散策を楽しむ貴族ではなく、抜身の槍を抱えて行進する完全武装の兵士たちだった。
「ねえショウ、あっちにも門があるよ! さっきのより大きい!」
アリナが指差す先には、さらに一際巨大な**「内門」**がそびえ立っていた。白大理石に金色の装飾が施されたその門は、陽光を反射して神々しく輝いている。
馬車がその内門を潜り抜けた瞬間、ショウたちの視界にルミナス王城の本城がその全貌を現した。
幾本もの尖塔が空に突き刺さり、幾重にも重なる回廊が複雑な陰影を作り出している。まるでもう一つ別の街がそこに鎮座しているかのような巨大さだった。
「……着いたぞ。陛下がおわす本丸だ」
ドラムの言葉とともに馬車が静かに止まる。
扉が開かれると、そこには見上げるような大階段が続き、その両脇には一糸乱れぬ動きで敬礼する衛兵の隊列が並んでいた。
馬車を下車したショウとアリナがまず圧倒されたのは、空を突くほど高い天井から吊るされた、数千の水晶が輝くシャンデリアだった。
「うわぁ……すごい。ショウ、見てよ! 床が鏡みたいにピカピカだよ!」
アリナが声を弾ませ、自分の足元を覗き込む。ショウもまた、下宿屋の古びた木の床とは比べものにならない、白大理石の冷たくも滑らかな質感に圧倒されていた。壁に飾られた巨大な絵画や、金細工の施された柱。その一つ一つが、自分たちが住む世界とはかけ離れた「王の住処」であることを物語っている。
「本当だな……。下宿屋の柱、一本分でこの城の絨毯すら買えないかもしれないぞ」
二人がお上りさんのようにキョロキョロと周囲を見渡しながら、ドラムの後に続いて長い回廊を歩いていた、その時だった。
「――それで、被害は?」
「全滅だ。生き残ったのは納屋に隠れていた子供が一人だけ……。奴ら、以前とは動きが違う」
すれ違う衛兵たちが、こちらを見向きもせずに早足で通り過ぎていく。その会話が、風に乗るようにさりげなくショウの耳を掠めた。
(……全滅? 何の話だ?)
一瞬だけ足が止まりそうになるが、すぐにまた別の兵士が反対側からやってくる。
「東門の警備を倍に増やせ。例の『組織化されたゴブリン』の群れが、いつこの街道に現れてもおかしくない」
彼らの顔は一様に険しく、華やかで豪華な廊下の装飾とは正反対の、どす黒い緊張感に満ちていた。アリナはまだ「あ、あっちの鎧、金ピカだよ!」とはしゃいでいるが、ショウは豪華な空間の隅々に、拭いきれない焦燥感が染み付いているのを感じ取っていた。
やがて、重厚な扉の前に一人の騎士が立っているのが見えた。
長い銀髪を一つに束ね、氷のように冷たい瞳を持つ男。彼が纏う空気は、さっきの衛兵たちの焦燥感とはまた違う、静かで鋭い威圧感に満ちていた。
「……遅かったな、ドラム。その男か、ギルファーを捕らえたというのは」
低く、温度のない声。
ドラムが「ああ、下宿屋を営んでいるショウ殿だ。ショウ、こちらは特務班のシオンだ」と紹介するが、シオンは興味なさげに視線を逸らした。
ドラムが彼を紹介するが、シオンはショウをゴミでも見るような目で一瞥し、鼻で笑った。
「ふん、手足は細く、魔力の練り方もなっていない。……昨日の件は、単なる幸運か。このような時に、陛下が何を期待して呼び出されたのか理解に苦しむな」
ショウはカチンときた。
(……なんだ、この人は。いきなり人のことを見下して、なんて嫌な感じなんだ)
言い返そうとしたが、シオンが纏う鋭い威圧感に気圧され、言葉が喉に詰まる。隣のアリナも、シオンの冷たさに怯えてショウの影に隠れてしまった。
「おい、シオン! 失礼だぞ!」
ドラムの叱責もどこ吹く風、シオンは無造作に扉を開け放った。
「……通れ。陛下がお待ちだ」
不愉快な沈黙を抱えたまま、ショウたちは謁見の間へと進む。
黄金の光が降り注ぐその部屋の奥、一段高い玉座に座っていたのは、腰まで届く長い白髭を蓄えた1人の老人だった。




