1話 不気味な笑み
本年度、我が社で最も輝かしい成績を収めた者に贈られる『年間最優秀新人賞』は……営業一課、阿部蓮くん!」
割れんばかりの拍手が、高層ビルのオフィスを震わせた。
壇上でスポットライトを浴び、自信に満ちた笑みを浮かべるのは蓮だ。大学の入学式からの腐れ縁であり、誰もが認める同期のスター。
壁際で静かに手を叩きながら、翔は眩しそうに目を細めた。
蓮とは、地方から上京した大学時代からの付き合いだ。当時から彼は、何でも器用にこなす「選ばれた人間」だった。翔はそんな蓮の影で、いつも彼のフォローに回る「便利な引き立て役」に甘んじてきた。
だが、そんな翔がこの窮屈なオフィスで、たった一つだけ心待ちにしている瞬間があった。
「……翔くん。また自分の手柄、蓮くんに譲っちゃったでしょ」
耳元で、甘く、少し呆れたような声が響く。
振り返ると、そこには桜が立っていた。
社内のマドンナであり、男性陣の憧れの的である彼女もまた、大学からの付き合いだ。
大学1年の新歓コンパ。隅っこで緊張していた翔に「隣、いいかな?」と声をかけてくれたのが桜だった。翔はあの瞬間から、ずっと彼女に惹かれている。
「譲ったなんて人聞き悪いよ。……蓮は、大学の時から俺たちのスターだっただろ?」
「もう、お人好しなんだから。大学の試験前だって、あなたが教えなきゃ蓮くんは単位落としてたんだよ? 私は……ちゃんと見てるんだからね」
桜が少し寂しげに笑う。翔にとって、蓮への劣等感を唯一忘れさせてくれるのが、自分だけを真っ直ぐに見てくれる桜の存在だった。
仕事が終わると、3人はいつもの駅前の居酒屋へ向かい、蓮のお祝いをした。
「乾杯! 翔、桜、お前らも俺についてこいよ。来年はもっとデカい案件、俺が取ってきてやるからさ!」
蓮は上機嫌でビールを煽る。大学時代、サークルの中心にいたあの頃と何も変わらない傲慢な輝き。翔は「頼りにしてるよ」と笑い、お通しの枝豆を剥く。
「翔くん、これ。美味しいよ」
隣に座る桜が、囁くように言いながら身を寄せてくる。ふわりと漂うシャンプーの香りと、ほんのり甘いアルコールの匂い。
彼女の細い指が、翔の太もものあたりでそっと動いた。
「っ……桜?」
「飲み..過ぎじゃないか?」
翔が戸惑う間もなく、桜の足がテーブルの下で翔の脚にぴたりと密着した。タイトなスカート越しでも伝わる、肉感的で柔らかな太ももの弾力。彼女は蓮が自分の話に夢中になっている隙に、じわじわと体重を預けてくる。
翔が顔を赤らめて隣を見ると、桜の瞳は潤み、熱っぽい視線を翔だけに送っていた。
彼女は翔のジャケットの裾をぐっと掴み、そのまま彼の手を、自分のスカートの際へと引き寄せた。指先に触れる、ストッキング越しの中身の詰まった肉の柔らかさ。
「……ねぇ、翔くん。来年は、二人でどっか行かない?」
桜が耳元で囁くたびに、豊かな胸の膨らみが翔の二の腕を圧迫した。
「大学の時、ずっと二人で行こうって言ってたテーマパーク。あの、パークに隣接してる豪華なホテル、来年のGWに予約、取っちゃおうか? ね、翔くん?」
上気した頬。少しだけ開いた唇からは、熱い吐息が漏れる。
翔は、そのテーマパークの豪華なホテルが、カップル向けの特別なスイートで有名なことを知っていた。そして、そこで二人きりになったら何が起こるか、想像してしまっていた。
(あの、桜と、二人きりで……。ホテルに、泊まって……)
テーブルの下で、桜の手が翔のジャケットの裾をぎゅっと掴んだ。
上気した頬。熱を帯びた視線。5年越しの想いが結ばれかけた、その時だった。
「お、おい……なんだあのトラック!?」
蓮の叫び声が、甘い熱気を一瞬で凍りつかせた。
翔が窓の外を見た瞬間、夜の闇を切り裂くように暴走する、巨大なトラックの影が目に飛び込んできた。
(え……?)
逃げる時間はなかった。
ただ、翔の体は思考より先に動いた。今、自分の腕の中で熱を持っていた、たった一人の女性――桜を全力で抱き寄せ、自分の体で覆い隠す。
粉砕されるガラス。死の咆哮。
そして衝突の直前、翔は運転席に座る**「謎の男」**と目が合った。
男はハンドルを握らず、不気味な紫色の魔法陣のようなのを浮かべてニヤリと笑っていた。
耳の奥で鳴り止まなかった、あの忌まわしいトラックの轟音がふっと消えた。
深い闇の底から、意識の泡がゆっくりと浮上してくる。
「……っ……」
肺に飛び込んできたのは、湿り気を帯びた古い石と苔の匂い。
翔がゆっくりと目を開けると、視界に映ったのは居酒屋の天井ではなく、ごつごつとした岩肌が剥き出しになった、ドーム状の天井だった。
「……生きて、るのか?」
背中に伝わるのは、硬く冷たい石の感触。
体を起こそうとして、翔は強烈な違和感に気づいた。肌に触れる衣服の感覚が、まったくないのだ。
「……え?」
慌てて自分の体を見下ろす。
着ていたはずのスーツも、ネクタイも、下着すらもない。自分は今、石造りの祭壇のような台の上で、一物も纏わぬ完全な全裸で横たわっていた。
「な、なんだこれ!? 服はどこに行ったんだ……?」
焦って辺りを見回すが、桜も蓮も、あの暴走トラックの影すらない。
そこは、何千年も忘れ去られていたかのような、静まり返った古代の祠だった。
祭壇から降りようと足を下ろしたとき、翔は自分の足取りが驚くほど軽いことに驚いた。
祠の隅、岩肌から染み出した水が溜まっている天然の水鏡を見つけ、彼は恐る恐る顔を寄せた。
「……誰だ、これ。俺……なのか?」
そこに映っていたのは、平凡な会社員だった前世の自分ではなく、20歳前後の爽やかな青年だった。
• 髪色: 柔らかい日差しを含んだような、少し明るい栗色。
• 目の色: 晴れ渡った空のように透き通った、薄いブルー。
• 肉体: 170cm台後半。細すぎず太すぎず、程よく引き締まった健康そうな体つき。
「若返ってるだけじゃない……。ずいぶん印象が変わったな」
自分の腕をさすってみる。無駄な脂肪が落ち、野性味のある健康的な肌艶。
しかし、視線をさらに下へ落とした瞬間、翔は顔面を真っ赤に染めて固まった。
「…………嘘だろ。こっちまで、こんなに『元気』になってんのか……?」
全裸であるからこそ、その規格外の存在感が露わになっていた。
前世では「まあ、平均的な方かな」と自分を納得させていたその部分は、今や全盛期のエネルギーを漲らせ、以前とは比較にならないほどの「大物」へと進化を遂げていた。
「やばい……とにかく、何か着るものを探さないと。もしこのまま誰かに、ましてや桜にでも会ったりしたら、再会した瞬間に変質者扱いされるどころか、一発で通報だぞ……っ!」
必死の思いで周囲を。すると、祭壇の脇に丁寧に畳まれた一着の衣類があるのを見つけた。それは深い紺色をした、丈夫そうな生地のローブだった。翔はひったくるようにそれを掴むと、藁にもすがる思いで一気に身を纏った。
その時なにかが、ローブからポロッと落ちたような気がしたが、気にもしなかった。
ふぅ……。ひとまず、これで最悪の事態は免れたか……」
少しだけ落ち着きを取り戻し、外への唯一の出口である巨大な石扉へ向かう。
身長を悠に超える重厚な扉。翔はその表面に両手をかけ、ぐっと力を込めた。
「ぐっ……ぬ、ぬうぅっ……!」
重い。まるで壁そのものを動かしているような抵抗感だ。
顔を真っ赤にし、血管を浮かび上がらせ、全力で扉を押し込む。
「はぁ、はぁっ……開け、っ……ご、あああああ!」
バキッ、という低い音が響き、扉がようやく数センチ動いた。
その瞬間、翔の体から謎の力が漏れ出した。
次の瞬間、石扉は「ガガガガッ!」と激しい音を立てて横に滑り、外からの眩い陽光が祠の中へと雪崩れ込んできた。
「はぁ、はぁ……なんだよ、めちゃくちゃ重いじゃないか……」
翔は肩で息をしながら、眩しさに目を細めて一歩外へ踏み出した。
だが、そこで目にした光景に彼は硬直した。
そこには見たこともない大草原が広がっており、空には巨大な翼を持つ生物が悠々と舞っていた。
「……おいおい、マジかよ。まさかここ、日本じゃないのか……? っていうか、ここはどこだ?」
翔は自分の身に起きた「若返り」や「全裸」という異常事態を整理しようとしながらも、眼前に広がる圧倒的な未知の光景を前に、まだそれが「異世界転生」であるという現実を認めきれずに立ち尽くしていた。




