10話 憤怒(レイジ)
「はぁっ……13ッ!」
数えると共に、鼠の頭から剣を引き抜く。
最初の一匹が現れてから、続けて何匹もの大鼠が休みなく現れている。辺りは返り血で赤く染まり、手にこびり付いた血液が黒く固まって、とても気持ちのいいものではなかった。
息は上がり、上ずった呼吸音が冷たい通路に吸い込まれていく。身体はまるで焼けた鉄のように熱かった。
ぼやける視界で通路の薄暗闇を見てみると、まだ揺らいでいるいくつかの眼光が見えていた。まだ攻撃の手は止みそうにない。
…周りの死体を見てみろ、もう何匹仲間が死んだんだ。これ以上は無意味だ、諦めてくれ…。
心中を吐露する相手もなく、孤独な戦いは終わりが見えない。
心が折れかけている。指先は疲労で震えて、剣さえ取り落としてしまいそうだ。だがそれをグッと堪えて、柄を握りしめる。
まだ、折れていない。折れる訳にはいかない。
まだ戦える、まだ生き残れる。
根拠のない自信を自分の中に刻んで、鼓舞する。
なぁに、あの時と比べてみれば、なんて事はない相手だ。あの時の絶望を思い出せ、振り絞れ!
「…来るなら…来いッ!!!」
通路内に声が反響する。広がった音の波紋は群れにぶつかり、刺激を与えた。
何匹かの鼠は、怯えて逃げ去った。何匹かの鼠は、萎縮して動けずにいた。何匹かの鼠は──
──一斉に獲物へ襲いかかった!
「うぉおおおォォッ!!」
退くべき、下がるべき、逃げ出すべき。そんな理屈を全て蹴り飛ばして、俺の足は真っ直ぐに敵へとかち合った。
先鋒に飛びかかってくる鼠を切りつける。その体重を、大きく腕を振るって弾き飛ばす。飛ばされた鼠は石壁にぶつかって、短い悲鳴を上げて地面に転がる。
(……1ッ)
次は、すぐ足元に鼠が近づいてきている。短い手を伸ばして俺のズボンを掴もうとしていた。瞬時、足を引き、その掴みを避ける。
そして、空振って隙を晒した鼠の、頭部を踏み抜いた。
ぐしゃりと、固い何かを踏み潰す感覚が、足裏から頭のてっぺんまで響いて。鳥肌が立つようだった。
(……2ッ…!)
次は……2体同時ッ……?!
通路の奥から、2匹の鼠は勢いよく走り寄ってくる。まとめて倒すのは難しい…どちらかのダメージは覚悟しないといけない。
一匹は跳ねた、俺の喉笛目掛けて飛んでくる。
それを叩き落とすために、剣を振るった。
が。
───その剣は、手からするりと抜けて、地面を転がった。
もはや、指先には力が入らなかった。
自分の視線が、抜けた剣を追う。世界が静止したように、時間が遅く感じた。
まるで、水の中でゆったりと時が流れるような。
止まった世界の中で、俺の心臓だけが動いている。
鼓動がうるさい、痛い程に鳴っている。耳から飛び出してしまいそうなぐらいに。
(死ぬのか?)
(…こんな所で?)
(…いや、無謀だったんだ、もう剣を、握っているかわからなかったんだ。)
手足の痺れ、軋む関節、切れた息。全てが戦いで死ぬ可能性を加速させていた。でも戦いを止めることは出来なかった。
諦められない理由が、まだ俺にはある。
「…ぉおおッ!」
剣は拾わない、そのまま渾身の力で固く拳を握りしめて、殴りつけるッ!
鼠の面頬を殴ると、気味の悪い弾力がある。振りぬいた拳に鈍い痛みと、潰した骨の感触が残った。
殴り飛ばした鼠の行先を追うよりも早く、足に奔った痛みに気づく。足が重たい、見てみれば鼠が俺の足にしがみつき。鋭い前歯で俺の腿に齧り付いていた。
自身の肉が食われる、千切れる繊維の不快音が耳裏にまとわりつく。
(……痛い)
呆然とし、足元の鼠の姿を直視する。
瞬間、まるで息が出来なくなるほどの感情の高まりを感じた。頭の中がそれで押し潰されるような感覚だ。沸騰した感情の正体は掴めず、ただ俺はそれを鼠に叩きつけた。
自分の足ごと、岩壁に向けて鼠を蹴りつける。鈍い音が響くと、鼠の四肢から力が抜けて、地面へと崩れ落ちる。
まだ、動いていたから。
何度もなんども、その頭部が原型をとどめなくなるまで殴り続けた。途中で、まだ生きていたらしい鼠が俺に掴みかかって来たから。裏拳で顔の正面を打ってやった。
(…あぁ、これが”怒り”か)
そこから先は、あまり記憶していない。
分かる事は、夜が明けたこと。そして血まみれの通路と、無造作に散らばる死体。血濡れの拳が痛むこと。ただそれだけだった。
俺の背から陽の光が覗く。鼠たちは陽の光を避けているらしく、もうこれ以上は近寄ってはこなかった。
手を開く、真っ赤な手だ。この血が、相手のものか、それとも自分のものなのか、さっぱり分からない。
もはや痛みすら感じなかった。突き動かした激情はすっかり胸から抜け落ち。そこに残された空白は、静寂に包まれていた。
鞄を背負い、剣を鞘に戻して、ゆっくりと立ち去る。
振り返りはしなかった、何も感じないのが恐ろしかったから。自分が自分でなくなったような感覚が、本当に恐ろしかった。
朝日を身に受ける、目が眩んで、鉄格子の外にある町を見た。きらきらとしていて、水の煌めきは変わらず美しかった、町の賑やかさも変わらない。
変わってしまったのは、自分だけ。
水面に映る、血濡れた自身の姿を見て、そう確信した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「…素晴らしい…すばらしいッ」
椅子に座る1人の男が、肩を震わして、悶えている。
その顔は快悦に浸った形相で、狂気を帯びた笑みだった。
「…やはり、僕の目に狂いはなかった!君は素晴らしい原石だ…」
興奮を口調の端から零して、抑えられない熱い吐息を長く吐く。そんな身勝手な悦に浸る男が一人。
男の名前は、”ロッツォ・バーロウ”。商会ギルドの幹部の筆頭であり、聖王国においてその商才から爵位すら与えられた男だった。
(あぁ…アレンくん、怖いだろう、恐ろしいだろう。分かるよ、君の姿、表情。全てが物語っている)
(君の美しさは、儚さは、傷ついてこそ輝く…!)
内に秘めた思いを脈動させ。黒く歪んだ、恋慕にも似た感情は肥大していく。これは、彼の隠された真実。
誰も知る由もない感情なのだ。




