9話 地下水路にて
しばらく歩き回ったり、人と話したりしていると、あっという間に日は暮れ始めた。町を囲む壁の向こうへ、太陽が姿を隠していく。
俺はまた川辺のベンチに腰掛けて、影を伸ばしていく町並みをぼんやりと眺めていた。暗くなるにつれて家の中には光が灯り、青みを帯びていた冷たい町並みには、暖かな火の灯りが広がっていく。
まるで町が一つの生き物みたいに、色んな人達が集まって生きていることを実感させられる。そんな風景に見えた。
今日は疲れた。色んな人と話したし、振り回されたり、尋ねたりもした。身体はまだ元気なのに、立ち上がることが出来ない。
まるで心が疲れているみたいだ。
ただ、嫌な感じはしない。充実しているのだと思う。
ふーっと、長い息をつくと、俺は立ち上がった。
流石に寝床を探さないといけない、野ざらしというのは嫌だしな…。
ただ、寝床といっても何処に行けばいい?
宿は金がかかるから使えない、誰かを頼るのもはばかられる。風を防ぎ、寒さを凌げるような場所は…。
すこし考えて、地下に行くことを思いついた。
地下ならば気温も安定しているし、風に吹かれる心配もない。どうやら話を聞いたところによると、今は誰も管理をしていない古い水路のようだし、少し滞在するぐらいは許してもらえるだろう。
そうとなれば、入口を探さないといけない。
と、いっても恐らくそれらしきものを俺は見つけていた。昼間町を歩いていた時に、川辺でそれを見つけたのだ。
整備された運河の片隅ににある、錆びていて手入れのされていない鉄格子の戸の向こう側。薄暗い穴は人が余裕をもって通れる程には広く、奥へと続いているのが見えていた。
あそこがきっと水路の入口に違いない、噂とも一致している。
噂によれば、水路には魔物も現れるという事だが……。町には現れていない訳だし、つまりは深部に魔物が住んでいるということ、入口に近ければ大丈夫なはずだ。
今はそう信じておくしかない。
俺は日が出ているうちに入口へと向かった。
着く頃には日はもう傾き、そこは昼間より深い闇に包まれている。通路の奥からは生暖かい空気が流れ出ており、不快感を感じさせてくる。
古びた格子戸に手をかけると、鍵もかかっていないらしく、すんなりと開いた。
そのままゆっくりと、中へと入っていく。
◇◇◇◇
水路の中は、全面が石造りの通路になっている。一本道が続き、ところどころには分かれ道もあるが、全て瓦礫で塞がっている。
歩く度に、足音が深くへと響き、不安感が募る。
しかし、少し進んでみると、奥からはほのかな青白い光が差していた。光の出処を探してみると、どうやら近くの壁に生えているコケ、それが光を発しているようだった。
コケに優しく触れてみれば、微かに暖かく、ふかふかとしていた。
そんなコケが四方に生えているこの通路は快適で、その神秘性に息を漏らし、コケの上に腰を落ち着けてしまう程だった。
(…思ったよりは快適だな…)
(ただ、こんな環境なら、他の生き物が住んでいるはずだ)
リラックスしつつも、剣から手は離さず握りしめておく。警戒は解かないように。ここは普通は人の休める場所ではないのだから。
そうして暫くの間を過ごしたが、依然として通路は静かさを保っており、俺以外には滴る水の音が聞こえるだけだった。
時間が経つにつれ、少しずつ俺の気は緩みはじめ、ついには腹の音がなるほどになっている。
腹が減ってはなんとやらと、古い言葉もある。腹ごしらえをここらで挟むことにした。
バッグから固いパンと干し肉を取り出す。乾き、固くなっているパンを1口大程にちぎって口へ放り込む。するとパンは口の中の水分を奪い、やわらかくこそなるが、ボソボソとした口当たりで、後につく風味も何処か饐えたようなものだった。
(…比べちゃダメだよな)
分かってはいるのだが、ホテルで食べた白いパンが脳裏に過る、過ぎた贅沢は毒にもなる事を知ることになった。
そんな悩みも、黒パンもまとめて水で飲み下す。気づけば、水袋の中身も随分と減っていた。
そんな乾いた食事をしていた最中、異変は突如として訪れる。
コケの光も届かない暗闇のその先、怪しく光る二つの点が浮かんでいた。
俺は慌ててパンをバッグに突っ込んで剣を手にする。息が詰まる感覚が気持ち悪い。しかし油断するのは危険だと、経験したばかりなのが幸いした。
アレが魔物なら、既に戦う準備は出来ている。
光る双眸は、近づくごとにその姿をあらわにする。
油を塗りたくったような気味の悪い艶を持つ毛を持ち。人の膝辺りまでの体高程で、発達した前歯で死肉を齧る魔物。
「…大鼠か」
冒険譚で初めに蹴散らされるような魔物、それが大鼠だ。
何度か森で見かけたことはあるが…こうして対峙するのは初めてだった。
相手はジリジリとこちらへと距離を詰めてくる、もし背を向けたらすぐに飛びかかってくるだろう。その赤い目はこちらをジッと見据えている。
しばらくの膠着が続いた後、先に痺れを切らしたのは鼠の方だった。通路を機敏に駆けて、こちらへと真っ直ぐに突き進んでくる。齧り付こうとしているのか、鋭く黄ばんだ前歯を剥き出しにして。
(…小さくて狙いにくい…)
大鼠と言う名ではあるが、人よりも数段小さい体躯であり。この人が数人通れるかといった狭い通路では、狙いを定めるのが難しい。
ふと、路地で出会ったあの紳士の事を思い出す。
あそこも武器を振り回すには少し手狭な場所だった、そこで彼は凄まじい突きで相手を制していた。俺にもあれが真似できるかもしれない。
状況は悪くない。手先も今は落ち着いている、冷静であれば対処は出来るはず。
(…狙うとしたら、頭部への一撃…)
剣の切っ先を相手へ構え、身を屈ませて重心を下げる。力を向ける先は一点、全てを前に突き出すことに集中する。心を落ち着けて、深く息を吸い込み。
───放つッ!
俺の放った突きは、直線的に走る大鼠の頭頂へと突き刺さり、短いギッと言う鳴き声を上げさせトドメを刺すことになった。
吸った息より多くの空気を緊張と共に吐き出す。成功した喜びと、死んだ後もビクビクと痙攣する鼠の四肢の気持ち悪さが混ざりあって、頭の中がぐしゃぐしゃになっていく。
剣を引き抜くと、どす黒い血が切っ先にべったりと着いている。剣を軽く振るえば、血はサッと刃から弾かれて辺りに飛散した。
剣の煌めく刃に映る自分の顔は、酷く無機質に見えて。少しの恐ろしさを覚えた。
(…殺したのに、なんでこんなに心が高鳴るだろう)
胸の内で、心臓は強く鼓動し続けていた。




