レティシアの子育て
「呪いと祝福の子らは女神の掌で踊る」の番外編になります。
第一王妃に初めて会ったレティシアの印象は「虫も殺せない心優しい人」だった。物静かに微笑んでいて、もうじき五歳になる第八王子と手を繋いだレティシアが不安そうに謁見した際にも温かく迎え入れてくれた。むしろ隣の第二王妃や第三王妃の方が気位が高く敵意剥き出しの印象を受けた。
レイはレティシアとしばらく身を隠して生活していた為、王子としての特別な教育は受けていなかった。そして五歳がその教育の間に合う瀬戸際の年齢で王宮に招かれざるを得なかったことを、当時のレティシアは本当の意味では理解出来てもいなかった。
レイには王宮の教育係が教える学問の他に王子教育に熱心な第一王妃が主催する王子の交流会にも参加する権利が与えられた。王子として認められたのだと、レティシアはホッと胸を撫で下ろした。
王宮に来てしばらくはレイも学ぶことが多く、それでも新しい刺激を受けることに目を輝かせて楽しそうに過ごしていた。だが一ヶ月ほど経ったある日のこと、真夜中に目覚めたレティシアはレイの部屋から漏れるうめき声を聞いた。
「レイ?」
部屋に入るとレイはうなされているのか、苦しそうに呻いていた。起こそうとしたレティシアの手が触れるとレイはその手を払い除けて突然目を開けた。
「やめて…お願い、やめて!」
「レイ??」
そこでようやく目の前にいるのが母親だと気付いたのか、レイはきょとんとした顔でレティシアを見上げた。
「怖い夢でも見たの?」
「…お母さま…?」
不思議そうな顔のレイをレティシアは抱きしめた。夢の内容は忘れてしまったようだった。程なくしてレイは落ち着いて再び寝息を立て始めたので、レティシアはやはり夢にうなされただけだったのだと、その出来事を気に留めることはなかった。そして、それはやはり前兆であったことを知った時には全てが遅すぎた。レイの心と身体に大きな傷痕が残ることになることを、このときのレティシアは予測できなかった。
***
その知らせを受けたとき、レティシアは第一王妃の主催するお茶会に招かれていた。お茶会には第一王妃、第四王妃が出席していた。第二王妃と第三王妃が不在なのは、第一王妃のことを快く思っていないからだというのをレティシアは予め噂好きの侍女から聞いて知っていた。
王子たちは宮殿の園庭で遊んでいた。いつの間にか姿は見えなくなったが侍女もついているのでそう遠くへは行っていないだろうと思っていた。その時だった。
「大変です…第二王子と第八王子が…獣人に襲われて…!」
髪も服も乱れた侍女がまろぶように飛び込んできて、レティシアの手からティーカップが滑り落ちた。
「獣人…?なんて恐ろしい…」
第一王妃は聞いただけで気絶してしまい、慌てて第四王妃がその身体を支える。だがレティシアは薄気味悪いその瞬間をうっかり見てしまった。気絶したはずの第一王妃が満足そうに微笑むのを。
***
王立治癒院に駆けつけたレティシアは生きた心地もしないままガタガタと震えてレイの治療が終わるのを祈るように待っていた。そのため隣に黙って座ったのが第二王妃だと気付くのにもしばらく時間がかかった。
「…第二王妃さま…」
(…静かに)
第二王妃はレティシアの肩を抱く。心の中で話し掛けてきた。
(聞こえるか?クロフォードの者ならこの程度のことは可能だろう?ここも見張られている。第一王妃を信用するな。獣人とも繋がりのある第四王妃は完全に子飼いだ。子どもを失いたくなければゆめゆめ油断するな)
「命が助かっただけでも良かったと思うことだな。私の子と同じで一生傷痕は残るだろうが」
第二王妃はレティシアを振り返らずに歩み去る。それからしばらく経って治癒師が扉を開けた。レティシアはふらふらと立ち上がる。ベッドに眠るレイの左肩から右胸にかけて広範囲に巻かれた包帯を見てレティシアは胸が締め付けられたように苦しくなった。
「ごめんね…レイ…守ってあげられなくて…」
レティシアの呟きに、眠っていると思ったレイの瞼が震えた。
「…お母さま?」
レティシアは驚いてレイの顔を覗き込む。そのレティシアの顔を見てレイは僅かに微笑んだ。
「お母さまのくれたお守りが…僕を守ってくれたよ…」
「あぁ…レイ!」
レイは握っていた右手を開く。千切れたお守り袋が握られていた。昔に失った大切な人の髪の一部を入れてレティシアが作ったお守りだった。祈りを込め過ぎて呪いに転じたかもしれない。けれども守りが発動してこの大怪我だ。なければ死んでいただろう。
(ジェイド…ありがとう)
レイの手とお守りの袋を一緒に握りしめてレティシアは涙をこぼした。
***
「第四王子が間違って獣人を刺激する匂いのついた香水を振りかけてしまったですって?バカじゃないの?子どもでも分かるわよ!そんなの嘘だってことくらい」
レティシアは怒り狂って炎を出した。それを片手で消し去った相手が呆れた顔をする。
「だが、それが嘘だという証拠もない」
遮断の魔術の中でロウ公爵家のブリジットは長い足を組み替えた。ブリジットはレティシアの異母兄であるフレディの母方の従姉である。
「で?苦手な私を呼び付けたからには頼みたいことがあるのだろう?」
レティシアはブリジットを振り返り歯噛みした。自分にもっと力があれば頼らずとも済むのだが。実家はもとより、クロフォード家の落ちこぼれではレイに十分な指導も出来ない。
「お願いがあるの。レイが自分で自分の命を守れるように、これからロウの家に伝わるあらゆる技を教え込んでほしいのよ」
ブリジットは鼻で笑った。ロウの家の技は諸刃の剣だ。時と場合によっては王家の陰の仕事をも引き受ける。その対象には無論レティシア親子も含まれる。表向きは慈善家として大勢の孤児を引き取り世話をしているが、それは将来的に使える駒を増やす為でもあった。元々そういう汚れた家系だ。
「なんとも都合の良い話だな。それで報酬は?タダ働きとは言わないだろう?」
「お金ならきちんと払うわよ」
「金?そんな物は不要だ。私が欲しいのは人の弱みを握れる情報だ。それにこの先お前がこの魔窟で生き残れるかも分からないというのに、子どもの心配か。母親になると考え方まで変わるものなのか?」
「そうよ…悪い?私は何としてもレイを守りたいのよ。兄が近くにいたならとっくに頼ってたわよ。残念ながら辺境の地を転々としていて捕まらないから無理だったけれど…」
ブリジットは皮肉な笑みを浮かべた。こういう顔付きをすると少し兄に似ているのがまた癪だった。
「私がレイをどうこうするとは考えないのか?お前の味方でもないのに」
ブリジットの言葉を聞いたレティシアは途端に荒んだ顔付きをした。琥珀色の瞳が一気に陰る。
「…とっくに、どうこうされてたわよ。こんなことがあって初めて分かった私も大概愚かよね。あの子は何をされているかもよく分かっていなかったけれど…五歳になったばかりの子に無理矢理第一階級の魔力交換を強要するような…ここはそういう場所なのよ。第一王妃が選んだ教育係の魔術師のせいで、あの子は炎の魔力が苦手になってしまった。低い階級から再度慣らすにしても、私の魔力も炎だから拒絶反応が出てしまって無理なのよ」
ブリジットは絶句した。五歳の子どもに第一階級の魔力交換を行う?そんなものは指導ではなく拷問だ。多少の手酷いことは平気な自分でもさすがに行う気にはならない。ブリジットは徐ろに立ち上がると、檻に閉じ込められた猛獣のように歩き回るレティシアを引き留め抱きしめた。
「事情はだいたい分かった…それではここは私が引き受ける以外に選択肢はないだろうな」
ブリジットは回した手からそっと魔力を流す。炎の怒りで荒れ狂うレティシアの乱れをブリジットの水と風の魔力が鎮めてゆく。
「私はやるならとことんやるよ?たとえレイに嫌われようとも構わない。魔力交換に毒への耐性に戦い方…私が持てるもの全てを教えよう。そうだな。毒はお前も子どもと一緒に飲め。早々に死なれてはつまらないからな。一から鍛えなおしてやる」
「猛毒を盛って親子揃っての自死に見せ掛けるのは勘弁してよね?国王陛下が死ぬのを見届けるまで私は死ねないんだから」
「なんだ?そっちの方がよほど怖いじゃないか。何かの契約か?」
ブリジットは眉をひそめる。
「初夜の床で爆死するはずだった私を助けてくれた国王陛下との約束よ…」
「やれやれ、ここはやはり魔窟だな…」
ブリジットは天を仰ぐ。最低限生き抜ける知識をと思ったが、牙を剥くものを屠るくらいの強さが必要になることは容易に想像がついた。だが力をつけるのが先か、喉笛を切り裂かれるのが先か、待ち受ける未来は読めそうにもなかった。
***
「乾杯」
レティシアとレイは今日も仲良く毒を煽る。
「無事に明日を迎えられますように」
レティシアが祈るとレイは同じ台詞を繰り返してクスクスと笑った。毒への耐性はどうやらレイの方が強そうだった。何を飲んでもケロッとしている。じきにレティシアは追い抜かれるかもしれない。それすらも喜ばしい成長だった。獣人によってつけられた深い三本の傷痕を見る度にレティシアは決して油断しないと心に誓う。それでも日々を楽しむこともレティシアは忘れなかった。我が子が大怪我をしたというのに底抜けに明るく能天気な第五王妃を見て周囲はとうとう気でも触れたかと噂した。上等だ。いつでも能天気な第五王妃を演じよう。レイがもっと大きくなって真の平穏が訪れるその日まで。レティシアは国王に良く似たアメジストのようなレイの瞳を覗き込んで微笑んだ。