クラゲ少年
まるで、時間を溶かすように彼は歩いていた。
駅前のロータリー、朝のざわめき。
制服のスカートが風に揺れて、信号の点滅音がせかせかと鳴る。
人の流れは常に一定の速度で、まるで誰かに追われているみたいだった。
そんな中に、少年がいた。
白くて、細くて、どこか透けて見えるような肌。
前髪が目にかかるくらい長く、瞬きをゆっくりとする。
名前は水無月レン。
彼が本当に「水の中の世界」から来たなんて、思ってもいなかった。
「ねえ、水無月くんって、時間止まってるの?」
休み時間、窓際の席で彼を見ていたしずくが、ぽつりと尋ねた。
「……止まってたら、どうなるの?」
レンはゆっくりと目を開ける。声も、まるで水の中から響いてくるように、ぼんやりとしている。
「うーん……私は助かるかも。宿題やる時間できるし」
「なら、止めてあげようか」
その言葉に、しずくは一瞬笑って、でもすぐに真顔になった。
「……本当に止まったら、怖いかも」
レンは、何も言わずに窓の外を見つめる。空に浮かぶ雲は、ほんのわずかに、でも確かに流れていた。
教室の窓から見える空は、まるで海の底のようだった。
曇り空にぼんやりと光が差し込み、どこか現実味のない色をしている。
放課後、しずくはふと思いついたように、レンに話しかけた。
「ねえ、水族館……行かない?」
「水族館?」
「なんとなく、あんたに似てるとこだし」
そう言って笑う彼女の瞳には、からかいでも好奇心でもない、どこか寂しげな色があった。
レンは一瞬だけ黙っていたが、やがて静かにうなずいた。
「……いいよ」
水槽の前に立つレンの姿は、不思議とその場所に馴染んでいた。
クラゲの水槽の前で立ち止まると、青白く照らされたガラスに、彼の横顔が浮かぶ。
「動いてるのに、止まってるみたいだね」
しずくがぽつりとつぶやく。
「うん。ここは、地上とちょっとだけ違う時間が流れてる」
レンの声は、まるでクラゲが水を押して動くような、なめらかさを帯びていた。
「時々思うの。私、ちゃんと“生きてる”って言えるのかなって」
「どうして?」
「なんか、ただ課題に追われて、予定に合わせて、遅刻しないように急いで……。全部“こなす”ことに必死で。いつの間にか一日が終わってる」
「……でも、生きてるってそういうことかも」
レンは、水槽のクラゲに手をかざした。
ふわり、と一匹のクラゲが近づいてくる。
「彼らは、流されるようにしか動けないけど、でもそれで、ちゃんと生きてる」
「時間に遅れたことも、誰かに合わせたことも、たぶん一度もないけど」
「……なのに、生きてる?」
「うん。ちゃんと、生きてるよ」
その夜、しずくは夢を見た。
水の中で、何も持たず、ただ漂っている夢だった。
目が覚めたとき、何かがすとんと心から落ちていったような気がした。
そして、次の日の朝。
いつもの通学路で、彼女は少しだけ歩く速度を落としてみた。
道端の花に目をやって、吸い込む空気の冷たさを感じて。
ただそれだけのことが、なぜか嬉しく思えた。
数日後、レンは転校した。理由も告げず、ふっと姿を消した。
だけど、クラゲのように淡く、確かに残る記憶だけが、彼の存在を証明していた。
彼がいなくなっても、空は相変わらず雲を流し、電車は時間どおりに走る。
でもしずくの中でだけ、時間はほんのすこし、やわらかくなっていた。