不穏
夜十時。城塞の最上階に位置する部室の窓から、ミカエルは古塔の方向をじっと見つめていた。ほどなくして部屋の扉が開き、副部長のジョン・ブラウンが入室する。
「部長。シャーロット殿とリサ殿が、古塔から寮の建物まで無事帰還しました」
「オッケー。見張り役任せちゃってごめね、ジョン」
「いえ、大したことでは……。部長の為なら何でもしますよ」
「ありがと。二人のこと、これからも宜しくね? 君にしか頼めないからさ」
「え、ええ。部長……っ!?」
次の言葉をミカエルの抱擁に遮られ、ジョンは呆然とその場に立ち尽くすことしか出来なかった。ミカエルはそのまま、
「僕は孤独なんだ。第一位のエリートとして、誰からもその実力を期待されている。でも僕は……」
「分かってます……部長……」
「ミカエルと呼んでくれ。何度も言ってるだろう」
暗く虚ろな眼。そこにジョンは、底知れぬ真理への探究心と引き換えに、今まさに失いかけている良心の残滓を垣間見る。
「ええ、ミカエル……」
突如として響き渡る衝撃音。吹き飛ぶ部室の扉。ミカエルは咄嗟にジョンの体を突き飛ばし、魔法の杖を右手に構える。
「男同士の友情ってやつ? 気味悪いなあ。俺さ、そういうの大っ嫌いなんだわ」
二年生か。ミカエルは腕章を確認し、侵入者の正体を突き止めようと思考を巡らせた。僕はこの学校の第一位だ。そんな僕に、わざわざ襲撃を仕掛けてくる生徒なんて……。
「君、ランカーだね?」
他にこんな真似をする人間はいないだろう。すると長身の男は笑いながら、
「第五位のパトリック・ターナーだ。つーか普通に俺のこと、認識しとけよな」
「すまない。僕は学内の順位争いに興味がないんだ。……大人しく帰ってくれるかな?」
「気に食わねえ野郎だ。俺こそが第一位に相応しい男だってこと、分からせてやるよ」
パトリックの杖先から黒い瘴気が噴出する。あれは……暗黒魔法か……?
その瘴気は瞬く間にミカエルの体を包み込んだ。絶叫が辺りに響き渡り、全身が瞬く間に朽ち果てていく。
「大したことねえじゃん。学園最強がこんなもんかよ」
側近のジョンはその光景を絶望しながら見つめていた。そして、第五位の視線が自身の身体に注がれた瞬間、彼は恐怖のあまり気を失いかけてしまうのであった。
「雑魚には興味ねえから。とっとと失せな」
しかしジョンは寸前のところで持ちこたえた。その目には復讐の炎が宿っている。
「お前は許さない。絶対に殺す」
杖を構えるジョン。パトリックはその姿を嘲りながら、
「なら来いよ! てめえにも最高の苦痛を与えてやるぜ!」
しかし彼は異変に気が付いた。ジョンの姿が突如として消え、目の前に、さきほど葬ったはずのミカエルが現れる。何だ……いったい何が起こって……。
「私闘は重罪に値する。ま、僕も法律なんて守ってないけどさ」
パトリックは無我夢中で杖を振り下ろした。再びミカエルの体が黒い瘴気に包まれる。絶叫が辺りにこだまする。
暗黒魔法。対象に最大限の苦痛を与えた上で、死に至らしめることを目的とした、この世で最も残虐とされている禁断の魔法。
「――しかしその魔法は、術者の精神をも確実に蝕む。指定禁止魔法に類されていないのは、まさしく王国の闇そのものと言ったところだろうか」
背後で囁く第一位。何故だ。なぜこいつは死なない。
「……俺に何をした?」
「君は既に僕の術中にある。夢か現かも分からぬ無限の世界を、ただ彷徨うことしか出来ない」
何度も何度も杖を振った。その度に、ミカエルは無様な死にざまを晒している。なのに、どうして……。
「さて、幻術を解いてあげようか」
パトリックは全身から汗を流しながら、ただそこに、ミカエルと最初に対峙したその瞬間のままに、部屋の入口で立ち尽くしていたのである。何もしていなかった。俺は、何も……。
「そう。君は幻の中で、ただ夢中になって杖を振り回していた」
暗い瞳が真っすぐにこちらを見据えて来る。得体の知れない恐怖がパトリックを襲う。一体、こいつは……。
「クソ……これが一位の実力かよ……」
あの古塔での出来事から三日が経過した。魔獣の粋な計らいが功を奏したのか、シャーロットはすっかり元気を取り戻したようである。いや、むしろ以前にも増して、元気になり過ぎていると言うべきか。何も問題はない。幸せだ。ただ幸せな日常が流れている。シャーロットは可愛い。それだけでいいんだ。
「リサお前……噂になってるぜ……」
食堂にて。友人のアランが苦笑いを浮かべながら、こちらを気まずそうに見つめて来る。
「え? なにが?」
「シャーロットだよ。あいつとデキてるんじゃないかって、学校中で噂されてんの」
「できてる? 何それ。意味わかんない」
リサは特段気に留める様子もなく、堅パンを頬張りながらアランを見た。
「それよりアランさ。最近、授業サボり過ぎじゃない? このままじゃ進級できなくなるかもよ?」
「俺はランカーだから問題ねえよ。第四位だぜ? 出来るもんなら留年させてみろって」
「もうすぐあれ、始まるじゃん。ランカー同士の模擬演習。君ほんとうに大丈夫なの?」
十名の成績優秀者に加え、かつて優秀者の地位に立ったことのある「ランカー落ち」を交えた実戦形式の模擬演習。それは毎年十月に実施される、魔法学校の一大イベントでもあった。
成績優秀者の十名にとって、このイベントは己の地位を失う可能性をはらんだ、地獄の試練とも言えるだろう。だが一方で、順位を上げたい野心家のランカーや、再び上位に返り咲きたいと願う「ランカー落ち」にとっては、これ以上ない大チャンスでもあった。
いずれにせよ、リサには全く関係のない話である。……と、言いたいところだが、現実はそう安心できる状況でもない。親友のシャーロットはいま現在、第六位のランカーとして学内に君臨しているのだ。
「もう絶対に危ないことはしません!」
昨夜、シャーロットは自信満々にそう宣言していたが、いかんせん彼女が手加減をできるようには思えなかった。リサは彼女の肩をに手をのせて、
「ねえシャーロット。私はね、君の心配はしてないんだよ。君が誰かを殺しちゃわないか、それが心配なの。手加減できる?」
「槍は使わない! この杖で戦うよ!」
「それはそれでさあ……」
彼女は魔法を上手く扱えないのだ。てか、あの槍は一体何なの? 直接尋ねてみても「得意技だよ!」としか答えてくれないし……。
「まあ。成績上位陣にはアランもミカエルもいるし、大丈夫かなあ」
あの二人がシャーロットに危害を加えるとは思えない。ミカエルは何故か、第五位の男を潰すと息巻いていたけれど、彼女には一切手出しをしないと言い切っていた。「大事な同志に手を上げるわけがない。むしろ、進んでシャーロットを援助したいところだよ」彼はそうはっきりとリサに語ったのだ。
アランは言うまでもないだろう。そもそも彼は最近、何事に対してもやる気がない。今もほら、食事にすら手もつけず、ぼうっと遠くを見つめてる。
「ねえアラン? 聞いてるの?」
「ああ……何の話だっけ……?」
「模擬演習。ほんと気を付けてよね。特にキーラなんて、死に物狂いでランカーの地位を奪還しに来るだろうから」
「任せとけ。何なら順位上げてやるよ。第一位はキツいかもしれないが……。三位、いや二位ぐらいなら行けるんじゃないか?」
やっぱり部長は凄いんだと、リサは改めてミカエルの強さを実感していた。四位のアランがそこまで言うぐらいなのだから。
ミカエルは今三年生。あと半年も経たずに卒業してしまうけれど、一度くらい、彼の本気の戦闘を見てみたいものである。
でもアランには戦って欲しくない。ただ無事に生還してほしい。時々彼が良く分からなくなることもあるけれど。私が一番つらい時、ずっとそばにいてくれたのは、アランだけだったから。
「無理しないでね」
「大丈夫。久々に、全力出してくるよ」
物語にはフラグというものがある。特に異世界ファンタジーの場合には、それが顕著に現れるものである。例えば結婚を控えた青年は、多くの場合その後の戦いで命を落とす。男は愛する女のもとに帰れない。女は将来の夫を信じて、ささやかな日常の中で彼の帰りを待ち続ける。
悲劇は人の心を打つものだ。しかし、その後のエピソードは語られないことの方が多い。恋人を失った女は、いずれ別の男を見つけるか、さもなくば一生独り身で、それでも日常の中に生きる意味を探しながら、生きるか、死ぬか。ドーランド王国には三千万人近くの民が暮らしている。その全てに物語がある。
私の物語は、このあと急転直下の展開を迎えることになった。学園生活は崩壊した。でもそれは、目まぐるしい人生のほんの一部に過ぎない。
それでも私は生き続ける。だって死んだら、何も分からなくなってしまうから……。