魔獣
「小僧、退屈していたぞ」
繊細で、透き通るような美しい声。言語も完璧に操れている。体はどう見ても毛皮に覆われた、四足歩行の獣そのものだと言うのに……。
リサはまたしてもぞっとしたが、ミカエルは随分と気さくな様子で、
「ごめんよ。ここ最近、研究で忙しくてね」
「また下らぬままごとに熱を上げておるのか。それよりもっと顔を出せ。いっそこちらから出向いてやろうかと思ったわ」
「ダメダメ。他の人間に見られたら捕まっちゃうだろ?」
その親しげな関係性に、リサとシャーロットは拍子抜けしたように、呆けた顔を見合わせる。
「それにしても、妙な人間を連れてきたようだな」
獣の体は地面に伏したまま、女の顔だけがこちらに向けられた。リサは無意識に一歩あとずさる。シャーロットは、恐怖より関心の方が勝っているのか、女の顔をじっと見返していた。
「安心していいよ。彼女らは、僕の新しい同志さ」
「そうか……」
女の顔は警戒しているようにも見えた。いや、それどころか、よく見ると怯えているようにすら感じられてくる。もしかしてこの魔獣、人間を恐れているのかしら。
「貴様ら二人とも、強大な魔力を秘めておるな」
魔獣はそう言って、神妙な表情を浮かべながら、二人の顔を交互に眺めた。リサは一瞬ドキリとした。二人とも? シャーロットだけじゃなくて、私も?
「その魔力は世界を再び危機に陥れるやもしれぬ。使い方を誤るなよ。特に黒髪の、東方人の女」
まただ。ミカエルも言っていたが、「東方人」という単語が妙に引っ掛かる。まさか異世界転生者を指す言葉ではないだろうけれど、何故だか自分の正体を見透かされているような気がして、とても困惑するのだ。
「あの、東方人って何ですか?」
リサは思い切って、その目の前のスフィンクスに聞いてみることにした。すると彼女は、
「何だ、そんなことも知らんのか。細かい定義は語る者によって異なるが……大陸の東半分は、ふつう東方世界と呼ばれているだろう?」
鋭い目つきでリサを睨み付けると、今度はアランの方を向いて、
「やはり危険だな。無知が力を持つと、何をしでかすか分からんぞ」
「大丈夫だよ。彼女は心優しい女の子さ。それよりホラ、あの話をしてやってくれよ。二千年前の……」
ミカエルがそう話題を変えると、スフィンクスは複雑そうな顔をして彼を見た。リサは生唾を飲み込んだ。いよいよ本題に入るか。一体この魔獣は、巨大な魔力の暴走について何を知っているのだろうか。
「いや、正直我も詳しくないぞ。これでも五百年以上は生きて来たが、昔から光の氾濫は、古代神話の中でも最大の謎として扱われていたからな」
五百年。この魔獣は少なくとも五百歳を超えているということか。現実世界のファンタジー小説でも、何百歳の魔法使いとか出てくるけれど……。リサは益々真剣になって、スフィンクスの話に耳を傾ける。
「結論から言えば。昨年の「輝きの夜」も、二千年前の「光の氾濫」も、どちらも増福魔法の一種による人為的事件と考えるのが、最も自然ではないかと思われる」
「増福魔法……」
それは外部の魔力に干渉し、対象の魔力を増幅させる効果を持つという、古来より伝説的に囁かれてきた秘密魔法のことである。一般的な魔導士がこれを使用したという事例は、少なくとも公的資料の中には一切見られない。習得方法も不明。ただ、神話や歴史書の中には、確かにその存在が確認できる。
と、ミカエルから増幅魔法に関する補足説明を一通り受けたリサは、
「その、あなたは、見たことあるんですか……?」
「一度も無い。正直この増幅魔法に関しては、空間魔法や時間魔法、また記憶魔法と並んで、この世に存在してならぬ「禁断の魔法」だと我は考えている。一度も見たことが無いというのは、実に喜ばしいことなんだが」
リサは心臓が飛び跳ねそうになっていた。空間魔法。自身の得意とする魔法能力を「この世に存在してはいけない禁断の魔法」と称されたことに、激しい動揺を覚えていたのである。
額から汗を流すリサの異様な姿を見て、女の顔は何かを案ずるように天井を仰ぎ見た。そして彼女はリサの方をもう一度向くと、
「そこの二人。貴様らに問いたいことがある。ミカエルは一旦、ここを出て行ってくれないか?」
「女三人で内緒話ですか。まあいいよ。僕は一足先に部室へ戻ってるから」
「み、ミカエル!」
リサは不安から声を上げた。が、彼は小さく微笑むと、
「大丈夫。彼女、意外と淋しがりなんだよ。こんな地下室で一人きりだからさ。話し相手になってやってくれないか」
「貴様が来ないからだ。今後は週に一度、我の下へ来い。分かったか?」
「はいはい……。じゃ、二人とも。また明日ね。今日はそのまま寮に戻っていいから」
残されたリサはより一層強くシャーロットの手を握りしめ、眼前の魔獣と真正面から向かい合った。その出で立ちは相変わらず不気味そのものだったが、どうした訳か、表情はとても和らいでいる。
「これから話すことは、誰にも明かしてはならぬ。ミカエルにもだ。あの小僧は珍しく、人間にしてはマシな部類に属するが、己の探究心の為なら全てを犠牲にする狂気を持ち合わせておる」
それは何となく感じていた。彼は普通じゃない。普通じゃないからこそ、この一見不気味な魔獣相手にも、臆することなく立ち回れるのであろうが。
「良いか? 貴様ら二人は特殊な人間だ。我には分かる。我は人の魔力を感じ取ることが出来るのだ」
スフィンクスは続けて、
「何故この世界に魔力なるものが存在するのか、それは我にも分からない。だがこれだけは言える。貴様らは危険だ。人間が持って良い魔力の限界を超えている」
出会い頭にも言われたその言葉に、リサは例えようのない不安を募らせていた。確かに私は異質な存在である。当然だ。異世界転生者なんて、通常その世界には存在しない筈の人間なのだから。ある日突然現れて、何故か魔法の力を持っていて、何故かその世界の言語を理解できて、肉親を持たず、過去を持たず、ただ理不尽にその世界へと干渉する。
あれ? 異世界転生って、一体何なんだろう。私はこの世界に存在していいのだろうか。私が存在していることで、今も世界の何かが変わり続けているのでは……。
いっそのこと打ち明けてみようか。この目の前の神聖な魔獣に、全てを話してしまおうか。でも彼女は、私だけじゃなくて、シャーロットのことも危険だと言っている。そういえば私もシャーロットの出自を聞いてない。彼女がどこで生まれて、どこで暮らして、なぜこの魔法学校に入学したのか、一切聞いていないのだ。
「一体、私たちはどうしたら……」
「その前に我も聞きたいことがある。まだ夜は長い。食事でもしながら、ゆるりと歓談を楽しもうではないか」
地下室に明かりが灯り、まるで王宮の食卓かと見紛うごとき空間が出現する。
「す、すごい!」
シャーロットが思わず歓声を上げる。リサも驚いて口をぽかんとあけている。柔らかな肉料理にかかった濃厚なソースの香りが食欲を煽り、新鮮な野菜のあざやかな光沢が見る目を楽しませる。宙に浮く酒樽から、赤く澄んだ葡萄酒がグラスに注がれる。
「ここに来れば、いつでもこれを楽しめるぞ。最近百年の間で食材の幅も広がったからな」
迂闊に食べてはいけないような気がするけれど、我慢できない。気付くとリサはテーブルの肉料理に手を伸ばし、次にサラダ、かぼちゃのスープ、新鮮な魚のペースト。どれを口にしてもとろける様に美味しい。
シャーロットは葡萄酒に手を出して、びっくりしたように目を丸くすると、少し経ってから幸せそうな顔をしてリサに抱きつこうとする。
「えへへ~。何だか楽しいねえ?」
完全に酔っているなと、ため息をつきながらも、リサはテーブルを挟んで対面に佇む、半人半獣の怪しげな魔獣に向かって、心の底から感謝の言葉を贈りたい気分であった。彼女も満面の笑みを湛えてこちらを見つめている。緊張の糸が切れ、リサも手元のグラスを持ち上げると、中の葡萄酒を一気に飲み干すのであった。