栄光の森
「クソ……クソが……」
パトリックは腐敗した左腕を抑えながら、激しい怒りを露わにした。周囲には枯れ果てた草木や虫の死骸、そして小動物の腐った肉塊が散乱し、まるで地獄のような様相を呈している。
確かにあれは回復魔法だった……。パトリックは自身の左腕を見てぞっとする。彼は自らの感知能力に絶対の自信を有していたからこそ、未だに、目の前のおぞましい光景が信じられないのであった。
「てめえ……何をしやがった……」
「今すぐ棄権してくれ。あれを、二度も使いたくない」
もう一度やれば勝てるかのような言い草じゃねえか。パトリックは沸々と込み上げてくる怒りを、そのままエステルにぶつけようとする。
「てめえは確実に殺す。まずは左腕を切り落として、俺と同じ苦しみを味合わせてやる……」
エステルは悲し気な視線を彼に送った。精神を病んだ男の、悪魔のような形相が目に映る。やはりこれだけじゃ、彼を止めることは出来ないのだろうか。
「君は、かわいそうな人だ……」
いわゆる「救いようのない悪人」というものは、残念ながら存在する。本当は、誰もそんな風に産まれたくないだろうし、誰もそんな風に生きたくないはずなんだ。でも、そうやって生まれてしまった。そうやって育ってしまった。普通が何かも分からないまま。きっと君には、どうしようも無かったんだろう……。
「でも駄目なんだ。君を、このままにして置くわけにはいかない」
「ゴタゴタうるせえんだよ! ぶっ殺してやる!」
「ここからが、地獄の始まりだよ……」
ドーム状の半透明の結界が、二人の周囲をあっという間に覆い尽くす。パトリックは慌てて逃げようとしたが、遅かった。そして彼はすぐさま異変に気が付いた。先ほどやられた左腕が、いつの間にか元通りになっている。彼はその左手を閉じたり開いたりして、確かに感覚が戻っていることを確認した。
この女、今度は何をするつもりだ……?
何にせよ、先手必勝の原則は変わらない。魔法の杖を構え、彼女の一手が出る前に片を付けようとするパトリック。しかしいくら必死に念じてみても、杖先からは何も出てこなかった。
魔法が……使えないのだ……。
「てめえ……」
するとエステルは懐からナイフを取り出して、突如、自身の首に突き立てた。パトリックは激しく動揺した。そして彼はただ呆然と、その様を見つめることしか出来なかった。
鮮血が噴き出したかと思えば、次の瞬間には元に戻っている。彼は得体の知れない彼女の行動に、そして彼女の存在そのものに、恐怖を感じ始めるのであった。
「ここでは一切の魔法が使えない。そして充満する回復魔法は、どんな傷でも治療してしまう」
「何がしてえんだ……てめえは……」
一瞬だった。パトリックが反応できない程のスピードで、エステルは彼の右目にナイフを突き立てた。激痛と恐怖。暗闇。そして、すぐさま戻った視界には、血の滴るナイフを握った彼女の姿がある。
「はっ……はあっ……あ……」
右目に手をやる。傷は、治っていた。まるで何ごとも無かったかのように。
「クソッ……何がどうなって……」
「痛かったでしょ……。今から君とボクで、我慢比べといこうじゃないか」
「あれは……」
観覧席は静寂に包まれていた。目を見張るトビー。隣に座るウィリアムも首を傾げながら、
「うむ……ドーム型の結解は封印魔法の一種だな。あの中では魔力を一切使えない。また術者が解除するまで、あれは決して破られないように出来ている」
「しかし、パトリックの左腕は回復していますよ? 今やられた右目の傷も、一瞬で治ってしまった。あれは魔法の効力じゃないんですか?」
「それは私にも全く分からん。封印と回復の魔法を組み合わせた、彼女独自の技なのだろう」
確かに戦場では、負傷者を一時的に保護する目的で、医療魔導士があの結解を使用することもあると聞く。それは封印魔法本来の使い方とはまるで異なるが、物は使いようと言ったところか。外部の干渉を一切許さない強力な結解。敵を封印するだけでなく、それは味方を守る為にも活用することができるのだ。
しかしあれは、誰もが容易に習得できるような代物ではない筈だ。少なくとも王宮魔導士で、現状あの封印魔法を習得している者は一人として存在しない。ましてや、自身の得意魔法と組み合わせて使う者など……。
「エステル・スチュワートか。とんだ逸材が隠れていたものだ」
ウィリアムは焦っていた。トビーは彼女を退学させ、今すぐにでも軍へ引き込むつもりでいる。これから魔法使いとしての心得を学び、やがては王宮魔導士として、崇高なる使命に身を捧げる予定の幼き少女を、汚濁に塗れた軍人の世界に引きずり込もうとしているのだ。
全く不愉快極まりない話である。優秀な魔導士候補生を、これ以上軍に奪われてなるものか。
「あ、ウサギさんだ」
エステルとパトリックが激闘を繰り広げる中、第六位のシャーロットは呑気にも、巨大な森に生息する様々な動物たちとの触れ合いを楽しんでいた。魔鉱石はまだ一つも発見できていない。にもかかわらず彼女は、
「ほら! こっちおいで!」
どうやら彼女は本来の目的を忘れてしまったようである。丁度良い高さの切り株に腰掛けると、寄ってくる動物たちを撫でてみたり、つついてみたり、時には抱きかかえたりして、彼女は自然との交流に夢中となっていた。その様は幸福に満ちている。まさかランカー同士の殺し合いに身を投じている者とは思えないほどに、彼女の表情は優しく綻んでいるのであった。
「君たち可愛いねえ」
「可愛いのはお前だよ」と、スクリーンを見つめる多くの観衆たちは心の内でそう呟いた。同時に繰り広げられている、エステルとパトリックの凄惨な死闘に耐え切れなくなった一部の生徒らは、シャーロットの天然でマイペースな言動に、何とか救いを見出していたのである。四年ぶりに死者を出した今回の模擬演習。既に観覧席には異様な空気が漂い始めていた。そんな中、可憐で穏やかな彼女の姿は、観衆たちにとって一服の清涼剤となっていたのだ。
「あ、君は魔獣だね?」
ウサギの目は赤黒く濁っていた。時折見え隠れする鋭い牙からは、毒々しい紫の液体が滴っている。
「よしよーし」
シャーロットは噛みつこうとするウサギを両手で抱きかかえると、優しく背中を撫でつけた。するとその魔獣は嘘のように落ち着いて、彼女の腕の中で小さな鳴き声を発しながら、まるで飼い主に甘えるペットのように体をすり寄せてきたのである。
彼女はしばらくそのウサギを抱えながら、森の中で静かに座り込んでいた。するとウサギは不意に彼女の膝から飛び降りて、草木の間に消え去ると、ほどなくして再び姿を現すのであった。
「わあ、いっぱいだ!」
どうやら仲間を連れてきたようである。十羽、いや、二十羽にも及ぶだろうか。
魔獣も懐けば可愛いものである。実際、その生態は通常の動物と左程変わらない。違いは魔力の有無だけなのだ。「恐らく魔獣とは、魔力汚染によって突然変異を遂げた動物なのだろう」という最新の学説を、彼女はここ魔法学校で最も敬愛する、生物学担当のシドン教官から教わっていた。
「人間にも魔力の有無があるのと同じさ。君も魔力を有しているけれど、化け物じゃあないだろう?」
シドン先生はそう言ってくれた。私の噂を知ってか知らずか……いや、そんなことはどうでもいいの。私はその言葉に心を救われた。だから私は、魔法生物に興味を持つことができた。この子たちは、もしかしたら私と似た存在なのかもしれないと、そう思ったから……。
何やらウサギたちは、シャーロットに伝えたいことがあるようだ。少し進んではこちらを見、また進む。まるで「着いてきて」と言っているように。彼女は慌てて立ち上がると、小走りでウサギたちの後を追いかけていくのであった。
「おとぎ話の主人公みたいですね。ほんと、可愛らしい子だ」
トビーはそう呟いて、隣のウィリアムに目を向けた。やはり思った通り。彼は眉間にしわを寄せ、鬼のような形相でスクリーンを睨み付けている。
「魔獣を手懐けておるな……」
「珍しい光景ですよね? 私も初めて見ましたよ」
「ああ……本当に不気味な女だ……」
己の理解の追いつかぬ物事から、アンタはそうやって目を背けようとする。それとも娘の敵が憎いのか。キーラは彼女に敗れて、第六位の地位を失った。当然だ。誰も彼女に勝てるわけがない。先人たちの知恵を侮り、その一方で、進化をも否定する愚かな魔導士連中が、あの「奇跡」を相手に勝利を収めようなど。
……しかし生徒は優秀な人間が多いな。次世代を担う若者たちは、是非とも腐った老害共に惑わされず、進むべき道を選択して欲しい。
大魔導長ウィリアム・フィングルトン。俺はアンタに感謝すべきかもしれない。軍と王宮魔導士。共に国を背負って立つ者として、直接語れば何かを共鳴し合えると、そんなささやかな期待を胸に秘めていた私に……あなたは現実を見せつけてくれたのだから……。
「魔鉱石だ! 君たちが見つけてくれたの?」
シャーロットの喜びが伝わったのか、ウサギたちは周囲を軽快に飛び回り、まるで彼女の問いに答えるかのように、各々鳴き声を上げて見せる。
薄い青色の光を帯びた魔鉱石。周囲に魔獣除けの簡単な結界が張られる中、それは黄金色に輝く、何とも大仰な台座の上に置かれていた。
これで一つ目だ。シャーロットは魔法の杖を取り出すと、周囲の結界を解除して、台座の上の魔鉱石に手を伸ばす。しかしその時……。
「天は、この俺に味方したようだな」
不意に響いた男の声を聞き、魔獣たちは一斉に逃げ出した。シャーロットは急いで魔鉱石を手にすると、魔法の杖を振り向けて、
「あなたは……」
「アイザック。まさか君と戦うことができるなんて、実に光栄だ」
アイザック・ハーパー。学内順位はミカエルに次いで第二位。馬車に乗り込む直前に、リサから言われた台詞が脳裏に蘇る。ミカエルが棄権扱いとなった今、最も警戒すべきはこの男だって……。
「君が相手なら、全力を出しても構わないだろう」
アイザックの手元に、一振りの淡い光を帯びた剣が現れる。シャーロットは目を丸くして驚いた。
「それ……もしかして……」
「はは、ビックリしただろう。 そうだ、これは君の槍と同じ。……選ばれし者のみが扱える聖剣だよ」