異世界転生
それは受験を目前に控えた、中学三年の夏の出来事であった。
うだるような暑さの中、長瀬理沙は受験勉強のために図書館を訪れていた。しかし普段から怠けてばかりの彼女が勉強に集中できるはずも無く、持参した新刊のファンタジー小説を読んでみたり、端末で最新のアニメを視聴したりと、目の前の課題から逃げ続けること一時間。ふと背後に気配を感じて振り返ると、そこには色白で背の高い、帽子を目深にかぶった妙な恰好の中年男が佇んでいた。
「お嬢ちゃん。ファンタジー小説が好きなんだね」
片言のぎこちない喋り方。ぞっとした理沙は急いで鞄を手に取ると、小走りで図書館を後にした。なにあれ、気味悪い。ずっと後ろに立っていたのかな。もしかして変質者?
恐怖を覚えた彼女はその足で、わき目もふらず近くの商店街を走り抜けていった。もう少し行けば友達の家がある。急だけど、少しだけ上がらせてもらおうと、理沙は必死に友人宅への道を急ぐのであった。
「先生も言ってたよね。夏休みは不審者に注意しろって」
理沙は小さく頷いた。友人は続けて、
「理沙ちゃん可愛いから、ほんと気を付けなよ」
その後二人は宿題の話から、最近推しているアイドルの話。終いには恋愛相談に華を咲かせ、気付けば時刻は午後七時。夏の日は長いとはいえ、すでに太陽は東に大きく傾いている。少しおしゃべりが過ぎたかな。
すっかり元気になった理沙は笑って手を振ったが、玄関口で彼女を見送る友の顔は、何とも言えぬ神妙な表情に覆われていた。
自宅までの距離はさほど遠くない。が、それでも徒歩で二十五分。絶妙な距離である。あと一年でバイクの免許が取れると、この前クラスの不良の男の子が騒いでいたが、確かにバイクがあれば少し便利かも。私は体力ないし。自転車で通学するのも結構しんどい。ふつうは陸用自動車の免許が取れる十八歳までみんな待つって言うけれど、試しに小型バイクの免許でも取ってみようかしら。ちょっとカッコいいじゃん。でも、お母さんが許してくれないだろうな……。
それから理沙は現実の思考を離れ、大好きなファンタジー世界の空想に没頭した。異世界転生したら魔女になっていたり、貴族令嬢になっていたり、素敵な王子様と結婚したり。そんな夢想的な世界に思いを馳せていると、早く新刊の続きが読みたくなってくる。魔法学校が舞台の小説で、女の子が強力な魔法を武器に戦う物語だ。理沙は早足で帰路を急ぎながら、
「あーあ。私も異世界に行って、魔法使いになりたいなあ」
この現実世界にも、実は魔法や超能力を使える人がいるらしい。端末で見た都市伝説の類に過ぎないけれど、千里眼とか未来予知とか。とある預言者の話によると、今年は世界に大変革が起こる年なんだって。一体何が起こるのか。少しワクワクする。
「……へえ。お嬢ちゃん、魔法の世界に行きたいんだ」
薄明の中。人気のない路地を振り返ると、またしてもあの男だ。図書館で声を掛けてきた、背の高い怪しげな中年男である。理沙はぞっとして足を竦ませた。
「おじさんが連れて行ってあげようか?」
「逃げなきゃ」頭の中でそう意識したものの、足が全く動かない。家はもうすぐそこなのに。やっぱり自転車で行けばよかったんだ。それか魔法の力があれば。新キャラの能力、何だっけ? あの子。主人公のライバルになりそうな。ああ、私も魔法が使えたら………。
男は早足でこちらに迫って来た。街灯の明かりがぱっと煌めき、一斉に消える。激しい衝突音と爆発音。空から自動車が降ってくる。慟哭、悲鳴、絶叫、けたたましいサイレンの音が辺りに響く。あっと声を上げようとして、理沙は意識を失った。
「リサ・オズボーン、十六歳。魔法学校第七期入学の一年生。戦闘魔法学を専攻。成績は中の上。それなりに優秀な生徒ではありますね」
ドーランド王国の首都ベルタウン。世界で最も豊かなこの先進都市から、西に進むこと凡そ百キロメートル。広大な草原と「栄光の森」を抜けたところで、王立魔法学校の巨大校舎がその姿を現す。もとは敵国の侵入を防ぐための城塞であったらしい。今は魔法学校を象徴する建築物として、およそ四百五十名の生徒たちに広く親しまれている。
「しかし彼女は孤児だろう。出自不明の異国人に、そんな大役を任せて良いものかね……」
職員棟の一室では、魔法学校の教官五名が円卓を囲みながら、何やら神妙な顔つきで会議を進めていた。白髪の重役らしき老人に疑問を投げかけられた後、若い男の教官は頷くと、
「ええ。むしろ彼女が適任でしょう。これからやって来る編入生も、リサと同じ「特殊な」事情を抱えた少女ですから」
「分かった。全て君に任せるとしよう。して、その編入生の名は?」
「シャーロット。とだけ聞いております」
「むう……」
重役の老人は少し考え込むそぶりを見せた後、円卓を叩いて会議の終了を合図する。
この魔法学校が開設されて以来、編入生の受入れは原則的には不可とされてきた。それも試験も受けずに入学するなど、全く前代未聞の話である。
が、そのシャーロットなる少女は非常に複雑な事情を抱えていた。異論を差し挟む余地などなかった。その複雑怪奇なる事情のために、教官たちは皆、彼女の入学を拒否するわけにもいかなかったのである。
「ただいまー。今日も疲れたよ」
誰もいないはずの自室に向かって、リサは独り言のつもりでそう呟いた。ルームメイトは入学から一か月も経たずに学校をやめた。事情は聞いていない。が、ある程度察しはつく。魔法学校の現実はとても厳しかった。誰だって、辛い思いをしてまで、一流の魔法使いになりたいわけじゃない。
今日は夏休み明けの登校日。魔法学校の生徒たちは束の間の休暇を終え、元の日常に戻っていく。それはリサも同様であった。初日は学長の長ったらしい話を聞き流し、成績優秀者の大層な演説姿をぼんやりと眺めながら、特に楽しいこともなく、午後二時に下校を迎える。重い足取りで寮の自室へ戻り、誰もいない部屋で一人、黙々と課題に励むのだ。
そう、思っていた……。
「初めまして! 同居人のシャーロットです!」
誰もいないと思い込んでいたリサの眼前に、部屋の中央で大荷物を広げようとしている、可憐な一人の少女の姿が現れる。それは花のように美しい少女であった。陶器のごとく滑らかな、きめの細かい乳白色の素肌。すらりと伸びた腕と脚。ちいさくて華奢な体躯。長く伸ばした艶やかな金髪の隙間からは、涼しげなグリーンの瞳が覗いている。
呆気に取られ、挨拶すらも忘れてしまうリサ。そんな彼女に対してシャーロットは、
「ベッドは下で大丈夫ですか? その、上の段は使ってるみたいだったので」
「え、ええ……」
赤面しながら、慌てて二段ベッドのはしごに手をかける。そして寝巻や靴下、下着が散乱した有様を見ると、――それは今朝の自分が作り上げた惨憺たる光景であったのだが――、彼女はがっくりと項垂れて、
「汚くてごめん……」
梯子を下り、シャーロットの方を見向きもせずにそう答えるリサ。クソ教官め。新しいルームメイトが来るなら前日に伝えておけよ。そう心の内で悪態をつきながら、彼女は乱れた精神を鎮めるべく、自身の学習机に向かうのであった。すると今度は耳元で、
「お勉強ですか?」
心臓が飛び跳ねそうになる。距離感バグってるんじゃないの? 声も可愛いし、いい匂いするし……。
「えと、宿題。教練の内容と課題点をまとめてるの」
「わあ、大変そう。わたし勉強苦手なんですよね」
少し困ったように呟くシャーロットであったが、リサの内心はそれどころじゃない。
「私も勉強は嫌い。でも、好きなことなら頑張れるんだ……」
事実、リサは座学の成績もそれなりに高かった。現実世界では全く身に付かなかった勉強癖が、ここではすんなり定着したことに、彼女自身も驚いているぐらいである。なぜか文字も読めるし、会話も交わせるのだが、これは異世界転生のお決まりといったところだろう。
そう、私は異世界転生を果たしてしまったのだ。
あの中年男が本当に連れてきてくれたのか。それとも彼は不審者で、私はあのまま殺されてしまったのか。もしくはただ長い夢を見ているだけで、今頃私は自宅のベッドですやすやと眠っているのかもしれない。
いずれにせよ、今私の目の前には異世界の光景が広がっている。そして私は、夢にまで見た魔法の力を手に入れたのだ。
手に……入れたはずなのに……。
「よろしくね、リサ!」
この世界に来てから嫌な事ばかりだった。しかし彼女の笑顔ときたら……まるで天使の様である。
「うん……よろしく……」
憂鬱な学園生活に、一筋の光が差し込んだ。シャーロット。彼女は私の救世主なのかもしれない。
こんなことなら転生なんてしたくなかった。そう思わされた半年間であったが、ようやく転機が訪れたのだ。
でも……彼女と仲良くして、本当にいいのだろうか……。
翌日の昼休み。校内の食堂にて、編入生のシャーロットはリサと向かい合わせに座りながら、豚肉ステーキを目の前に、顔を真っ青にして固まっていた。
一方のリサは状況を察して絶句した。彼女はきっと、ナイフとフォークの使い方も分からないのだろう。そればかりでない。午前の歴史の授業では自国名のスペルを間違える。首都の名前も分からない。極めつけは、
「これが魔法の杖。本当に使ったこと無いの?」
彼女は恥ずかしそうに頷いた。午後には戦闘教練がある。珍しい編入生ということで、ただでさえシャーロットは注目されているというのに、これではいい笑い物になってしまう。リサは慌てて彼女に提案した。「昼食はすぐに済ませて、一緒に特訓しよう」
しかし、これでは昼食すらまともに進まないではないか……。
「ナイフは利き手。フォークはその逆。ほんとに知らないの?」
ふとシャーロットの顔をみると、今にも泣き出しそうな表情である。彼女は午前の授業からパニック状態に陥りかけていた。自身の世間知らずを痛感させられ、また一度に多量の情報を脳にぶち込んだことで、彼女の頭はパンク寸前の状況に追い込まれていたのである。
「ごめん……」
彼女の切羽詰まった表情を見て、リサは動揺のあまり謝罪の言葉を口にした。するとシャーロットは、
「だ、大丈夫。わたし頑張るよ!」
やはり可愛い。でも、ここは心を鬼にしなければ。魔法学校は実力主義の厳しい社会である。座学や常識は一旦置いとくにしても、魔法の実力が足りないと知れ渡れば、きっと彼女は辛い目に合ってしまう。
ナイフを右手に、フォークを左手に握りしめ、ぎこちない仕草で食事を始めるシャーロット。リサはその様子を見つめながら、いよいよ一層決意を固くした。
「お、リサだ。久しぶりじゃん」
不意に声を掛けられて、リサはまたしても動揺しながら、
「アラン……」
アラン・カークランド。彼はリサの数少ない知人の一人であった。ウェーブのかかった茶髪を無造作にかき上げて、高い目線から鋭い眼光をこちらに向けている。その視線にドキリとして、リサは思わず俯いた。
「ちょうど食事相手を探してたんだ。隣、いいかな?」
「いや……その……」
リサは困った表情でシャーロットを見た。アランもつられて彼女を見る。しかし彼女は気付かずに、目の前のステーキと格闘するのに必死な様子である。
「例の編入生か。変わった子だよな……」
そう言って、アランは躊躇なくリサの隣に腰掛けた。香水の匂いが鼻をかすめる。同級生だと言うのに、この男には妙な色気がある。恵まれた体格と端正な顔立ち。学内でも密かに彼を慕う女子は多い。その理由は、何も外見だけによる訳ではないのだが……。
「難しいよ、これ。フォークだけで食べたほうが簡単だよ」
シャーロットは必死である。目の前の豚肉をいかに食するか。いま彼女の頭には、それ以外の思考が存在しないのだろう。リサとアランは顔を見合わせて、思わず二人でふき出してしまった。
「あ……」
ようやくアランの姿に気が付いたシャーロットは、慌ててフォークから手を離し、口をもぐもぐさせながら水を飲むと、
「初めまして! シャーロットです!」
「おお……。アランだ。よろしく」
心なしか、アランの表情がいつもと違うように見える。気のせいかもしれないけど。
リサは彼の顔を見て、少し複雑な心持ちになっていた。嫉妬じゃない。彼に対して、恋愛感情を抱いているわけでも無い。でも……。
シャーロットは美人だ。女の私から見ても恐ろしい程に綺麗だ。だからこそ、何となくアランの反応を目で追ってしまう。すると彼はこちらの視線に気が付いて、
「もう校内は案内した? まだなら、俺も付き合うよ」