8 生者と死者は、そして
どこまでも続いていく青空と同じ色の冴え冴えとした瞳に滲むどす黒い負の感情に、狼狽えた俺は口に出そうとしていた言葉を見失ってしまう。
ヘイゼルの怒りが何に対するものかさえ知らないのに、その猫のように華奢で小柄な体が抱いている憎悪に気圧されてしまうのだ。
「……ダイアナをあそこまで追い込んだのはあの子の家族、そして私。クリフの一族がどんなに狂っているのかは、私も身をもって知っています――彼ら以外の人を人だとも思わない、排他的でいながら暴力的な人たち。彼らにされたことを忘れることも叶わず、私は悲しみと怒りのままに森の中を彷徨い続けているのです」
どす黒く汚れたスカートの裾を強く握って俯いた彼女の波打つ赤い髪が肩を滑り落ち、彼女の表情をすっかり覆い隠した。
低く抑えつけられた声は濡れていて、ヘイゼルという人間が抱えているものを全て曝け出しているように思えた。
暫くして顔を上げた彼女は、赤く充血した目をこちらに向けることもなく、天を仰いでそちらに腕を伸ばす。
光に照らされた彼女の白い横顔は鳥肌が立ってしまう程に美しく、見開かれた水を含む瞳は輝いていた。
「けれどあの子は違う。ダイアナだけは、あの子だけは私の希望――もしあの子が貴方を救いの光だとみなしたのなら、私はどんな手を使ってでもあの子の所へ貴方を導きましょう。あの子を私の身勝手で傷つけてしまった代償は、なんとしてでも払わないといけないのです」
ヘイゼルが抱えている感情が分からない。クリフの一族が彼女に何をしたのか、どうして彼女はダイアナに希望を見出しているのか。
自分よりも幼く見える少女が見せる大人びた――否、諦めた目。
郷愁にふけるように数度瞬きをした彼女が深く息を吸い、震える瞼を閉じた。
薔薇色の唇が祈りの言葉を紡ぐように動き、金色の睫毛が輝く。
「……ダイアナはどんな目に?」
苦し紛れにそう尋ねた。上手く息が出来ずに窒息してしまいそうな苦しさを抱えたままで、一体どうすればいいというのか。
ダイアナに惹かれていたことを知ってしまった以上、彼女を追い詰めた存在を知ろうとせずにいることは苦痛でしかないのに。
緩慢な動きでこちらに首を向けたヘイゼルの髪が揺らめく。
どこか冷めたような目付きをした彼女は、ひとつの浅い溜息をついた。
「あの子の遺体の傷をご覧になったでしょう? それが答えです。ダイアナはいつもひとりで泣いていました」
唇を噛む。あのダイアナの父と従兄弟が彼女に何かをしていたのだろうか、昨日彼女が従兄弟の話を口にした時に見せたあの暗い表情を思い出す。
もしダイアナを連れ戻すことが叶うなら――その時は必ず、彼女をアーベントから引き離さなければならない。
そうしなければ彼女は苦しみ続けるだけだ、また生き返ったところで何の意味もない。
怒りに震える拳を握る。見据える先にあるのは、岩肌にいくつも穴を開けている山だ。
穴と穴同士を宙に浮く線路のようなものが繋いでいて、その上をトロッコのようなものが走っている。入り組んだ工場のような格好の建物がいくつも煙突を伸ばしているのを見るに、そこは工業地帯を模したものなのだろう。
その煙突からは何も出ていないが、あの外縁部の無臭の道しかり、きっと死者の国では人工的に作り出された物は見かけは取り繕えていても、結局はただの張りぼてに過ぎないのだ。
「あそこにいるんだな?」
「きっと。けれどその先が長いのです、あそこではここに居場所のない方々が自分たちだけの世界を作り上げていらっしゃる場所ですので。ただ……然るべき時が来れば彼らは『無』に還ってしまうのですけれど」
「どういう意味だよ、それ」
「そのままの意味です、ここ死者の国は再び生まれるつもりのない方々のための場所ではありませんから――それよりも急ぎましょうか、私もあの子に早く会いたいのです」
体を支えるように壁に手をついた彼女が山へと続いていく道を再び辿り出す。
体を横にしてようやく通れるくらいに狭い道を通り、家々を区切る塀や柵を乗り越えたり、入り組んだガス管に足を掛けて飛び越えたりした。
路地を抜けた先を暫く走って行けば今度は平原に出る。所々に水の溜まっている凹凸のある地形を走り抜けたその先に、その山はあった。
ヘイゼルに導かれるまま歩いていけば、鉱山の入口のようなトンネルを見つけた。
一体どんな動力源で動いているのかは分からないし構造も分からないが、そこから敷かれているレールとトロッコを使って山を登っていくらしい。
木の板に覆われている入口は暗く、壁には苔が生している。似たような入口は他にもあったが、ヘイゼルが「こっち」と指さす方に従った。
「――やあやあ、お二人様、こちらに御用ですかな?」
先にトロッコに乗り込んだヘイゼルに続こうと片足をへりに掛けた時、不意に後ろから甲高い老爺の声が聞こえてきて足を滑らしかけた。
慌ててトロッコにしがみついてさっさと中に飛び込んでから振り返ると、嘴の尖った妙なマスクを被った異様に頭が大きい人間のような何かが、梟のように首を曲げてこちらを見ていて。
「おお、おお、これはまた若いお二人ですな。そのような御方達が何故にこのような場所に?」
「貴方には関係の無いことでしょう、ルーヴェ」
「これはこれは、ヘイゼル様ではありませぬか! ご無沙汰しておりましたぞ!」
金属音のような叫び声が耳をつんざく。全身を覆う黒い布を肩からさげた、その男か女か人間なのかさえも分からない鳥のようなルーヴェとやらのことを、どうやらヘイゼルは知っているらしい。
冷ややかな目線を化け物に向けた彼女が「ダイアナ・クリフを知っている?」と、突き放すような声音を発して。
「私の大切な友達なの」
「ダイアナ・クリフでございますか。ああ、そのような者もいたような――」
「本当か!?」
咄嗟に出た大声にルーヴェがわざとらしく大きく仰け反り、腕を広げて「うるさい餓鬼め!」と嗄れ声で悪態をついた。
「その子の所に私たちを連れて行きなさい、急いでいるの」
「それは構いませんが、何故この餓鬼をお連れなさるのです?」
「黙りなさい、お前には関係ありません」
「おお、おお、貴女様もそう仰るようになられましたか。深くはお聞き致しません、どうぞごゆるりと」
ルーヴェが恭しく礼をすると、それと同時にトロッコが轟音をたてて動き出した。
同時に坑道に星のような橙の明かりが一斉に灯り、数秒も経たないうちにがたがたと激しく揺れながら火花を散らしてレールを辿り出す。
「あの鳥みたいなのは?」
「ルーヴェはここの管理人です。生者でも死者でもありません、きっと貴方のことも勘づいていることでしょう」
「君、やっぱり本当は――」
「グレイソン、私のことは今は気にしないでくださると嬉しいです」
へりに頬杖をついて閃光のように過ぎていく光を眺めるヘイゼルの横顔を見た。
妙に時代の古い衣服、骨と皮だけの体、傷だらけの手足。
出会った時から感じていた違和感が、ここに来て最高潮に達しつつある。
「特別」という言葉で誤魔化して死者の国という御伽噺のような馬鹿げた場所を堂々と闊歩して俺を導いている彼女は、やはりとうの昔にダイアナと似たような末路を辿った人間なのではないだろうか。
彼女はまた「あの洞窟は唯一生者と死者が互いを行き来できる場所だ」とも言っていた。何らかの条件が必要だとかどうこうの話は分からないが、それ自体はどうでもいい。
あの気味の悪いルーヴェとやらとの関係性を考えても、ヘイゼルが自分と同じ存在であるとはもう到底思うことができなくて。
ほんの一瞬、トロッコが洞窟から外に出た。顔に強く吹き付けた風に目を眇め、宙に浮いたレールの向こう側にある街を見る。相変わらず雲の無い空に、藍と朱が僅かに混じり始めていた。
今頃アーベントでは大騒ぎになっているのだろうか――叔母と叔父も帰ってこない俺とダイアナを心配して、もしかするとアーベント中が俺たちを捜しているかもしれない。
集会所で勉強を教えるという約束も守れていないし、来るかどうか迷っていたジェシーとチャーリーは結局どうすると決めたのだろう。
ふと、今ここにいることが酷く恐ろしい行いのように思えて心臓が縮んだ。
あんなに逃げたかったはずのアーベントという町に戻りたいと思う――母オフィーリアを亡くしたのは自分だけではなく、夫である父もだ。
下手を打ってしまえば、父は愛していた妻も一人息子も失ってしまうかもしれない。そうなってしまった時、父はどれだけ苦しむのだろうか。
「帰れるのかな、俺は」
抱くにはあまりにも遅過ぎる疑問は、再び坑道の中に戻っていくトロッコの轟音に掻き消された。
愛すべき空は消え、またあの星々のような数多の明かりが視界の横を過ぎていく。
無限に思える時間を経てトロッコがようやく止まった時、天井に丸く空いている穴から覗く空はインクを零したように真暗になっていた。