表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/40

6 蜘蛛の糸

残酷な描写があります


 ダイアナ、と、彼女の名を呼んだ。


 震える足を必死に動かし、宙に浮いている体に両膝をついて縋り付く。首に巻かれた縄は、岩壁に雑に打ち付けられた木の柱から垂れていた。


 脳裏に母の最期が過ぎる。

 呼吸が出来ず、真赤な顔で痙攣する母。慌てた看護師が呆然とする俺を母から引き離したが、あんなに穏やかで理知的だった母のあの動物めいた姿を今でも夢に見てしまうのに。


「なあ、嘘だろ、頼む、ダイアナ――」

「嘘ではありません」


 ダイアナの体をおろそうと必死になっている俺の背中に、無慈悲な声がかけられる。「どうして止めなかったんだよ」そう尋ねた声は自分の予想よりも酷く震えて裏返っていて、そして濡れていた。


「貴方があの子の何を知ってるというのですか? 何も知らないでしょう、ねぇグレイソン、貴方はここの人間じゃないから」


 片手で彼女を抱き抱え、ナイフで引きちぎるように縄を切り落とす。がくんと揺れた頭に手を添えて、固く冷たい床に寝かせる。

 灯油ランプの光が照らしたその顔は鬱血していて瞼も開いているのに、まるで人形のように綺麗な顔をしていた。


 細い手首に手を伸ばして触れてみても、脈は感じない。本当に彼女が遠くへ行ってしまったのだと思い知らされた俺の心臓に、無数の針が刺さる。

 これは夢なんだといくら自分に言い聞かせても、鮮明な指先の感覚と妙に冴えた頭がその願望を嘲笑うかのように打ち破るのだ。


「なんで……」


 どくどくと心臓が跳ねる。

 浅く息を吸って、吐く。

 腕が震えて、力が入らない。

 ああ駄目だ、本当に、本当にこれは現実なのか――信じたくない光景は、夢だと思いたい光景は、何度瞬きを繰り返しても真実のままだ。


「この子が何年も苦しんだ末に下した決断に、大してダイアナを知りもしない貴方が何かを言える立場であると?」

「……昨日約束したんだ、一緒に集会所に行こうって、これからも一緒にいようって。それなのにどうしてダイアナは……なあヘイゼル、どうしてそんな態度でいられるんだよ、クソ、なんなんだよ、こんなの……」

「ええ、だってもう起こってしまったことですから」


 たった一日だろうがなんだろうが、俺たちは確かに友人だった。


 豊かな焦げ茶の髪を夕陽に透かして黄金色に燃え上がらせ、宝石のような薄緑の瞳を細めたダイアナは誰よりも美しくて――彼女の人柄も碌に知らないのに、数時間一緒に過ごしただけでダイアナ・クリフという少女に惹かれたのだ。


 彼女のことを知る時間は無かったし、そもそも与えられなかった。


 靴さえも履いていない彼女の頬や額、手の甲の昨日には無かった深い傷の理由も知らないし、もう知れることはない。だって彼女はもう死んだのだから。


「どうせ君は文句をつけてくるだろうけど、もしかするとこうならないように出来たかもしれない。余所者だからこそダイアナを殺した悩みをどうにか出来たかもしれないじゃないか」


 虚ろに開いた瞼を指で下ろす。昨夕、別れ際に彼女は何かを言おうとして諦めていた――もしその時引き留めて話を聞いていれば、その苦悩をどうにかするための策をいくらでも講じられただろう。


 後出しでの仮定はいくらでも出来るし無意味だとは分かっているけれど、このまま割り切ることは到底出来そうになかった。

 

「グレイソン」

「なんだよ」


 ヘイゼルの気配が後ろから近付いてくる。今までろくな物音を立てたことのない彼女の細い声が、暗闇の中から不意に姿を現した。


「こんな洞窟でダイアナが死を選んだのはどうしてだと思いますか?」


 何を馬鹿なことを、と、自分の顔が醜く歪んでいくのがわかる。


 目の前で人が――それも彼女とも親交があったのだというダイアナが自死をしたというのに、それなのに何も感じていないかのような、こうなることは当然のことだったのだとでも言いたげな顔で俺の顔を覗き込んでいるのが理解出来なかった。


 歯軋りし、ヘイゼルの目に目線を向けて睨む。裸足のままでぶら下がる彼女に、どんな事情があったのかなんて俺は知りやしないのに。


「さあ、自分を誰にも見つけてほしくなかったからなんじゃないか? 君が言ったんだろ、ここなら誰に見つからないって」 

「ええ。だってこの洞窟に入ることができるのは本当に限られた方だけですから」


 彼女が言おうとしていることの意味が分からない。

 亡霊のように立つ彼女に「何を言いたいんだ」と尋ねても、彼女はまた要領を得ない様子で首を横に振った。


 辺鄙な場所にある入口の狭い洞窟に気付き、その上中に入ろうと思う人間なんて一握りしかいないだろうし、それにヘイゼルが知らないだけでここの洞窟に入った人間は他にもいるのではないか、と思う。


 それから彼女は俯いて、腹の前で傷だらけの痩せた指を組んだ。

 その仕草が妙に大人びていて、見た目に反して自分よりずっと年上なのかもしれないな、と、考える。


「馬鹿げた話だと思っていただいて構いません――そこの割れ目が見えますか?」


 そう言ってヘイゼルが指差したのは、ダイアナが首を吊っていた空間の奥にある壁だった。


 そこは取り立てた特徴の無いただのありふれた岩壁だったはずだが、言われるままにそちらに光を向ける。

 すると、そこには先程までは確実に無かったはずの深い亀裂があった。


 あまりのことに呆気にとられ、恐る恐るそこへ手を伸ばす。


 インクで塗り潰したかのような闇が蠢くそこは、いくら光を当てても正体を表さない。

 指先を入れてみると向こう側に吸いこもうとする強い風のようなものが吹いて、反射的に手を引っ込めた。


「これは……」

「“向こう側(・・・・)”です」

「……“向こう側”ってなんなんだ?」

「『死者の国』です」


 眉尻を下げ、そうヘイゼルが微笑んだ。


 「つまらない冗談はやめろ」と彼女を一蹴することが出来たら良かったのに、強く締め上げられた心臓が激しく警笛を鳴らしている――ここは危険だ、今すぐここから離れなければ取り返しのつかないことになる、と。


「もしダイアナを連れ戻すことが出来るかもしれないとしたら、貴方はここに入りますか?」 


 俺の肩に手を置いた彼女の巻き毛の一房が、その薄い肩を滑り落ちて俺の頬にかかる。

 冷たい空気が鼻の奥を突き刺して、嗚咽するように息を吸って吐いた。


 馬鹿げてる、あまりにも馬鹿げてる。


 こんな嘘に騙されるわけにはいかない――そう思っていながら、蜘蛛の糸のような彼女の言葉に僅かな希望を見出し、それに必死に縋りつこうとする哀れな自分がいる。


「……この先にダイアナがいるのか?」

「ここはこの世界で唯一“向こう側”と繋がっている場所です。あの子がここで命を絶とうとしていた理由を思えば、きっと会えるはず――貴方がダイアナに会おうとするのなら、ですけれど」


 横たわる死者の顔を見る。

 夕陽の中で「それじゃあね」と手を振っていたあの彼女の姿を、最後の記憶には絶対にしたくない――震える手を膝の上で握り、「行くに決まってるじゃないか」と声を張り上げた。


 まるで全てを知っているかのように話すヘイゼルは怪しかったが、行こうと思わない理由が無い。灯油ランプを腰に提げ、深く深呼吸した。

 もし帰って来れなくなってしまったとしても、別に構わないとさえ思えた。どうせどこにも居場所は無いのだから。

 

「目を閉じて。怖がらないで、そうしたらきっとすぐに綺麗な景色が広がりますから」


 導かれるように瞼を下ろし、言われるがままに立ち上がって亀裂に足を踏み入れる。


 突風が背中を押し、それから底無しの穴に転落していく感覚が体を襲う――内臓を締め上げられるような息苦しさが胸を圧迫し、散らばりそうな四肢を必死になって抱え込んだ。


 どれくらい経ったかも、上下左右の感覚も分からない。

 永遠とも思えるような長い時間が過ぎた後、不意に固く閉じた瞼の裏に赤と光が透けた。

 

 鼻腔に広がる大地の匂いと、頬を勢い良く撫でていった強い風。

 掌と足に感じた、僅かに湿った草原の感覚。


 小刻みに震える瞼を開くと、溢れんばかりの光が視界に広がった――雲ひとつない青空と、どこまでも続いていく緑の野原。黄色や紫の小さい花々で溢れた中に、俺は立っていた。


 人生を燃やし尽くした巨匠が最後の力を振り絞って描いたような、そんな理想的な楽園。

 今まで見たことがないくらいに美しい光景が広がるそこは、全てを超越した先にあった。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ