5 宙ぶらりん
残酷な描写があります。
「は」と、引き攣った声が漏れた。
視界の四隅が暗くなって明滅し、心臓が激しく鼓動し始める。
ダイアナがどこにもいない――昨夕に感じたあのもつれた糸屑のような不安が現実のものになってしまったのだと、氷塊を飲み込んだかのように胸に冷たいものが降りていく。
「どうして直ぐに捜さなかったんです!?」
「この時間になっても戻ってこないのは初めてでね。あの子はよく気を落ち着かせるために外に出ていたから、昨日もいつもと同じだと考えていたんだよ」
ダイアナの父の表情には酷い焦りが浮かんでいた。アーベントの男らしくない細長い体格と死神のような風貌をした彼は、家からそのまま飛び出してきたのだろうか、目の下の隈が酷く目立っている。
彼女に昨夜何があったのか問いただしたかったが、尋ねたとしても碌な答えが返ってこないだろうことは予測出来た。
あのダイアナの態度のことといい、自分のような余所者には個人的な事情を明かすことはしないだろう。それにそれよりもやらなければならないことが山積みにあるのだ。
「自分もダイアナを捜します、もう既に捜し始めてるんですよね?」
「ああ」
「この家の裏手の森はどうです?」
「まだ」
「なら自分がそこに行きます」
「グレイソン! そこには行くなと言っただろう!」
彼らに背を向け、階段を駆け上がる。叔父が咎めるように声を荒げたが、どんな理由があろうとも人の行方が知れない時に立ち入るのを躊躇っている時間はない。中が迷いやすいのなら、木に傷か何かで目印でも付けてしまえばいいのだ。
部屋に飛び込み、動きやすい服を引っ張り出して着替える。それから机の上に置いてある灯油ランプやマッチや方位磁石、ナイフを掴んで肩掛け鞄に詰め込んだ。
昨日食べようとして結局食べなかった二切れのパンの片方を口に突っ込み、もう一方は鞄に入れる。もしダイアナを見つけられたなら、きっと空腹でいるだろう彼女にそれを食べさせるために。
「考え直しなさい、裏の森は危険だ。お前以外の誰かがそこに行ってくれるだろうに」
「構いません、顔も知らない他人に期待なんかしたくないので」
叔父の制止を振り払い、外へ飛び出す。「俺も行こう」とあの従兄弟か兄かが後を着いてくる気配があったが、彼と何かを話そうとは思わなかった。
家の裏手に回り、方位磁石を確認してから陰気な森の中へ入る。ナイフで木の幹に目立つように傷をつけていき、ダイアナの名を呼びながら奥へ、奥へと目指していく。
ある程度の管理はされているのか、森に入って暫くは立ち入ることを禁じる必要は無いのでは、と思うくらいに地面は歩きやすかった。道らしき道もあったし、空も見える。
これなら案外直ぐに見つかるのではないか――そう期待を膨らませたものの、二十分も経つと叔母や叔父がああ言っていた理由が分かってきた。
地質の問題か方位磁石が機能しなくなった上、段々と地面の起伏が激しくなり、一歩でも足を踏み外せば大怪我を負うに違いない高低差が勇敢に進んでいた足を慎重にさせた。
朽ち果てた大木が道を塞いでいたり、乗り越えようとした岩や倒木の向こう側に急斜面があったり。
いつのまにかあの男の気配も消え、まるで世界と自分が完全に切り離されたようにさえ感じた。
ダイアナを見つけ出すどころではなく、自分もまたこの森に呑み込まれて永遠に出られなくなってしまうような、そんな怖気のする予感があるのだ。
広大な森の中でひとりの少女を見つけ出すという難しさに、一度引き返してあらゆる準備を整えてからまたここに来ようか、と後ろ向きな思考が脳を支配した。彼女がこの森の中にいるとは限らないし、下手を打てば戻れなくなってしまうのは自分だ。
太陽が昇って白み始めた空を見上げて溜息をつき、踵を返そうとした瞬間――視界の端で動物のような何かが動く。
咄嗟にそちらの方向へ顔を向けると、数歩離れた先で青白い顔をした赤毛の少女がこちらを凝視していることに気が付いた。
「なっ……」
まさか人がいるとは思わず、飛び跳ねた心臓がけたたましい警笛を鳴らす。
それをぼろ切れを纏っているその少女に悟られぬよう、喉奥から転がり落ちかけた叫びをすんでのところで呑み込んだ。
光の差し込まない森の中でもよく透き通る、大きな薄水色の瞳を囲う金色の睫毛が星のように瞬く。
木の向こうに体を隠した少女は、こちらの出方を伺っているようだった。
彼女が何者か分からない。けれど、もしかしたら何か知っているかもしれない――そんな淡い期待を抱き、驚きで暴れる心臓を押さえつける。
「……ああ、人を捜してるんだ。君と同じくらいか少し上の女の子なんだけど、それくらいの子とすれ違ったりはしてないよな?」
「どんな子ですか?」
その好意的な反応に胸を撫で下ろしてダイアナの背丈を手で示し、「髪は焦げ茶で目は緑がかった灰色だ」と伝えると、その少女が詰め寄るように近付いてきて、
「それはダイアナのことでしょうか?」
と、紐に通した銀色の指輪をかけている首を傾げる。それに気圧されながら肯定して頷いた時、彼女の青白い足が傷だらけであることに気がついた。
骨と皮だけで形作られている屍のような姿に気を取られている内に、彼女が冷たい手で俺の手首を掴む。
大きすぎるきらいのある瞳は息を呑む程美しかったが、まるでそこに置かれているだけの陶器人形のようで、目を合わせることは憚られた。
「ダイアナを知っているのか?」
「ええ、とても」
「……君はこの森で暮らしているのか? 怪我をしているようだけど」
「そう思ってくださって構いません。もう長いことここから出ていませんし、この怪我はいつものことですから」
瞬きもせずに穴が空くようにじっと見つめてくる彼女に本能的な恐怖を感じ、後退る。
旧世紀的な服装からするに、きっと彼女の家族が近代文明を否定的に捉える類の人種なのだろう。
エストゥーサにいた頃、技術の進歩に満ちた素晴らしきこの時代に異を唱え、山奥で千年近く前の農耕生活を再現しているという変わり者の話を何度か聞いたことがあった。大抵彼らは反革命派で、六十年以上経っても未だに暴政をふるって廃された王家を支持しているような連中なのだ。
「とにかく今はそのダイアナを皆で捜してるんだ。君とダイアナが友達なら君の所に来たりしたんじゃないのか?」
「貴方はダイアナとどういう関係でして?」
「友人だ。まさか君が彼女を匿っているんじゃないだろうな?」
問いに問い返した時点で、それは肯定と見なせるだろう。
掴まれていた手を振り払い、のらりくらりとしているばかりの彼女の両肩を掴む。何をどう言われようが、ダイアナをこんな場所に置いていくわけにはいかない。
もし彼女がそれを望んでいるのだとしても、せめて彼女の口から無事だけでも確認しなければならないのだ。
「……貴方の御名前は?」
「グレイソン=チャールズ・ボイル。無事なら無事でいいんだ、帰りたくないっていうならダイアナの口から聞きたいんだよ」
「ダイアナに会いたいのですか?」
「当然じゃないか」
「そう」少女が目を伏せる。僅かな間だけ森に射し込んだ光の柱が、彼女の赤みのかった金色の髪を炎のような赤に燃え上がらせた。すぐにその光は過ぎて行き、薄らとした肌寒さだけが森に残る。
再び顔を上げた彼女と目が合った時、臓物を全て引き摺り出されるような、そんなおぞましい悪寒が全身に走った。
「私はヘイゼル。これから何を見たとしても、どうか驚かないでくださいますね? 私はただ……あの子に自由になってほしかっただけですから」
またひとつ、心臓が波打った。
底無しの絶望と生涯かけても消えない悲しみ、そして密やかな怒り――それらが渦巻くその瞳に、呼吸が止まる。
小刻みに震えた静謐な声が、ヘイゼルという少女が背負っているもの全てを物語っていた。
背を向けた彼女が俺の手を掴む。今度は振り払えないその手は骨が浮き出ていて固く、氷のように冷たい。
彼女に導かれるままに陰鬱な森を進んだ先に、地の底へと続く洞窟があった。
木々に隠されたそこを前にして立ち止まったヘイゼルが、振り返る。
「ダイアナならここにいます」
先に行って、と促され、身を崇めてその大地に埋まった狭い割れ目に身をくぐらせた。
腰に提げた灯油ランプの明かりに頼って湿気た大地の匂いが漂う真暗闇の地底へと一歩一歩降りて行く。
頬に落ちた水滴を拭って「ダイアナ」と彼女の名前を呼ぶけれど、返事は返って来ない。自分の声が不気味に反響してくるばかりだ。
不意に酷く狭い洞窟の中が開け、体が自由になる。立ち上がって腕を伸ばすと天井に手が届き、灯油ランプを掴んで辺りを照らした。
鼠の死骸が落ちている隣に、どす黒い衣服と人間の骨のような形状をした何かが散乱している。「これは何だ」と後ろから来たヘイゼルに尋ねると、彼女は「ご覧の通りです」と細い肩を竦めた。
「こんな場所にダイアナがいるのか? 本当に?」
「だからこそ、というのが正しいでしょう。誰にも見つからないで済むのですから――ほら、あそこ」
まるで神々から天啓を授けられるように、彼女が徐に暗闇を指さす。
言われるがままにそちらに光を向けた瞬間、照らし出された光景に「な」と引き攣った声が漏れる――長い焦げ茶の髪に顔を覆い隠されたダイアナの体が、縄に吊るされて宙ぶらりんに揺れていた。