4 太陽は沈み、また
それから俺たちは間もなくオルティスさんに別れを告げ、小屋から離れた。
集会所の前で待ち構えていたらしいジェシーとチャーリーの姉弟と再び合流し、次はこっち、と導かれるままに、また賑やかな町の中心部へと引き戻されていく。
小さな劇場や露店や、それから時計台だとか。散り散りになっていた子供たちもまた集まりだして、各々が好き勝手に好きな場所へ連れていこうとしたりした。
彼らは皆あらゆる所で「これはアーベントにしか無いだろう」と自慢げに誇ってみせて、でも、やはりエストゥーサにもあるものが殆どだった。
気がつけば天高くにあった太陽は西に傾き、空は橙に染まり始めていた。
またひとり、ふたり、さんにんと子供たちはそれぞれ彼らの帰路についていく――太陽が遂に水平線と交わり始めた時、ダイアナだけが俺の隣で歩いていた。
「もう帰らないといけないね」
アーベントの中でも一位を争うくらいに夕日が綺麗に見える場所なのだ、と、彼女が教えてくれたのは、叔母の家が建つ丘の上。
温い風に吹かれた彼女の髪が橙の光に透かされ、眩い金色に輝き、生命のようにうねる。振り返った彼女の顔は、影になってよく見えなかった。
「ダイアナの家はどこに?」
「ここのすぐ近く。グレイソンはジョセフィーヌさんの家に今いるんだよね?」
「ああ」
「それなら明日一緒に集会所に行こう、私の家はこの道を下って――ほら、あの緑の屋根の家。貴方がよければ時間になったら迎えに来てくれる? いつからか始まるのか知らないから」
「分かった」
よかった、と頬を緩めたダイアナが大仰な仕草で胸を撫で下ろしたのを見て、どこか安心した自分がいる。
「……まだ帰りたくないんだろ? さっき言ってたじゃないか、従兄弟がどうのこうのって」
「ああ、それ? ……従兄弟は嫌いじゃないし、むしろ好きだし尊敬しているんだけれどね――会いたくないなあ、どうしても嫌なことを思い出しちゃうから」
海に身を半分隠した太陽が輝きを増す。それを眩しそうに眺めた彼女は、何か言いたげに視線を彷徨わせ、それから諦めたように肩を落として首を横に振った。
「とにかくグレイソン、これからも私と仲良くしてくれると嬉しいな。私たち、もっと仲良くなれる気がするの」
よくある友情の始まりを誘う言葉が、まるで懇願のように痛々しく聞こえた。
明るく取り繕った声は僅かに揺らいでいて、「それじゃあね」と手を振って背を向けた彼女の縮こまったように見える後ろ姿に、妙な不安が胸にざわめいた。もしかしてもう二度と会えないんじゃないか――と。
彼女が家まで戻るのを見届けてから、詰まっていた息を思い切り吐いた。それから彼女を家まで直接送ればよかった、と今更過ぎる後悔をして、自分も叔母の家の方向へ歩いていく。太陽はもう水平線の向こうにすっかり姿を隠し、茜色の空は紫を帯び始めていた。
「グレイソン! 早く来な、夕飯だよ!」
自分の部屋に戻り、胸中の不安を忘れようと高等数学の教本を開こうとした途端、まるで見計らったかのように叔母が夕飯の知らせを怒鳴った。
小さなジェフが兄のエルジオやレオナルドと騒いでいる甲高い声がぎゃあぎゃあと聞こえてきて、叔母の酒焼けした声が朝よりも酷く苛立っているように響く。
これではこれからも勉強をするどころか本を読むことさえまともに出来ないだろうな、と、諦めて教本を閉じ、叔母がまた怒りを膨らませる前に急いで食卓まで行くことにした。今にも底が抜けそうに軋む階段を駆け下り、「すいません」と開口一番に叫ぶ。
「あんたの席はそこだよ。チビたちがあんたの分まで食っちまう前に早く食いな、もたもたしてたらあっという間に無くなるからね」
滑り込むように椅子に座って目の前に積まれているパンの山に手を出そうとすると、対面にいた叔父と丁度目が合った。
口数の多い叔母とは対照的に寡黙な叔父は気まずそうに俺から目を逸らし、それから誤魔化すように水のように一気に酒を飲み干す。
海の男らしく体格の良い叔父は、隣で騒いでいる子供たちを気にしている様子はなかった。
「その、なんだ」
「はい」
「友達は出来そうか?」
「出来たと思います」
「誰だ?」
切り口にジャムを塗る手を止め、叔父の顔を見た。
そう問われてから考えると、まともに名前を知っているのがダイアナとジェシーとチャーリーの三人だけだということに気が付く。ダイアナはともかく、あの二人とはまだ知り合いでしかない。
「……ダイアナ・クリフと」
「ああ、あの」
合点がいったように叔父が目を僅かに見開く。
それから無造作に伸ばされている口髭をいじった彼は、
「その子とはあまり関わらない方がいい」
と、眉を顰めた。
当然そう言われても素直に頷けるわけがなく、「何故ですか」と聞き返す。なるべく動揺を表に出さないように声の揺らぎを抑えつけたつもりだったのに、自分の想定よりもその声は低かった。
「クリフ家は革命以前は貴族だった」
「それだけが理由ですか」
「いいや、知らない方がいい。ただ……あそこは駄目だ」
緩慢な動きで叔父が首を振る。
これ以上彼女について言及するのを拒んでいるのか、叔父はそれきり黙りこんで食事を摂り続けた。
明確な理由も聞かされずにはいそうですかと納得出来るはずもなく、後で叔母に尋ねてみようか、とも考えたけれど、ダイアナの抱えている秘密を明らかにしてしまうような気がして気が引けて。
食事をある程度まで腹に詰め込み、スープを一気に飲み干した。部屋に戻ろう――そう思ってパンをもう二切れ掴んで立ち上がっても、癇癪を起こしているジェフを叱っている叔母は何も言ってこなかった。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、部屋へ入る。
先程教本を読もうとした時にマッチで火をつけていた灯油ランプが煌々と光っていて、椅子の脚に足を引っ掛けて引き出して座った。それから机に教本を広げて頬杖をついて、夜の帳がおりた森を見る。
数学は人よりずっと得意だが、どうも好きではない。教師や仲間たちが恍惚として数字の整然とした美しさや合理性を語る度、その規則だった並びを窮屈に感じてしまう自分の感性が不安になる。
順序だてられた規則の中ではなく、自由にものを紡げる文学の方が得意ではないけれど好きだった。
不確かな将来を考える度、何かを目指しているわけでもない自分が憂鬱になる。数学や化学や物理、それから地理学や歴史や国語。
今学んでいることが確かな実感になるのはこれから先に本当にあるのだろうか、と思う。父の背を追いかけて軍の道へ進むか、それとも違う道を選ぶのか。まだ分からないし考えたくない未来も、そう遠くない内にやってくる。
階下から聞こえてくる賑やかな声に憂鬱になって、教本を閉じた。
仄暗い未来の先に待ち構えているだろう悪魔の手から逃げ出してしまいたいと思う時がある。
逃げようが歯向かおうが、未来は万人に平等に訪れ、そして若さを蝋燭のように溶かして老いていく――その時が来れば自然と受け入れられるのだろうが、今は無理だ。
「馬鹿だな、本当に」
こういった考えの深みに沈みこむことは、思春期によくあることだと教師が言っていた。
いつかその時期を恥に思う時がくるだろうが、その思考を糧として人は成熟していくものなのだとも。大人になることは憧れであるのと同時に、恐怖でもあった。
もういっそ寝てしまおうか。今日は一日中アーベントという村を歩き回ったのだし、泥のように眠れることだろう。
寝巻きに着替えてベッドに飛び込み、瞼を固く閉じれば、あとはもうそれでお終いだ。憂鬱も不安も、朝が訪れるのと同時に綺麗さっぱり消え去るだろう。
次の日。
まだ太陽も昇りきらない早朝の内に、階下から聞こえてきた騒ぎ声で目が覚めた。
光が碌に差し込まない窓から外を確認し、寝ぼけ眼で階段を下りていく。
相手は複数人いるようで、朝の早い叔父が玄関で彼らに対応しているらしかった。
「どうしたんですか」
階段から顔を覗かせると、二人の男が叔父を取り囲んでいるのが見えた。
一斉に俺に視線を向けた三人のうち、一番若い男が眉を吊り上げて
「お前が昨日ダイアナと一緒にいた奴だな」
と、壁が振動するくらいの大声で叫んだ。
ダイアナの兄か従兄弟だろうか、顔がよく似ている。彼女よりも濃い茶色のかきあげられた髪に、彼女よりも榛がかった緑色の目。
滅多に見ない美男子だ、一目見ただけで彼には敵わないな、と分かってしまうくらいに。
「突然そう叫んだって何も説明しちゃいないんだから分からないだろう、ひとまず落ち着いてくれ」
こちらに身を乗り出そうとしている男の肩を、叔父がそう言って押しとどめる。
それから今度はダイアナの父親らしき中年の男が「私から話そう」と軽く咳払いし、話を切り出してきた。
「実は昨日の夜から私の愛する娘の姿が見えないんだ――君がグレイソン君かな、もし心当たりがあれば教えてくれないだろうか」