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2 出会い


 いくつもの船が浮かぶ海をすっかり見渡せる丘の上に建つ叔母の家の柵を開け、石混じりの小道に飛び出して駆けていく。


 どこでも構わないから、ただ叔母のいる場所から遠く離れたかった。


 坂を下り、海に近い赤や黄や青の壁の家々が段々に並ぶ場所を何の目的も無く目指す。

 次第に地面は石畳に変わっていき、軒下や階段に座って談笑していた老人や子供たちが容赦なく余所者を見つけだして。


「余所者だ!」

「エルジオが言ってたよ、従兄弟が首都から家に来るって!」

「お兄ちゃん名前なんて言うの?」

「エストゥーサってどんなところなの?」


 好奇心に満ちた子供たちに追われ出しても、まだ足を止めなかった。


 もっと、もっと遠くへ。こんな場所ではなく、母や父のいる場所へ行きたいのに。


 温い風に乗って届く潮の匂いに顔を顰め、数を増やした子供たちから逃れるように、海に向かってひたすらに走る。

 心を動かすようなものが何も無いことは分かっているのに、母が心からそこ(・・)を愛していたことを思い出して、だから。


『グレイソン、貴方といつかアーベントの海で船に乗ることが私の夢なの――エストゥーサも良いけれど、私はアーベントに生まれた女だから』


 アーベント、アーベント、アーベントアーベントアーベント――母も叔母も深く執着するアーベントの海とやらに、まるで自分も取り憑かれてしまったような気がした。曇った空を丸写しした白と、人の命をいとも容易く飲み込んでしまいそうに蠢く底無しの黒。


 すぐ目の前の階段を下ってしまえば、目と鼻の先に海がある。


 アーベントの海、この地に生まれたもの全てを魅了してしまう海――海風に吹かれた髪が汗の滲んだ額を打って、その感覚に現実に引き上げられて。


「――あ、貴方が首都から来たって人?」


 その瞬間、鈴が鳴るような清らかな声が、俺の心の隙間にするりと入り込んできた。

 声が聞こえてきた方向に顔を向けると、そこに興奮気味に頬を赤く染めた、焦げ茶色の艶やかな髪を持つ子鹿のように美しい少女が立っている。


「ダイアナ! なんでまたそこにいるのさ、僕が先に見つけたのに」

「船を見たかったの、ね、それよりよかったら貴方の名前を教えてくれる? 私はダイアナ――ダイアナ・クリフっていうの」


 白い日よけ帽子を被った、膨らんだ袖の服を着た彼女――ダイアナが緑がかった薄灰色の瞳を眩しそうに細める。日に焼けたオリーヴ色の健康的な肌が、海に反射する光にきらきらと照らされて輝いていた。


 一目見た瞬間から、彼女に「特別」なものを本能的に感じた。エストゥサの洒落た女子たちとは違う、飾り立てない美しさが彼女にはある。

 それは心から愛するものがある人間の、揺るぎない自信と気高さというようなもの。底無しの海に引き摺り込まれていた思考が、彼女という存在を視界に捉えた途端浮上して。


「……グレイソン=チャールズ・ボイル」

「へぇ! 貴方に似合う素敵な名前ね、どう呼んだらいい? グレイソン? それともチャールズ?」

「グレイソンでいい」

「私はダイアナでいいよ、よろしくね、グレイソン」


 彼女が差し出してきたた手が握手を求めているのだと気が付くまで、僅かな間が空く。「よろしく」と恐る恐るその折れそうなくらいに華奢な手を握り返すと、彼女は満足そうに何度も頷いた。


 それから周りの子供たちを見回して「迷惑をかけたら駄目だよ、困っていたらしいじゃない」と、少しばかり演技がかった仕草で人差し指を立て、


「ここで会ったのも何かの縁だし、私がアーベントを案内しようか? 昨日来たばかりなんだよね、きっと」


 と、俺に向かって柔らかに微笑んだ。


 悪くない提案だ、と思う。

 先々のことを考えると、早い内から子供たちと親しくしておいた方がいい。なにより断る理由が存在しないのだ。


 青が派閥を広げ始めた空を見上げ、それからまた彼女に視線を戻す。姿を現したばかりの太陽の光に透かされた緑がかった薄灰色の瞳に烟るような睫毛の影が落ちて、宝石のように輝いていた。


「……そうする」

「最初にどこを見たいとかの希望はある?」

「それならまずは集会所の場所を教えて欲しい、明日からそこで子供たちに勉強を教えろって言われてるから」

「集会所なら向こうの山の方にあるの、着いてきて」


 彼女が指さしたのは、叔母の家とは反対の方向にある山だった。アーベントの名そのもの自体は質の高い海産物で知られているのにも関わらず、三方を山に囲まれているせいか「閉鎖的な田舎の漁村」以上にはなれない。

 だからこそだろうか、ここに生まれた人間がアーベントという町や海に偏執的なまでの愛を抱くのは。


「ここにはいつまでいるの?」


 くるりと背を向けたダイアナにつられて歩き出すと、五歳くらいの子供にそう尋ねられた。


「分からない」


 青い目をきらきらと輝かせ、白に近い金髪にいっぱいの光を浴びせたその男の子からの好奇心に満ちた視線から目を逸らし、首を振る。


 戦争が終わる日がいつ来るのかは、俺が一番知りたかった。

 敵国の手に落ちた国境付近の町や村を奪還しようと反転攻勢に出ようとして失敗した、という話も聞くし、案外終わりが来る日は近いのかもしれない。


「なんで来たの?」

「首都は今危ないから」

「なんで危ないの?」

「チャーリーったら、そんなの戦争してるからに決まってるじゃない。それより今エストゥーサではどんな服が流行ってるの? ほら、どうしてもここには流行は遅れて入ってくるから、ね、教えてよ」


 今度は十歳くらいの女子が会話に割り込み、榛色の瞳を向けてくる。

 不満げに唇を尖らせたチャーリーが「でも、姉ちゃん」と食い下がった所からして、二人は姉弟なのだろう。弟と同じ髪色をした彼女は、ダイアナと同じような膨らんだ柔らかな袖の服を着ていた。

 

「……それなら今は膨らんでいない袖が人気だと思う、体が細く見えるような服を着ている人ばかりだから」

「そうなの? 生地の感じは?」

「あまりその手のには詳しくないんだ、でもその服みたいな柔らかい布じゃなくて、もう少し硬い感じだったかな――公的な行事に着ていっても構わないような感じの」


 そう答えている間にも、海の男たちの野太い掛け声が後ろから何重にも重なって響いてくる。高く帆を張るものからそうでないものまで、あらゆる船たちが水平線の向こう側へ消えて行く。獰猛にうねる黒い海は、彼らを家族の元まで無事に帰してくれるのだろうか。


 四角い色とりどりの建物や露天商が並んでいる緩い坂には等間隔にガス灯が並んでいて、ガス灯の支柱にしがみついて遊んでいる子供たちもいた。

 家々の前に並べられた鉢植えたちは鮮やかな花々を咲かせていて、ひび割れて古ぼけている家や道を飾っている。


 アーベントの道はエストゥーサではよく見かけるような車を走らせるには不便だろう、急な曲がり角がいくつもあるし、至る所に小さな階段や割れ物がある。

 平気で道を占拠して洗濯物を干していたりするし、小さな荷車ならともかく、人が歩くことしか想定していないような道幅が多かった。


「アーベントの人は道を好きに使ってるんだな」

「そうね、あまり人のことを気にしない質の人が多いから。エストゥーサはどうなの?」


 先を歩いていたダイアナが段差を乗り越えながらこちらを振り返る。

 昼間から仕事もせずに道端で椅子を楽器代わりに叩きながら大声で歌っているような人間はエストゥーサでは滅多に見たことがないし、他人同士でふとしたきっかけから世間話をすることはあっても、互いに過度な干渉をしないエストゥーサの方が好みだと思う。


「エストゥーサでは他人は他人だって扱う。よく知らない人間の方が遥かに多いから、面倒事を避けるために皆気をつかってるんだ。勿論人目を気にしない人間がいないわけでもないけど」

「えー、それならエストゥーサよりアーベントの方がいいや」


 眉間に皺を寄せて声を上げたのは、十歳くらいの黒髪の男子だった。


 「どうしてそう思うんだ」と尋ねると、彼は渋るように首を横に振って


「だってアーベントの方が皆仲良くていいじゃん、賑やかな方がいいよ」


 と答えた。


「そう? 私は賑やかすぎない方が好きだなぁ、一人の時間だって必要だと思わない?」

「だって俺ダイアナみたいに難しい本読めないもん、文字がよく分からないから。だから皆と騒いでる方がずうっと楽しいんだ」

「文字ならグレイソンに教わればいいよ、難しい文章もちゃんと読めた方がいいと思わない? 誰かに騙されたりしないようにも、ね」


 華奢な背中に、絹のように艶やかな光沢を帯びた髪が波打つ。

 人の目をひく才能を持っている彼女から視線を外すことは簡単ではなくて、すぐ隣から「好きな色は」だとか「好きな食べ物は」だとか「この町をどう思う」だとか、そういう類の疑問をしつこいくらいぶつけられているのにも関わらず、ガス灯に群がる小蠅のように輝かしい方へと目を向けてしまう。


 アーベントの子供たちの己の好奇心に嘘をつかずに行動する姿はまるで駄々をこねる幼子のようだけど、嫌ではない。

 むしろ、自分もそうなりたい、と、心から羨ましく思えたりした。

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