1 始まりの海
潮の匂いを孕んだ海風が吹き抜けていく小さな町に、あなたの姿は無い。
ずっと追いかけてばかりいた幼い背中はもうどこにも見当たらなくて、あなたがいたから辛うじて持てていた苦しい現実を耐えるための力を、私はもう失ってしまった。
ああ、あなたはそんな私を笑うのだろうか――馬鹿みたいなことで悩んでるのね、だとか、あなたらしくていいじゃない、だとか。
でもね、あなたのいない空っぽな世界は、私にとって苦痛でしかないの。
森の中で彷徨い続けた挙句に下したこの結論は、きっとあなたが望むようなものではないけれど、ごめんなさい、これが私なりの最善だった。あなたがいない現実から逃げ出して、与えられ続ける苦痛から逃れるためには、これしか。
あなたのいない町はこんなにも憎たらしくて、それなのに相変わらず変わらない時が流れていく――あなたの愛した暗い海を眺めても、私の時間はあの日から止まったまま。
臆病で卑怯な私はあなたのもとに行くの、ねぇ、愛しい■■■■――たとえそこにあなたがいなかったとしても、それでもいい。
許してね、とは言わないけれど、いつかまたどこかで巡り逢えますように。それだけが、私のせめてもの願いなのです。
◇◇◇◇
雨がざあざあと降った後の、分厚く重苦しい灰色の雲。
その切れ目から差し込む光に照らされた、窓枠に四角く切り取られた青くぼやける深い森。
生い茂る下草は、その森が碌に管理されていないことを物語っている――そんな絵に描いたような田舎の森の光景を頬杖をつきながら眺め、空になった食器の縁を手持ち無沙汰にスプーンでかん、と鳴らした。
都会と田舎では料理は全く違うと思っていたけれど、叔母と母の味付けはどうもよく似通っている。材料にこそ差異はあれ、流石双子と言うべきか、根元は殆ど変わらない。
今のところ、これが叔母の家に来て初めての「良かったこと」だ。
椅子の背に背中をつけて伸びをし、ぼやけた視界を明瞭にする為に何度か瞬いて見知らぬ天井を見上げた。
これから暫くの間この天井と生活するのだと思うと、妙に鼻と口を塞がれたような息苦しさが増していく。新しい環境というものはいつだって落ち着かないものだ。
「――そろそろ食べ終わったかい、グレイソン=チャールズ・ボイル!」
来訪を事前に告げる代わりに、どんどんと足音を鳴らして階段を上ってきた叔母が間髪入れずに扉越しにがなりたてる。それに耳を塞いで「はい、美味しかったです」と、こちらも僅かばかりの反抗心をもって声を張り上げた。
「粗方の支度を終えたら下に持ってきな、その後にあんたにやってもらう仕事を教えるから」
穏やかで優しかった母と全く瓜二つの双子のはずなのに、どうも乱暴で似つかない人だ、とつくづく思う。
任務中にこの漁村に訪れた父に見染められたのが叔母ではなく母だった理由が分かる気がするな、なんてことを考えている内に、叔母がまた床を激しく踏み鳴らして階段を降り。
叔母が階下に行ったのを確信してから、窓際の机で食事をしていた自分は立ち上がり、スチールベッドの隣に転がしていた革の鞄を薄い毛布の上に投げ出した。
どん、と想像していたよりも大きな音が鳴り、床の板材が軋んだような感覚が足元を伝う。でも別に構わないはずだ、三人の従兄弟たちの方が家の中を走り回って騒がしくしているのだから。
鞄を開き、これ以上は耐えきれないというように溢れ出してきた持ち物をまずはベッドの上に広げ、服や日用品に分別して整理する。昨日の夜の豪雨のせいかどれもこれも湿気ていて、父からのお下がりの革鞄には水染みまで出来ていた。
(溝鼠みたいに濡れた俺を真夜中に渋々とはいえ迎え入れてくれたんだ、それくらいは感謝しないと)
二日間の嵐のせいで、今まで暮らしていた街――首都エストゥーサからの汽車が遅れ、昨日の昼にはここに着いている予定だったのに、実際にここに到着したのは日付が変わる頃になってしまった。
皇国との戦争が始まってから、早二年。
軍の将軍級だった父は早々に戦地に赴き、残されたのは母と息子の二人。
父は少しでも早く母の故郷に疎開するように何度も俺に手紙で勧めてきたが、肺の病に苛まれていて首都の病院に入院していた母が生きている間、自分は頑として頷かなかった。
陸続きの大国との戦争に、脅威を感じていなかったわけではない。父の予言通りに首都にまで軍靴の音が迫っていることは、たった十二歳だった自分でも知っていた。
けれど、それ以上に誰よりも大切な母の最期を傍で看取りたかった。骨と皮だけの痩せ細った土色の母を、孤独の中で死なせたくなかったのだ。
そうして母は死に――一ヶ月経ってから、父の言いつけ通りに母の故郷に叔母を頼って来た。
ここ二三年の間に父から送られてくる手紙の数が減ってきたのは、きっと戦局が悪化しているからだ。新聞やラジオが並べ立てる言葉は、もうこの国を愛国心に満ち溢れた言葉で鼓舞できていない。
新緑色に塗られた壁に貼り付けられている世界地図に記されている国境が変わる日が来るのも、そう遅くないかもしれなかった。
「ありがとうございました、これ、皿です」
大体の整理を終えて階下の台所に行き、火がついたように泣き喚いている末っ子を叱っている最中の叔母に皿を渡そうとそっと壁から顔を覗かせた時、
「なんだってんだいあんた、嫌いだからって人に食べ物を投げちゃ駄目だろう! そんなことしてたらジェフ、あんた絶対に碌な大人にはなんないからね!」
と、紅潮した顔で食材や調理器具をのせている台を叔母が力づくで叩いた。
流石に今叔母に話しかけるのはよすべきだと考え、脇から滑り込むように台所に入り、使用済みの皿が重ねられている所に音を立てないように慎重に皿を置く。
ひびの入っている古ぼけた食器棚の硝子に映る叔母の薄茶の髪は乱れに乱れ、つり上がった目はまるで御伽噺に出てくる魔女の如く。
それからこちらを充血した目で見た叔母が
「グレイソンかい」
と憎々しげに俺の名を呼び、立ち止まった俺は「はい」と返して。
「働かざる者食うべからず、どうせならこき使ってやりたいけど船に乗せたりして死なれたら困るからね、ここのチビたちにものを教えてやりな。あんた、義兄さんに似て頭が良いんだろ」
「……それでいいんですか?」
仕事、と重々しい響きを込めて言うくらいなのだから、どうせ面倒な肉体労働を言いつけられるのだろうとばかり思っていた俺は拍子抜けして尻上がりに言葉を返す。
すると大仰に溜息を吐いて首を横に振った叔母が、ジェフの頬についた汚れを腰を屈めて拭き取ってやりながら
「そんな簡単な話じゃないさ、学校に行ってない奴らは文字もまともに読めやしないんだから。アーベントの連中はみんな第一に海、第二に海でさ、教育なんてどうでもいいと思ってんだ。あたしはそうは思わないけど、あんたみたいな子からしたら馬鹿みたいじゃないかい?」
と言った。
あらゆる設備が最高水準で整っている首都のエストゥーサと違い、人口も少なく僻地にあるここアーベントの教育の水準が低いのは当然のことだろう。
叔母が言うほど自分の頭の出来は特別良いわけではないが、ものを教えるのは元からそれなりに得意だった。エストゥーサの学校にいた頃、出来の悪い下級生に勉強を教えるように教師によく頼まれていたくらいには。
「いつからですか」
「明日からだよ、アーベントにあんたみたいなのが行く高等学校なんて高尚なもんはないからね、集会所でそこらへんのチビを集めて教えてやるんだ」
「わかりました」
「取り敢えず今日はこの辺りでも回っておきな、皆あんたに群がって騒ぎ立てるだろうけど、そこで顔を売っとくんだ――それと裏の森には絶対に入るんじゃないからね」
家の裏の森とは、部屋の窓から見えるあの霧に満ちた青い針葉樹の森のことだろうか。
元からあんな場所には入ろうとは考えていなかったし、「勿論」と肯定の意を示した後に「迷うからですか」と尋ねると、「そうさ」と眉間に皺を寄せた叔母が頷いた。
「あの森は広いし危ないんだ、アーベントの人間でもたまに帰ってこれなくなっちまう。あんたみたいな都会育ちが興味を持っていい場所じゃないからね」
母と同じ色の碧眼に、余所者を忌避する苦々しい感情が強く滲み出ている。
突然家に転がり込んできた甥のことをよく思わないのは当然だ。けれど露骨にそれを表に出すものなのか、と、胸の奥が嫌に冷えていくような思いがした。
そんな感情から逃れるように周りを見回せば、壁に吊るされている麺棒や鉄の鍋、よく研がれた包丁が目に入る。
もしそれを手に取ってしまえば、叔母はどんな表情で何と言うのだろうか――そんな馬鹿げた空想を巡らして、芽生えた怒りの感情を誤魔化す。自分にそんな度胸があるはずもないのだ。
「ほら、あたしにはジェフの世話があるんだ。さっさとここから出て行きな!」
色々喋って引き留めたのはそっちじゃないか、自分はただそっちの話を聞いていただけなのに。
やはり叔母は母には少しも似ていない、母は叔母よりも遥かに美しく、そして最期の瞬間まで誰よりも強かった。
怒りの導火線に火がつく前に、叔母に顔を見せまいと背を向けて走り出す――強く床板を踏み抜いて、どこまでも、どこまでも。
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