第3話 働き蜂、王冠の輝きを知る。
食事を終えた青年とケーテルは、お互い違う足取りで帰路についたようだ。
もう暗くなった帰り道は、床に埋め込まれた発光石と街灯の光によって淡く照らされていた。
これにより、世界を覆う闇をこの場所だけでも払っているのだ。
生物は光のない場所に数秒滞在しただけで、精神を腐食されて肉体を腐敗するのだ。
そうなったら最後、人類に悪意を持つ怪物へと変貌してしまう。
姫蜂や女王蜂の持つ導きの光と発光石の光のみ、その腐敗の闇を払うことが出来る。
つまり、闇を払うスベが発光石の光しか無い【アウトサイトハイヴ】では、ケーテルの存在は文字通りの救世主である訳だ。
ーーーそう、もしもコイツがあの時あの場所にいたのなら、俺は粛清しなくても良かったのかも知れない。
ふと青年は、自らの手で殺めた同僚の命乞いを思い出した。
そして胸の痛みを煙草の煙で忘れながら、青年は自分の言った言葉を思い出した。
ーーー「苦痛も恐怖も無い安楽死こそが俺に出来る唯一の慈悲」…か。
それは間違っていない。だが…それは俺が他の方法を知らないだけだから…
青年は火の消えた煙草を手持ちの携帯灰皿に捨てて、新しく煙草を取り出そうとした。
しかしそれはケーテルの問いによって止まった。
『ねえ私の騎士候補のお兄さん!』
「何だ?」
青年は呼び止められたことで煙草を懐に仕舞った。
呼び名にはあえてツッコミを入れずに、クールにスルーしたようだ。
反応すれば、相手がいろいろ面倒くさい事を言ってくるのを賢い青年は理解していた。
『ここの人達はどうして床で寝ているのかな?』
ケーテルが指差した先には、擦り切れた布を着た子供達と安物の服装のくたびれた男女が、床に寝そべりながらこちらを恨めしそうに見つめていた。
路頭に明け暮れる【巣無し】の一家であった。
青年はケーテルの問いに答えるべきか悩んだ。
無垢な少女に、過酷な現実を教えるのは、あまりにも残酷であったからだ。
「…コイツらは巣無しだからだ。」
しかし青年は包み隠さず教えてしまった。
青年は不器用であったから、耳触りの良い言葉や都合の良い嘘を語ることが出来なかった。
『巣無し…』
「巣無しの奴は、こんな場所ですら住む場所が無い。そして、俺達のような底辺にすら成れない正真正銘のクズだ。…お前は運が良く俺に拾われたから、こうして住む場所にありつけ食い物にも困らないんだ。だが、あれが本来の巣無しだ。」
そう冷たく吐き、軽蔑の眼差しをその【巣無し】の路上生活者に向けたのだ。
青年の鋭い視線を恨めしく思いながら睨め返す【巣無し】を置いて、ケーテルは溜め息を小さく零しながらそのまま歩み続ける。
『…そうだよね。うん…でも…あれはまだ…まだ良……っ』
「……?どうした?」
『…ごめん。何でも無い。何でも無いから…。あの人達も苦労しているんだよね。だから、私がその大きさを決める筋合いなんて無いんだ…』
ケーテルの発言の真意を青年は理解できなかった。
それは、まだお互いが信用し合えていないからである。
結局は他人であり、まだお互いを理解し合える段階ではない。その事実を改めて、二人は理解した。
鬱屈な空気が二人の心の扉を吹き付けて、不信と言う名の錠が心の扉を閉ざそうとした。
しかし、それはケーテルの歌声によって阻まれた。
『アァ~アイドンノゥ…アィドンノォ~…ユードンセィ~…ラ~…』
その歌は一昔前に流行ったアイドルの歌であった。
電子音とハイテンポなリズムで構成された活気のある音楽であった。
その事は青年でも知っていたが、どうしてこのタイミングでサビだけを…それもこんなにも悲しそうに口ずさんだのか理由が知りたくなった。
『ん。これは私の友達が好きな歌だったんだ。何となく、悲しいときに歌って、紛らわしているんだ。』
「友達がいたのか。」
『うん…今はもういないけどね。えへへ…』
青年に向かってはにかんだケーテルは、一瞬だけ見せた弱い自分をこっそり隠した。
ケーテルは王冠を背負う使命があるから、弱い自分を他人には見せたがらない。
その事を青年が知るのは、ずっとずっと先の時である。
………。
………………。
もうすっかり暗くなった居住地に到着した二人。
青年は自分の居住スペースの入り口を開けて、ケーテルを先に入れた。
「これからはここで暮らすんだ。狭いかも知れないが、我慢しろ。」
『ん。別に気にしてないよ!けど…』
ケーテルは中を見渡して、軽く匂いを嗅いでから少しだけ顔を赤らめた。
ーーーうん…まあ仕方ないんだけどね。予想はしてたけどね!でも…でもちょっと気になる…!
ケーテルはこっそり引き出しを開けて、中に入っていた雑誌を確認した。
雑誌の内容は至って普通の内容であった。
特にやましいモノは確認できず、お年頃なケーテルは少しだけがっかりした。
『…真面目なんだね。ちょっと意外!』
ケーテルの発言は青年には理解不能の内容であった。
それもそのはず、青年はそう言った知識に無頓着であった。
と言うのも、ここ【アウトサイトハイヴ】では性と言うのはバラエティーのような娯楽として扱われることが多い。
それはより多くの兵士を増やすために大昔に敷いた法律と抵抗感を無くさせる教育制度が起因するとされている。
まあ、ただただ青年が、そう言うのに興味の無いつまらない子供なだけである可能性も否めない。
現に青年は、気にすること無く服を脱いで、体を濡れたタオルで拭き始めた。
ーーーわぁ!?流石の私も裸の男の人は初めて見た!
へぇ~アレがこうなっていて…わぁ!こんな感じなんだね!
物珍しそうにケーテルは、青年の肉体をチラチラと覗き見た。
ケーテルにとってみれば男の裸体は初めて見るモノであり、青年のこの行動は少女の好奇心を刺激させた。
「……なあ、どうしてそんなにジロジロと見つめるんだ?」
ただ当然ながら、青年はこの少女の行為を快く思わなかった。
ただ日々のルーティーンをしていただけにもかかわらず、動物園で大型肉食獣を見る少年のような目を向けられる理由がわからなかった。
『フフン!未来の騎士の身体を視察するのも、王冠を被る者の責務だからだよ!いつかはケーテルが手に入れるモノなんだからね!』
幼い少女の発言とは到底思えないほどに、常識外れな内容であった。
あまりの非常識さに流石の青年も思うところがあったようで、先ほどのようにして睨み付けた。
『あ…!騎士候補のお兄さん!足怪我しているよ!』
ケーテルはニヤニヤしていた表情を真面目な物に変えて、青年に早足で駆け寄った。
その切り替えの速度は、青年もつい感心した。
ケーテルが心配したとおり青年の足には野犬の噛み痕が、痛々しくくっきりと残っていた。
肝の座ったケーテルは、躊躇せずに青年の傷に触れた。
そして…
『王冠の光よ!縫い付けろ!(金糸)!』
ケーテルが気を張って手先に意識を集中させると、光が収束して一本の繊細な糸になった。
正確には糸のような形状を形成しただけである。
しかし、その効力は本当に秀逸であった。
傷をゆっくりではあるが、確実に縫い付けて、丁寧に塞いでいったのだ。
傷が塞がったと同時に、光は肉体に馴染んでじんわりと消えた。
「おお…これが姫蜂の治癒か…」
青年は治された傷跡をまじまじと見定めた。
本来は一生残るであろう傷を綺麗に塞いだのだ。
物珍しそうに傷を観察する青年に、ケーテルは自慢する。
『どう?これが王冠を被る者の力だよ!他の姫蜂とは違う感じでしょ!?』
青年はバカのように頷いたが、実は本来の【姫蜂】の光と言うのを見たことが無かった。
ただ彼が頭を上下させたのは、治療への感謝と少女へのご機嫌取りによって動かされたのである。
「凄いな。流石は姫蜂だ。」
『期待の女王蜂候補が抜けているよ!フフン!ありがとうね!』
上半身だけを飛び出しているケーテルは、腕を腰に当てて不遜なるポーズを青年に見せつける。
もっとも当の青年は、服を着替えているため、全く目を向けていないが。
「俺は身体を洗い終わった。…お前もさっさと身体を洗って寝ろ。」
『!!!』
青年の何気ない発言は、どうやら年頃のケーテルの耳を赤く染め上げる事に繋がった。
あんな態度を取って青年を変質者のように見ていたケーテルでも、流石に自身の裸体を見られることには少し抵抗があったようだ。
『ふぇ…えっと…えっと…その…お…男の人の前で脱ぐのは、その…ちょっと恥ずかしいな…』
外見通りウブな少女であるケーテルは、モジモジと指と指を絡めて目を下に逸らしている。
しかしケーテルは【姫蜂】であり、目の前の相手は将来騎士となる男だ。
いつかはその時が来て、指と指を絡め合い手と手を重ね合う瞬間がある事をケーテルは知っている。
ーーーだから、わざわざ気にすることは無いよね!うん!そうだね!私もお兄さんのを見たんだし、お互い様なんだよね!
ケーテルは一人で自問自答を繰り返した。
その間に青年が、眠っている事に気づくこと無く、ケーテルは期待と羞恥の間で迷っていた。
…そうして1時間ほど一人でブツブツと不満を漏らしながら、ケーテルはその麗らかな身体を洗っていた。
………。
………………。
青年は静かに寝ていた。
青年は睡眠がこの上なく好きで、時間さえ有れば何時までも眠っている。
睡眠とは便利なモノで、今日一日の疲労を回復させるのも、最近の出来事を整理させるのも、人生の意味を自分に問うのも、人類を命を懸けて守る理由を探すのも、考えて整理するのに最適なのである。
だが今日の青年は、ただ何も考えずに静かに眠っていたかった。
それは青年を縛り付ける苦痛があまりにも痛くて、青年を突き刺す憎悪があまりにも冷たかったからだろう。
彼はまだ同僚からの憎悪を引きずっており、ずっと自身の判断を後悔していた。
ーーーもし、あの時同僚が無茶をするのを強引にでも止めていたら…もし、あの時同僚を見逃していたら…もし、ケーテルのような例外があると知っていたら…
ケーテルの存在は特異の例外であった。
そんな例外がいるのを始めから知っていて、同僚を治癒して貰えたらどんなに良かったのかと…そんな夢物語のような幻想を抱いたのだ。
しかし、青年のこの幻想は、結果論でしか無い。
青年が仮に同僚を見逃したとして、結局は間に合うこと無く同僚の腐食は進行して手遅れになっていたのは明白だ。
しかしそんな理論は慰めにしかならず、彼を納得させるに至らなかった。
ーーー俺は…判断を誤ったのかもしれない…。だが、だが、それならどうすれば良かったんだよ。ああ、後悔しても意味が無い。そんなこと解っているんだ。だけど…
孤独に苛まれているにもかかわらず、青年はまるで誰かに責められて後ろ指を指されているように錯覚した。
青年を責め立てるのは、他人からの悪意と悔恨の念による弊害である。
しかし、これら心に棲み着く不純物を取り除くスベを青年は知らなかったし自分では出来なかった。
しかし…
フニッ フユン
突如として青年は、暖かい感触に包み込まれた。
それはとても温かくて柔らかく、優しい良い香りが漂うモノであった。
初めての感覚であった。
しかしながら青年は、心の奥底で知っていた。
ーーーなんだ?これは…まるで愛おしい人に力強く抱擁され、優しく慰められているようだ。
その温もりは青年を虜にした。
ずっと…この愛おしい人の胸で泣いていたかった。
何も考える事無く、母親に手を繋がれて導かれるままの無知なる子供でいたかった。
残酷な運命をきれいさっぱり忘れて、無垢なる赤子のように眠っていたかった。
けど、それは世界が赦してくれない。
なぜなら、世界は人類を憎んでいるから…罪深い人の子に試練を与えて、この穢れた星を洗い流そうとしているから…。
………。
………………。
そうして青年は夢から覚めて、その暖かみの正体を知った。そして同時に…青年は王冠の輝きを知った。
「ま…眩しい……。……目が痛い。」
青年を冷たい悪夢と優しい夢から醒ますのは、煌々と闇を照らす少女の王冠であった。
ヨダレを垂らしながら熟睡するケーテルを見下ろして、青年は小さく溜め息をついた。
青年は余った時間を潰すために、まだ月明かりの照らす夜の散歩へと出かけて行った。
王冠を被る少女は無邪気な寝顔で、独り寂しく眠りについている。