五
【人身御供】
お堂の方から念仏が聞こえる。
中を覗くと、堂内を歩き回る八門の姿があった。
「……来おったか」
暗くてよく見えないが八門の口元が黒ずんでいる。それに堂内がものすごく血生臭い……。
「もう一度訊く。今なら引き返せるぞ?」
「いいえ。この儀式は私が終わらせます」
「この儀式は亡者の救済。お主のような生者には縁のない話なんじゃが……」
「人は皆生者。貴方が決めることではありません」
「……では裏手へ回ろうか」
眼球のない年寄りが誰の手も借りずに歩いていく。
体がそれを覚えているというのか……。
手水舎横にある柵の向こうは、更に下へと続く暗い細道。
「ここから先はバアルさまの腹の中」
「……この先に蛇神がいるのですか?」
「行けば分かる。中は暗い。松明を持っていくといい」
「私が戻るまで二人に手出しはしないで下さい」
「……お主、本気で生きて戻れると思うておるのか?」
笑みを浮かべる八門。なにかに取り憑かれているよう……
暗く湿った下り道。
日中の蒸し暑さはなく、湿気のせいで寧ろ肌寒い。雨音は聞こえるものの確認できない……地の割れ目を歩いているような、そんな気分。
これまで何人の人がここを通ったのだろう。杖を持つ手に力が入る。
……ピッシャアー!
突然の稲妻が闇を切り裂く。すると細道の先に大きな門が現れた。
「こんな場所に門? 少し開いてる……」
隙間から中の様子を伺ってみるがなにも気配はない。
大きく息を吐き、足の具合を確かめる。
杖無しでもなんとか歩けるが、間合いを計るには短刀より役に立つかも知れない。武器としても……。
ぴちゃ……、ぴちゃ……
門を抜けて中で松明をかざすと、板張りの広く長い廊下。雨漏りがひどいが相当広い屋敷のようだ。
廊下の先は丁字路で上がり階段があった。その側に誰かが落とした松明が転がっている。
それを見て耳を澄ませるが、聞こえてくるのは雨漏りの音だけ。近くに人や動物の気配はない。
「上階から落ちてきたのかも……」
上を目指すか、もう少しこの階を調べるか──。
こんな暗い場所で悩みたくないが、目的はバアル退治だ。気配を感じないのなら二階へ上がるべきかもしれない。
戻らなかった人達は二階へ上がったのだろうか? 廊下に争った跡はない。もう少しこの階を調べるべきか……。
「……ん?」
その時、廊下の先でなにか動いたような気がした。
【巣窟】
廊下の先で何か動いた気がしたが何も気配はない。松明の揺らめきによる勘違い……恐らくそれだろう。そう思い、静かに近づいた。
ず、ずずず……
廊下を曲がった先から聞こえる微かな異音。気配はないが確かになにかが動いている。意を決して明かりを向ける。
廊下を這う毛玉のようなもの……それが一体なんなのか、理解が追いつかない私は目を凝らしてみた。
ばさばさした髪の隙間から夥しい数の顔──それは大勢の女子供の顔が一塊になった化け物だ。
ぬめりを帯びた顔が一斉に笑い、髪が触手のように足元に伸びてくる。
その不気味さに慌ててその場を離れて階段に身を隠した。
追いかけてくる様子はない。
隙間から見えたのは恐らく犠牲者達の顔だ。だが、こうも容易く逃げられるのだから、皆も当然逃げたはず……
「やっぱり皆は上の階へ向かったのかも……」
そう思ってゆっくり階段を上がる。
上がった先は廊下と廊下の中間で、そこらじゅうなにかを零したような黒い染みと松明の棒切れが落ちていた。
これを争った形跡と見るかどうか……少し考えようと気を緩めたその時。
がたん、……がたん!
突然の大きな物音。その直後、ばたばたと裸足で走り回るような音が四方から聞こえてきた。
嫌な気配が漂う中、なんとか音の出所を探ろうと階段から離れて廊下を照らす。すると明かりの先に小さな人の手が見えた。
「──まさか生存者? 違う……あれはなに?」
闇の中から次々に出てくる手足が壁や天井を覆い尽くして迫ってくる。それはまるで大きな百足のよう。
「こ、これは一体……?」
足元に転がる棒切れを避けて後退る。
松明を持つ私に襲い掛かってくるということは火は武器にならないということ。あの無数の手をすべて打っていては捕まるのは必至。
「くっ……」
戦い方が分からない以上、今は逃げるしかない。逃げ惑う最中、上がり階段を見つけて一気に駆け上がる。
──────。
──どうやら今の私は冷静ではなかったようだ。
今更言っても仕方のないことだが、二つだけ後悔がある。
一つは自分が入ってきた場所も、今通ってきた道もなにも覚えていないこと。
これでは帰る時に少し手間取るかもしれない。
そしてもう一つは、迂闊にこの階に上がってきたこと。
……今、背後に「なにか」がいる──。
【最悪の最悪】
張り詰めた空気の中、背後から感じる殺気の波動。まるで時が止まったかのように体が重い。
「振り向くな、逃げろ、今すぐ!」頭の中で私に似た誰かが叫んでいる。
はぁ……はぁ……はぁ……
どういうわけか意識と動作が噛み合わず、振り向くまでの数秒がとてつもなく長い──。
がちゃ……がちゃ……
「これが……バアル……?」
そこにそびえていたのは巨大な骨の塊ともいうべき規格外の存在。動く度に骨がぶつかり、奇妙な音を立てている。
「行けばわかる」確かに八門はそう言った。
彼が神と崇める理由がわかった気がする。だがこの存在は神でもなければ蛇でもない。
想像を遥かに超えた化け物──。
ふと、熱くなった刀に体の硬直が解けた。
動け、動けと自分に言い聞かせ、持っていた杖を投げつけ全力で逃走。
ほんの一時でいい、冷静になる時間が欲しい──。
そう思いながら視界に入った階段を一気に駆け上がる。
はぁ……はぁ……
どこか身を隠せる場所はないかと探していると、先の方に小さな戸があった。
そこは程よい大きさの小部屋。大きな岩が壁を突き破って雨水が伝っていたが、考えている暇はない。
松明を消して遠くへ投げ、急いで中に入り息を殺す。
──物音はない。追ってきてはないようだ。
明かりはないが室内の構造は把握した。出入りできるのはこの小さな入り口だけ。
もしなにかが侵入してきたら容赦しない。
「大丈夫……落ち着け……」
心の中で何度も呟く。
強烈な殺気を当てられたせいか、体の震えが止まらない。一先ず逃走できて良かった。だがどうやってあれと戦えばいいのか……
私は剣術が下手だ。刀は人を斬るもの……そう思って稽古してこなかった。なので、刀が二本あったところでろくに使いこなせない。
とはいえ、体術だけで戦えるだろうか。
──自問自答を繰り返し、大分落ち着いてきた。
暗闇の中で聞こえるのは岩を伝う雨の音だけ。岩を舐めて喉を潤し、ついでに兵糧丸を口にする。
「絶対に里に帰る……」
そう呟いたその時、地鳴りと共に建物全体が揺れた。
がこっ!
「……え?」
振動で枠が歪んだのか、戸が開かない。
小部屋内に使えそうな物はなにもなく、何度も蹴破ろうとしてみたが内側からではどうすることもできず。
「うそ……まさか……閉じ込められた?」
想定外の連続。そして私は理解した。
ここが暗い、暗い闇の中だということに────。