三
【三つの国の境にて】
三井邸を発ち、国境にある町へと向かう。
昨日の雨で道は荒れ、歩いているのは私一人。
山の中腹に差し掛かると道が塞がっていた。
あちこちから雨水が流れ出し、まるで今さっき崩れたかのような有様だ。
折角三井様に教えてもらったのに……ついてない。でも、こんなにも良い天気なら森を抜けられるのかも……
そう思い、迂闊にも森を進む事にした。
森に入ってすぐ景色は一変。そこは一面苔むした世界。
「音が……鳥のさえずりもない……」
苔に滑らないよう慎重に進んでいくも、その青臭さに鼻を突かれて進んでいる気がしない。
引き返した方がいいのかも……不安に駆られて振り返ってみたが遅かった。もう既に迷い込んだ後だ。
こうなっては開き直るしかない。
いつの間にか空が見えなくなってはいるが、さっきまでは確かに晴天だった。
足場に気をつけて進めば必ず抜けられるはず。
しばらくすると微かに水の流れる音がした。
近くに沢でもあるのかと探してみることに。だが、それが焦りであったとすぐに思い知る。
「あっ!」
ずざざー
地面だと思った木の根っこの下は急斜面。足を踏み外し、体をぶつけながら滑り落ちていく。
どこまでも、どこまでも──。
──気づくと薄暗い沢にいた。見上げると、どうやら崖に生えた木の枝に守られ無事だったようだ。
「……ここは……~っ!」
体を起こそうとした時、右足首に激痛が走る。
なんとか折れてはいないようだが、立ち上がれない。まだ腫れてない今の内に冷やしたい……なのに、すぐ目の前にある沢の水が遠い。
この程度で済んで良かったとはいえ、状況は最悪。
というより、自分が情けない。常日頃、里の皆に注意しているその私が注意を怠ってしまうなんて。そんな未熟者が里の頭領だなんて……。
──どのくらい呆けていたのだろう。
ざーざーという雨音が上から聞こえる。木々が生い茂って見えないが、いつの間にか相当降っている様子。
なんとかして沢から離れたいところだが、痛めた足を悪化させては救いようもない。
腹をくくり、雨の音を聞きながら静観することに。
やることもなく巾着から兵糧丸を出してみたり。
黄色と赤茶色と抹茶色の三つ。昨日食べたのは、臭いからして赤茶色に間違いない。とりあえず、当面はこれを食料代わりにしよう。また気分を害しそうで少し怖いけど。
じゃり……じゃり……
ふと見ると、沢の先から小さな少女が歩いてきた。
【深い森に住む少女】
見たところ、二つか三つぐらいの子。驚いた、こんな深い森の中に女の子がいるなんて。
「なにもしないから怖がらないで。ねえ、誰か人を……」
すると少女は森に駆けていった。
どうやら驚かせてしまったみたい。だけどこんな場所にも人がいると分かったのは不幸中の幸いだ。
なんとかなるかも──そう安堵していると、さっきの子が大人の女性を連れて戻ってきた。少女と良く似た顔つきのみすぼらしい格好の女性。母親のようだ。
「土砂崩れを迂回していて足を滑らせてしまい、気づくとここに落ちていました」
経緯を話すと、親切にも肩を貸してくれた。
この女性の名はアズサ。
家は森に入ってすぐのところにあったのだが、お世辞にもそこは人が住んでいるとは思えないほど朽ちた小屋。
とはいえ、一先ず助かった。
「私は真樹と申します。足の怪我が癒えるまで、こちらで休ませていただけませんか?」
「……構いませんよ。どうせ出られないのですから」
「あの、一体ここは?」
「ここはオロチ谷。俗世から忘れ去られた場所」
「……かわいい娘さんですね」
「この子はフタバ。三つになったばかりです……」
ふとフタバに目をやると、私の刀をじっと見詰めている。「持ってみる?」興味があるのかと少し触らせてやると、突然アズサになにか訴え始めた。
「ぁ~ぁ~ぁ!」
「だめ。そんな事頼めません」
「ぁ~、ぁ~ぁ~!」
「いい加減にしなさいフタバ!」
手を上げようとしたアズサを止めて話を訊いた。
「私達は神の生き餌としてここに連れてこられ、お呼びが掛かるのを待っているのです」
「……神? 貴女はそれを見たのですか?」
「いいえ。ですが身を捧げた人達は誰も戻ってきません」
「ここに男達は?」
「ある祈祷師と下僕が数人。私達が死なないよう定期的に食料を配りに来ます」
「……それで、さっきフタバちゃんはなんと?」
「貴女の持つその刀ならもしかすると……」
「────神を殺せるかもしれないと」
力無く微笑むアズサと私に縋り付いたままのフタバ。
そんな母子に掛ける言葉が見つからず、刀に手を置いた。
「刀が温かい……」
何故か熱を帯びた二本の刀。その熱に体が滾る──。
「退治するためにも、この足を治さないと」
「退治って……真樹さん……」
「私は戦えます。それに、数日中には誰か迎えが来るはずなので皆で脱出しましょう!」
迎えが来る保障なんてないのだけれど……
【オロチ谷での生活】
なんにせよ、先ずは足をどうにかしなければ。
小屋にあった鎌を借りて外に生えている蔓を刈り、それと棒切れで手頃な杖を作った。松葉杖とまではいかないが、これで大分動ける。さてと。
豊富に生えた薬草を摘んで再度沢へ。すると、後をついて回るフタバが不思議そうな顔で私の額に指を差した。
気づかなかったが、どうやら落ちた時に切ったらしい。
「もう血は出てないよ。ちょっと痛いけどね。ふふ……」
「んふふふ!」
「おいで、顔拭いてあげる。冷たくて気持ち良いよ」
「ひゃ、ひゃ~、きゃははは」
いつの間にか、すっかり仲良くなってしまった。なんだか里の子供達と一緒にいる感じがして気が安らぐ。
それにしても綺麗な沢だ。魚は……いた、沢蟹も!
「そうだ、いいこと思いついた」
器に沸かした水と黄色い兵糧丸を入れてかき混ぜる。
昨日口にしたものとは味が違うが、脂っこい塩気と少しの甘味……これは美味しい。
「少し味見したい?」するとフタバはごっくん! と全部飲んでしまった。
まあ大丈夫だとは思うけど……。気を取り直してもう一粒試してみることに。残るは赤茶色と抹茶色だが、抹茶色は臭いからして違う。
「甘くて苦い……これは薬かも?」
とにかく今は薬効があるのならなんでもいい。そう思い、水で溶いて一気に喉へと流し込む。
私が思うに、兵糧丸の赤は興奮、黄は滋養強壮、緑は薬で間違いないはず。赤さえ食べければきっと大丈夫だ。
フタバはなにをするのにも興味津々。だったらもっと色々手伝ってもらおうかな。
家に入って火を起こした後、一緒に食料を調達しに行く。捕った魚をアズサに焼いてもらう間、小屋の周りに生えた邪魔な蔓を刈り集める。
焼けた魚に食欲を見せないフタバ。
その説明ついでに、アズサにもそれを飲ませてみた。
「兵糧丸?」
「非常食なので子供が食べても大丈夫。あとでもっと魚を捕ってきます」
「あまり無理なされては足の具合が……」
「いいえ、これくらい日常茶飯事ですから」
「たくましいですね……」
「私も含め、私の里は身無子ばかり。生きていくためにはすべて自分達で切り開いていかなければなりません」
「絶望しないのですか?」
「……しても仕方がありません。なにより、拾ってくれた方々に恩を返すのが先ですから」
そして食事を終え、再び小屋の外に出た。
【オロチ谷の男達】
辺りが薄暗くなってきた。
「フタバちゃん、汗流しに行こうか!」
深くない岩場を見つけて服を脱ぎ、怖がるフタバを招いて手ぬぐいで体を拭う。
日中あれだけ動いたというのに痛みは殆どない。兵糧丸が効いたのか、それとも早く冷やしたことが良かったのかは分からないが、経過が良好なのはなによりだ。
「少し潜ろっと。「水遁」……ぷわ! あはは、冷たくて気持ちいい~」
「きゃ~、きゃはは」
小屋に戻るなりフタバが寝付く。なんだかあっという間の一日だった。
娘の寝顔をどこか思い詰めたかのように見詰めるアズサ。それを横目に、薬草を額に貼って頭巾を浅めにかぶる。
「アズサさん、退治が済んだら私の里に来ませんか?」
「え……?」
どんどん!
突然食料を持ってきた二人組の男。
「何者だ? 一体どこから……」と、私に気づきながらも慌てる素振りはなく、淡々とした様子。
「沢で負傷していたところを助けていただきました。もしよろしければこの谷について教えていただけませんか?」
「……いいだろう、来い」
不安がるアズサに小さく頷き、男達についていく。
ぼさぼさ頭に土気色の肌、そして表情のない顔。なんとも不気味な男達だ。
小屋から少し離れたところにある大きな古寺。その中には小さな明かりの前に一人の老人が座っていた。
「……お主何者じゃ? どうやって谷へ来おった?」
「私は真樹。山で足を滑らせ、気づくと沢におりました。あなたがこの谷の長ですか?」
「ここはバアルさまの巣穴。わしは八門。ただの老いぼれ祈祷師じゃ」
その老人には眼球がない──と、彼は笑い声を上げた。
「ひゃっひゃっひゃ、目はバアルさまに捧げてもうなにも見えん。神と交信出来るようになったとはいえ、まったく不便でならん」
「神と交信……あの、バアルとは一体……?」
「わしらが崇める蛇神様じゃよ」
ごごご……
突然の地鳴り。だが、どうやら地震ではない。
「神は余程空腹の御様子。恐ろしいのう」
「あの母子を生贄にするのですか?」
「左様。母親の方はどうでも良いが、あの幼子ならきっと神も気に入ろう」
「どうして生け贄を捧げるのですか?」
「亡者を救えるのは神のみ。と、言ったところでお主には解るまい。古来より蛇神は水の神であり豊穣の神。そして女を食らう男神」
そう言って不敵に笑う。
【祈祷師の八門】
「一体いつからこのような儀式を続けているのですか?」
「さあ……もう何年になるのかのぅ……大勢の亡者が天に召されていきおった」
「亡者とは?」
「生きる望みを捨て、ただ死を乞う者」
「助けようとはしないのですか?」
「神に会う──それこそが唯一の救いなのじゃ。亡者らは皆己の足でこの谷に来た。あの母子も同様に。わしはその道案内をしているに過ぎん。……ここは生と死の狭間よ」
……この老人は常軌を逸している。
私は理解できない。いや、なにより気味が悪い……
女は生け贄──ならば、よそ者の私でも問題はないはず。
「──あの母子の代わりに私が参りましょう」
「……なんじゃと?」八門の表情が曇る。すると、不快な気配が纏わり付いてきた。
まるで全身を舐め回されているかのようだ。
「……相手は神。お主は命が惜しくないのか?」
「神かどうか、この目で見定めたいと思います」
「もし神でないとしたら……どうする?」
「退治します」
「ほお、神殺しを目論むとはなんと豪気な娘……じゃが、どうしてお主はあの母子に肩入れする?」
「あの母子には助けてもらいました。それに、まだ三つの幼子を見殺しにはできません」
「憐れな子じゃが親が亡者では救いようがない。それでもお主は身代わりになろうというのか?」
「既に決心しました。必ず生きて戻ります」
「そうか、それは残念じゃ……」
そう言って彼は、ぼきぼきと指を鳴らして笑った。
「……なにが可笑しいのですか?」
「すまぬ、生きて戻れると思うお主が愚かしくてな」
「私が愚かしい?」
「お主からとても強い生気を感じる。勿体ない……生きる価値なき者の為に自ら人柱に立とうとは……勿体ない」
「貴方は神を見たのですか?」
「さっきこの目を捧げたと言うたろう? ……明日の晩、お主を迎えに行く。それまで別れを済ませておけ」
そうして堂を後にした。
小屋近くまでついてきたはずの男達はいつの間にか消え、前からフタバが泣いて飛び付いてきた。大して長居はしていないのに、心配掛けてしまったみたい。
「話はつけました。明日の晩、迎えに来るそうです」
アズサはなにも言わずにうなだれたまま。私の身を案じてくれているのだろう。だが、私に恐怖はない。明日までにどれだけ足が癒えているか──気掛かりなのはそれだけ。
離れないフタバの髪を撫で、里で帰りを待つ子供達の事を想う。
今頃、心配してるだろうな……